Re:11/6お題「面」
浅い波が押しては返すような眠りの中で、耳に違和感を覚えた。
陽光に熱された小石がいくつも押し寄せてくるような質感と温かさだった。海の水もぬるく耳朶を濡らす。
蚤の市で買った安物のピアッサーで穴を開けようと奮闘したときのような鈍痛に意識が覚醒した。
目を開けると、
「お前、何してんだ」
耳朶に残る鈍痛は現実のものだった。指で触ると、いやに湿っている。
「まさか、噛んだのか?」
「だって、
信じられないことをする奴だと呆れたとき、扉の向こうから異音が響いた。錆びついた鋸を引くような低く不快な音階だ。
俺はシーツごと玉舎を抱え、壁に背をつけて身構える。
「あれが聞こえてたのか」
「ずっと……ここに来てから毎晩聞こえてたんだけど、換気扇か何かの音だと思ってて……」
「毎晩?」
思わず問い返す。こんな音が毎晩聞こえていたのに、今まで一度も気づかなかったのか。
「何ですぐ言わなかったんだよ」
「だって、樹、毎晩電池切れたみたいに寝て朝まで一回も起きねえしさあ!」
玉舎が焦れたように声を上げる。
確かにそうだ。環境の変化と激務で疲れているせいだと思っていたが、俺は昔から夜型の人間だった。大人になってから日付が変わる前に眠ったことはほぼない。ここはやはり異常だ。
音は低く重く響き続けている。玉舎は今までこれをひとりで耐えてきたのか。
俺は生首を抱える腕に力を込めた。
「悪かった」
「別に、樹のせいじゃねえよ……」
音が徐々に近づいてくる。俺は荷物からナイフを取り出し、右手で握りしめた。
一際大きな音が響き、それ以来、ぱったりと何も聞こえなくなった。全身に寝汗が冷え切って寒いほどだった。エアコンの乾いた温風が吹き付ける。
俺は玉舎を抱えたままベッドに倒れた。
「明日から本格的に奴らが何を隠してるか探ってみる」
玉舎が答える前に、目の前が仄暗くなり、また意識が闇に落ちた。
翌朝、目の奥が痛むの堪えて、分厚い赤の絨毯が敷き詰められたロビーを訪れた。
樫木のフロントの前に設置された島の観光案内パネルは、やはり年季が入っていた。
古城のような内装には合っているが、山の稜線が筆で描かれた古文書のような地図は、客に見せるにはあまりに不親切だ。
地図中に貼り付けられた手描きのポップや写真がなければ地図として機能していないだろう。
俺が首を捻っていると、左門が螺旋階段から降りてきた。
「おはようございます。
俺は挨拶を返し、左門が両手に提げたボストンバッグに気がついた。
「客の荷物ですか。チェックインの時間にはまだ早いのでは」
「そうなんですけど、早く中で休ませてあげたくて……あ、日吉さんに許可を取った方がよかったですかね」
「そう思いますが。その客は体調でも悪いんですか」
左門は首を横に振り、目を細めて笑う。
「お腹に赤ちゃんがいるですよ」
てっきり夫婦が現れるのかと思ったが、ロビーに入ってきたのは、まだ学生と見える若いカップルだった。
大きなヘッドフォンを首にかけたぼんやりした印象の男と、彼より更に若く見える女だ。クリーム色のマタニティドレスを纏った女の腹は風船のように膨れている。
あの写真に写っていたカップルだ。嫌な予感が胸を過ぎる。
男女は豪奢なエントランスを見回して子どものような声を上げた。
「すごい綺麗なところ。高かったでしょ。みーくんお金大丈夫なの?」
「いいじゃん、ふたりで旅行できる最後の機会だし」
「来年からは三人だもんね」
左門は微笑ましげにふたりを見ていたが、俺の胸には先程とは違う、もっと卑近な疑念が湧いた。
「左門さん、大丈夫なんですか」
「え、何がですか?」
「奥さんどう見ても臨月でしょう。ここで破水されたら対処できませんよ。離島ではすぐに医者も呼べないでしょう」
「離島にはお医者さんがいるんじゃないんですか? Dr.コトーみたいな」
俺は呆れを顔に出さないよう努める。この状態で旅行するこいつらもこいつらだ。
左門は何も気にしていないように夫婦と会話を続けた。
「おふたりは新婚旅行ですか?」
「まだ入籍してないんです。お父さんとお母さんに反対されちゃって」
女の方があっけらかんと笑った。
怪奇現象を突き止めなければいけないというのに、ここに来てまた別の問題が舞い込んでくると思わなかった。
俺は表情を変えないよう、短く尋ねる。
「ご旅行に関してご両親はご存知なんですか。何かあった場合こちらでは責任を負いかねますが」
「大丈夫です、何かあったら俺が説得するんで」
「みーくんはやればできる子なんですよ」
ふたりは何も考えていないような顔で笑い合い、観光案内のパネルの方に向かった。
俺は小声で呟く。
「ヤレばデキる子ってか」
「閑田さん!」
左門が顔を赤くした。
俺は改めてカップルの背中を見つめた。
確かにあのふたりは廊下の写真に写っていた。だが、今の反応からして、このホテルに来るのは初めてらしい。
それに、写真の中の女も妊娠中だった。
見た目がほとんど変わっていないから、せいぜい昨年か一昨年に撮られたとして、第二子をもうけたと思えなくもないが、あの若さで両親に結婚すら反対されながらそんなことをするだろうか。
何かがおかしい。
日吉と
プランターを乗せた代車を転がして右往左往し、入り口に造花のリースを飾り付けている。
今が好機かもしれない。
俺は掃除をしているふりをしてロビーに戻り、観光案内のパネルに向き合った。
古びた地図に貼り付けられたダイビングスクールの広告や、アスレチック場の写真を一枚ずつ捲り上げる。何か聞かれたら拭き掃除をしていたと答えればいい。
一枚剥がすごとに、葡萄茶色のインクで描かれた川や坂道が顕になり、島の輪郭を覗かせる。
温泉に浸かる猿のマスコットキャラクターを剥がすと、下から矢印のようなものが現れた。
地図の東西南北を示す印だ。心臓が大きく波打つ。
本来なら矢印の先端は上を示しているはずだ。
だが、これは下を指していた。地図が上下反対だ。
俺は口元を覆う。
だから、わざと古い地図を使ってわかりにくくしていたのか。初日にバスに乗ったとき、港から随分離れたと感じたのは思い違いじゃなかった。
東西が真逆なら、この日吉館が建っているのは南。猿の生肝を捧げたという神社がある、禁足地のど真ん中だ。
指先が震え、猿のイラストが床に落ちる。絨毯にへばりついた紙の裏側に、何かが描かれていた。
簡略化されたマスコットとは異なる、古めかしく禍々しい、木彫りの猿の面だった。
黒い空洞の瞳が俺を見上げていた。
夜花火と蜘蛛と生首の旅 木古おうみ @kipplemaker
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