雨鬼 ― 4

 上階へ続く階段を登りながら、イトと名乗る青年は護衛対象であるホズミに簡単な説明を始めた。先ほどの衝撃によって階段が崩れるなどの被害はないが、階段そのものが傾いていた。ホズミはすこしだけ、自分の通っている学校が、というよりも本来疑うべきではない地面までも不安になってきた。


「その懸念は常に捨てずに持っておくべきだ」


 ホズミの深刻な表情を見た彼はそう言った。


「俺たちはあの怪物を雨鬼うきと呼んでいる。今、競技場を落下したのも、自分が斬り伏せたのも同じ雨鬼だ。彼らは——ちょうど、俺たち人間にひとりとして同じ姿形を取るものがいないように——多種多様の姿と性質を持つ。大まかな分類分けを試みている学者もいるが、いや今、その話をするべきではないか。

 とにかく、彼らにひとつとして同じものは無い。前例や常識を過信すぎるとそれに足元を掬われて命を落とすことになる」


 二人は階段を登った先にある防火扉から外へと出た。未だ外は暗い。太陽は灰色の重たい雲によって隠されている。


「あなたは軍の兵士か、何かなんですか?」

「そう見えるのか?」

「いや、そうは見えないけれど……」


 やや珍しい服装と、普通の人間であれば入手することのできない刀さえ無視すれば、イトの風貌は学生といっても差し支えないものだった。ただし、もっと精神的なところ若さから出るはずの溌剌さを感じない。常にシビアな世界に身を置いていた、それこそ兵士のような雰囲気をホズミは感じ取った。もちろん彼女は兵士という存在をドキュメンタリー映画やアニメの中でしか見たことが無いのだが。


 彼は自分を研究者だと名乗った。研究者がわざわざ、学生である自分を助けに来たというのも、彼女は奇妙な話のように聞こえた。治安を守るために雲藍から派遣された、特殊な訓練を受けた兵士、という方がまだ十分納得ができる。


「まぁ、いい。とにかく急ごう。キミをこの時雨じうへりまで連れていく。そこまで来れば、ひとまずは、雨鬼に殺されるような心配はしなくて済む」

「縁? その場所が、この奇妙な空間の終点? 

 そこに行けばここから脱出できるってことですか?」

「後者の質問に関して言えば正しいが、前者について言えば間違いだ。

 縁へ向かえば脱出できる。とはいえそれも、というわけにはいかない」


 大学の校舎内には、徘徊する雨鬼がちらほらと見えた。しかしそれらは慎重に行動すれば、特別警戒するほどでもない数だ。イトと名乗った青年は、初めて会った時に話したように、たしかに彼女の護衛をしていた。しかし、わずかばかりの不信感もあった。正確には彼女は、現状の摩訶不思議、あるいは超常と呼ぶべき目の前の状況に、まだ考えの整理ができていなかった。


「時雨って『雨』の一種じゃないの? 雨雲から離れれば雨は止むでしょう?」

「時雨は『時』のことだ。ホズミ。この時雨現象は空間的なものではなく、時間的なものなんだ。非連続的な時間の繋ぎ合わせ、あるいは本来連続的であるはず時間の断裂。それが時雨のメカニズムであり、正体だ」


 ここにホワイトボードとペンがあれば簡単な講義をしてもいいが、それは今じゃ無いな。とイトは呟いて、それから、ふと立ち止まった。あまりに突然のことだったので、彼のすぐ後ろを歩いていたホズミは彼の背中にぶつかりそうになる。


「ホズミ。キミがここの学生なら第七号会館の場所はわかるな?」

「第七号会館? ええと、理学部キャンパスのことですか?」

「一旦、ここで別れよう。気をつけて進んでくれ」

「え。護衛は?」


 二人が歩いていたのは第十六号館会館であり、工学部の研究室が並んでいる。この会館は大学の施設内におおよそ数字の並びと同じように建てられている。つまるところ十六号と七号の間にはおおよそ八棟の建物が並んでいる。雨鬼を避けながら歩いていくにはやや距離がある。


「これを渡しておく。返さなくていい」


 そう言って彼はステンレス製のケースを渡した。ケースの縁には炎のような紋様が刻印されており、蓋をスライドして開けると中には二丁のナイフが出てきた。両刃で、特殊な材質でできているのか、照明の光を受けて、銀色の不思議な光沢を持っていた。不思議に思った彼女がナイフの刃に触れたところで、イトから手首を掴まれて静止された。


「これで戦えって言うの?」


 ホズミが怪訝な表情で尋ねると、イトは声を潜めて答えた。


「これは特殊な材質で構築されている。雨鬼に対して、キミの力でも十分心強い武器になるはずだ。ただ——」


 それから何かを気にするように遠くを見た。彼には彼女の知覚することのできない何かを感じ取れるように見えた。すこし焦りのようなものも感じる。


「——ただ、非常に脆く、たとえば地面に落としたりすれば粉々に砕ける。使えるのは一度きりだ。だから戦えとは決して言わない。慎重に行動し、どうしようもなくなった時の奥の手として使ってほしい」


 イトはここまでずっと考えていた。自分は一度、あの巨大な雨鬼を迂回し、彼女のいた地下体育競技場へ向かった。しかし、あの巨大な雨鬼は、それを判っていたかのように先回りしていた。加えて、あれは自分ではない、何者かからの攻撃を受けていた。


「慎重に、ただし急いでくれ」


 そう言ってイトはホズミの背中を見送った。彼女はやや困惑した表情でイトがあらかじめ示した道を辿って、彼の視界から消えていった。ひとつ大きなため息を浮かべて、窓から外をみやった。


 あの雨鬼には自分がまだ知らない固有の性質を持っている。それはイトにとって現状、特段気に掛けることではない。それは自分が与えられた仕事に影響することではない。


 しかし、もうひとつの懸念点については。学内に潜伏する自分以外の存在と、その危険性については、これから測る必要があった。


 イトはその場を振り返り、自分たちを尾行していた灰色の髪の男を見た。韵花ユンファが差し向けた監視ではない。黒いコートと、その脇から見える男女兼用のスカート。この男の顔に見覚えはないが、イトはこの制服を知っていた。


「こんなところまでパトロールとはな。雲藍ユンランの警察には感心する」


 妙な緊張をイトは感じていた。目の前の男は只者ではない。

男は不敵に微笑みながら、目を細めイトのことを観察していた。そしてそれからゆっくりと口を開く。細く、しかし芯のある声だ。


「……貴方は、ここで何をしているのですか?」

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