雨鬼 ー 3
ホズミ スミレは、じっと息を潜めてうずくまっていた。
彼女はこの大学に在籍する二回生で春からは本格的に研究室へ参加し、ようやく自分の好きな学問についての研究が行うことができる——そういう希望に満ちたキャンパスライフが始まるのだと想像していた。しかし、目の前の現実はもっと暗く、陰鬱で、湿っている。
天井の方から何かが大きく崩れるような音が響いた。それと同時に棚の上に積もっていた埃が部屋中に舞う。彼女は咳き込みながら、あの巨大なバケモノが、また学校を壊しているのだろうか? と考えた。この問いに答えてくれる人は周りにいなかった。
いったいいつまでここに隠れることができるのだろうか。
いつ、あのバケモノがここを探りあてて、私を殺しに来るのだろうか?
ここから一刻も早く移動するべきだろうか?
移動するならばどこへ行くべきだろうか?
一度不安が生まれると、それを引き金として連鎖的に不安が生まれてしまうものだった。
「……落ち着け。落ち着くんだ。ホズミ。
ゆっくりと息を止めて————自分を殺すんだ」
右目は赤で左目は緑。そっと目を開ける。それは彼女の癖や心掛けのようなものだった。
自分の心の内側にある不安や偏りを取り除いて、あるがままに、かつ努めて客観的に物事を判断する。そうすれば決して致命的な間違いを犯すことはない。少なくとも、二十年余りの短い人生の中で、自分が強く後悔したことはなかった。ただ、これから二度と後悔などすることができない骸となってしまうかもしれないが。
「あの巨大な怪物が地下まで来る手段はない。それから、小さな人型の怪物が私を見つけていない時は、宛てなく放浪をしている。彼らは私に対して強力な敵意をもっているようだけれど、積極的に探すようなことはしない。ただ、放浪しているだけ。彼らの目的はわからないけれど」
少なくとも突然暴れ出したり、物を壊すような素振りは見せない。つまり、先ほどの衝撃は、上の巨大な怪物を動かすだけの
「誰かが来た? その可能性は大いにあるけれど……ここから移動するべきなのかな」
結局のところ、この思索は自分が持つ疑問の解決にはならなかった。周囲を見渡す。地下体育競技場の更に地下にある、備蓄庫。災害などの非常時の際に都市行政と連携して一時的な避難所として機能するこの場所には、数日はおろか数年は保つであろう量の食料と水がある。ひとまずここは安全だ、という確信が彼女にはあった。わざわざ危険な場所へ足を運ぶ理由があるのだろうか?
ぞっと、背中が冷えていく感覚を覚える。振動の調子が変わったのだ。
「音が……小さくなった? あのバカでかい怪物が何処か遠くへ移動したのかな。なら」
ならば、チャンスかもしれない。思わず彼女はそう考え、周囲にある備蓄を手当たり次第に自分のカバンへ詰め込んだ。次、また再びここを訪れることができるか、まったく予想もつかないからだ。
「ほかの人に出会えれば心強いんだけど——……っ!!」
棚から落ちた缶詰が手にあたり、思わず腕をひっこめる。急いだあまり手元が狂ったと思った彼女だったが、すぐにその考えが間違っていることに気づいた。
「痛たっいなぁ。もう……」
地面が揺れている。細かく、静かに。
彼女の両耳が、カタカタと棚の上の備蓄が振動している音を捉えた。地震だろうか? そんなはずはない。ここは故郷と違う。大陸の真ん中、プレートの境界線から遠く離れた
不意に彼女はぞくりと寒気を覚えた。カバンに荷物を詰めるのを打ち切って、バネのように部屋から離れ、地下一階のラウンジへ出た。正面の鉄柵の向こうにはコートが8面ほど並んでいる。そこにはあの小さな怪物が徘徊していて、この些細な揺れに反応している様子はない。
しかし、その光景は一瞬のうちに、文字通り
コートの中央へ、落下している。瓦礫と、怪物たちが地上から
「非常階段……そこまで避難しないと」
このまま建物の下敷きになるのだけはごめんだ。彼女はカバンを手に、廊下をまっすぐ走って非常階段を目指した。しかし、ガンという大きな音とともに地面はまた傾き始める。さらに運の悪いことに怪物がここにも潜んでいた。いったいこれだけの数が、どこから来ているというの? 彼女は自分の不運を恨みながら、走るスピードをあげるために足にめいっぱいの力を込めた。彼女はもとより運動が得意な方では無いが、今は自然と身体の内から力が溢れていた。
彼女は旋回して遠回りするのではなく、怪物と怪物の間をすり抜けることに決めた。逃げたところで、それは問題の先延ばしにしかならないと悟ったのだ。ひとつもの抵抗で、手に持っていた缶詰の入ったカバンを怪物の片方に投げつける——しかし、カバンは怪物にあたらず、
ホズミは怪物二体の傍を転がるように通り抜け、前に見える非常用階段へ繋がる扉まで駆け寄った。自分は賭けに勝ったのだ。とホズミは息を切らしながらドアノブに手をかける。
「……なんで!?」
しかし、いくら力を込めても扉はびくともしなかった。焦りで手が震える。振り切ったはずの怪物の気配がまた、すこしづつ近づいてくるのを感じる。二度、三度と力任せにドアを引く。鍵がかかっているのではない。ほんのわずか開いて、何かがひっかかって動かないのだ。
「嘘でしょ!! どうして?!」
彼女は思わずパニックになったが、無常にも扉は堅く閉ざされたままだった。
幽鬼どもの手が彼女の首筋に手をかける。血の通っていない。あまりにも冷たい手だった。
声が出なくなる。掠れた吐息が喉から溢れるだけだった。
「——離れろ」
不意に扉の奥から声が聞こえた。驚きか、反射か、彼女は思わず数歩後退りする。
真一文字。そう表現するほかないほど鮮やかに、一瞬の吹き抜ける風とともに、扉は切られ、崩れた。
「
崩れた扉の奥からは和装のようなすこし変わった衣装を身に纏った、黒い髪の青年が刀を片手に現れた。
「とはいえ、この競技場から脱出しよう、というキミの判断は正しい。この時雨の中では完璧なセーフティーゾーンというものは存在しないのだから」
目を丸くする彼女の横を通り抜け、青年はその刀で彼女の後ろの怪物を、造作もない手慣れた様子で切り払った。任侠ドラマの撮影の目前に立ってるのではないか、と思わず錯覚してしまった。青年は刀を肩から掛けていた楽器ケースの中に入れる。それからこちらを振り向いて、お互いに目があった。
「キミがホズミ スミレだな。依頼により、キミを現実世界まで安全に引き戻すことになっている」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます