Re:11/5お題「旅」
夕方の業務は大浴場の清掃だった。
しばらく使われていないようで、大理石を模した床も、深海のような青いタイルの風呂も、薄く海が透けて見える窓も、水垢で汚れきっていた。
デッキブラシに洗剤をつけて床を擦ると、弾力のない泡が広がって、首を絞められている人間の唇から溢れた唾液のようだと思う。
浴槽の隅には金色の獅子の顔が取り付けられていた。客が入るときには薄く開いた口から湯を吐き出すのだろう。
足が濡れて寒いし、肉体労働に慣れていない腕が早くも張ってきたが、ここは静かでよかった。増え始めた客と顔を合わせる必要もなければ喧騒も届かない。
いつか
「ひとりひとりの夢を実現する永遠の桃源郷か……」
俺は無心で蛇口を雑巾で擦り、水垢を落とす。空と海の青が混じり合った穏やかな日差しが差し込み、床に水紋のような反射を作った。
風呂の掃除を終えると、日吉は客を迎えるように深々と礼をした。
「お疲れ様でした。お寒かったでしょう。お客様への開放は明日からになりますので、本日は
俺は会釈を返しつつ日吉を観察する。ふたりとは俺の左門のことのように思えるが、「順番に」「それぞれ」と言った。玉舎と、左門の連れている生首のことか。
疑念は残りつつ、仕方なく玉舎を風呂に連れて行くことにした。
ここに来てから部屋で転がしっぱなしのこいつに旅行らしいことをさせてやる機会は貴重だ。
着替えとタオルを突っ込んだトランクケースに玉舎を押し込み、ファスナーを半分抱えて移動する。
「すげーじゃん、一番風呂だよ。しかもさ、普通の家じゃなくホテルの一番風呂だよ。貴重すぎない?」
玉舎は声を押し殺しつつ目一杯はしゃいでいた。夕陽が緋の絨毯を濃い朱に染め上げる暗い廊下も、前ほど不気味とは思わなくなった。
思い返せば、先月はずっとこうしてトランクを抱えて歩いていた。いつの間にかこいつがいることが生活に組み込まれてしまったんだろう。
脱衣所に入ると、レトロな扇風機が暖房で澱んだ空気をかき混ぜていて、服を脱ぐと寒いほどだった。トランクを開いた瞬間、引き戸が勢いよく開いた。
俺は慌ててタオルで玉舎を覆い隠したが、立っていたのはリュックサックを抱えた左門だった。
「あれ、閑田さん。何でいるんですか?」
「……こっちの台詞です。俺は十八時から、左門さんは十九時から使うはずでしたよね」
「あっ、すみません。逆だと勘違いしてました」
リュックサックの中から低い溜息が聞こえた。
「左門、鉢合わせたのが客だったらどうするつもりだ」
「ごめん、
俺が言うべきことは生首が代わりに言ってくれた。
このまま左門が退がるのを待とうとすると、タオルの下から陽気な声が響いた。
「だったら、一緒に入ろうぜ! せっかくだし、おれら中々話す機会なかったし」
「いいんですか?」
左門が嬉しそうに頷く。向こうと違って、俺の相方の生首は余計なことしか言わない。
湯に浸かりながら、玉舎の髪が濡れないよう纏めていると、改めて俺は何をしているんだろうと思う。
金の獅子の口から渾々と湧き出す湯が、孔雀の羽のような波紋を作ってこちらまで届く。俺と左門はそれぞれ生首を抱えていた。
玉舎が仕切りに顔を動かすせいで、濡れた毛先が俺の腕を何度も打った。
「宗兄さんだっけ? いーっすよね、温泉。極楽っていうか、いや、おれら死んでるんすけど!」
「
左門の抱える首は責め苦でも受けているように眉間に皺を寄せていた。
左門が俺に身を近づけ、温かい波が押し寄せた。
「玉舎さんは髪が長いから洗うの大変ですよね?」
「本当それな。樹には頭が上がんねえわ」と玉舎が割り込む。
「じゃあ、一生沈んでろ」
俺が上体を傾けると、飛沫を浴びた玉舎がまた騒いだ。
「僕は宗兄の身の回りの世話するのが下手で、髪も短く切ってるんです」
「髪が伸びるんですか」
「伸びますよ」
考えてみれば、痣が直るのだから髪が伸びても不思議ではない。死体と怪奇現象に関する話なのに、まるでドッグランに来た飼い主の会話のようだ。
左門の身体は俺と同じ仕事をしてきたと思えないほど幼く、湯の下で屈折した腕が少女のようだと思う。
「聞いてもいいですか。左門さんは何でこの仕事を?」
「ええっと、成り行きで……」
左門ははにかんで俯いた。のぼせて普段なら聞かないような話を振ってしまった。
後悔しかけたが、左門は濡れた顔を拭って口を開いた。
「僕の生まれ故郷は、昔話に出てくるみたいな小さな村なんです。本当に現代とは思えないくらい貧しくて、村ぐるみでこういう仕事をしてたんです」
「村人全員で、ですか?」
「はい。いつか大変なことになるってわかってたんですけど、僕は鈍臭いし、村の外で生きていける気がしなくて……いつも宗兄の影に隠れていろんなことをやり過ごしてました」
左門は自嘲気味に微笑んだ。
「……それで?」
「やっぱり駄目になっちゃいました。宗兄が庇ってくれたお陰で僕は生き残ったんですが、宗兄はこんなことになってしまって……」
宗太郎は太い眉を更に吊り上げて黙り込んでいた。
「あ、でも、悪いことばっかりじゃないですよ。お陰でずっと世話してもらってた宗兄に、今は恩返しできてるので」
左門が手を振ったせいで宗太郎が沈みかける。
「ごめん! 大丈夫?」
宗太郎は噎せ返って湯を吐く。生首に対して変な話だが、ようやく人間らしいところを見た気がした。
「大丈夫な訳がないだろ」
「そうだよね、ごめん」
「違う、さっきの話だ」
宗太郎は左門の肩に頭を預け、沈鬱な息を吐いた。
「故郷から逃げ出して、ようやく好きに生きられるようになったのに、お前はずっと俺に縛られている。いい加減自分のために生きたらどうだ」
「そんなこと言わないでよ。僕はひとりじゃ何もできないし……」
「ひとりじゃ何もできないのは俺の方だ」
沈黙を波音が埋める。玉舎がストローに息を吹く子どものように、鼻から泡を吐いて言った。
「あー、ちょっとわかります」
宗太郎が片眉を吊り上げる。
「お前もか?」
「おれがいる限り、樹も普通の暮らしに戻れねえし、負担になってるってどうしても思うんすよね」
俺は玉舎のつむじを見下ろした。
「お前、まだそんなこと思ってたのかよ」
「そりゃーね、ちょっとは?」
玉舎の表情を見る気になれず顔を背けると、金獅子に埋め込まれたガラスの瞳と目が合った。
「俺も思ってるけどな」
「樹が何で?」
「お前には選択肢がないだろ。ひとりになりたかろうが、他の奴といたかろうが」
腕の中で玉舎が揺れ、髪が胸をくすぐる。
「そういうことは言ってくれねーと」
「聞いたら答えるか?」
「おれが本気で言ってもさ、樹は信じる?」
俺は口を噤む。結局は非対称な関係だ。
湯煙の中の顔は四つで、身体はふたつ。俺たちはその後、取り止めのない会話しかできなかった。
洗い場で玉舎の髪を入念に洗っても、腹の底にわだかまった気持ちは泡のように流れてはくれなかった。
気怠い身体を温かい湯が揺さぶる。
ガラス窓から覗く夜の海だけが、ひとの気も知らず燦然と輝いていた。結露した電灯が湯面に反射して、夜空に浸かっているようだ。大した救いにもならない美しさだった。
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