ヘレナの召喚
アーカムのローマ人
ヘレナの召喚
その夜、アーカム中の魔術の徒は一人の女のために酒瓶の封を切った。クラブ・マリオネットのオーナーはワインとビールのケースを暗い森に持ち込み、死霊術師たちは契約の終わりが来た同胞に何度も献杯した。契約の終わりを迎える者を酔いが陽気にし、その後で寝かしつけると、彼らは最後の平穏を妨げぬよう静かに森を立ち去った。
ジェーン・フォスターがピクニックシートの上で寝転んでいると、誰かの気配が近づいてきた。フォスターは目を開け、欠伸をしながら起き上がった。
「あ、先生。やっぱり寝たふりでしたか」
そこにはフォスターの指導していた大学院生、クリスティーン・スペンサーのすらりとした立ち姿があった。酔いどれどもの間にいた割に足取りは滑るように滑らかで、呂律もいつものきっぱりした調子だった。
「私があのまま連れて行かれたと思っている方が、彼らにとっても痛みが少ない」
「君は魔術を学んだことはなかっただろう。いつ入ってきた?」
「まあ、ぼちぼち盛り上がった頃から。先生こそ、いつお気づきに?」
「いくら黒くてシルエットが似ているからと言って、自分の大学のアカデミックガウンを魔術師のローブから見分けられないわけはないよ」
「帽子は我慢していたんですけどね」
クリスティーンはどこからともなく取り出した角帽をかぶった。
「皆、私のことわかっていました?」
「会合で一人増えるくらい珍しくないし、外からのお客は丁重に扱うものだ。何者か知れたものではないからね」
「理にかなっていますね。隣、いいですか?」
フォスターが頷くとクリスティーンは彼女の横に腰掛け、黙って夜空を見上げた。彼女は若くのびのびとして、最後に目にした時と何も変わりがなく、フォスターはそれがひどく悲しくなったのを紛らわすために口を開いた。
「さてと、折角だから最後の魔術をお披露目しよう。何がご所望かね?」
クリスティーンは即答した。
「ヘレナを呼んでください」
「言っておくが、私の魔術が呼び寄せるのは幻影だよ。姿と声を巧みに真似るだけの生きた霧だ」
「わかっています。私も影にすぎないのだから、そんなことはどうでもいい。もう一度だけヘレナが見たい」
若者の切なる視線は痛みにも似たものを含んでいた。フォスターは一瞬にして、二人の学生が致命的な別れを迎えた日を思い出した。
留学生だった某国の王女(本名は別にあったが、自分で決めたヘレナというラテン語名で呼ばれることを望んでいた)の「ご学友」を、王室の崇拝者が白昼堂々と殺害した事件は、何かと物騒なことの多いアーカムでも衝撃とともに受け止められた。フォスターはその昼休みをありありと思い出すことができた。
ボストンのテレビ局が大学構内の植物についての生放送を撮影していた。その一組の恋人たちにカメラが向いたのは、クルーの誰かがヘレナの顔をニュースか何かで見知っていたからかもしれないし、もしそうだとすると、恋人から贈られた真珠の腕輪をはめたクリスティーンの白い腕に王女様が高貴な腕を絡めたのがスキャンダラスに見えたのかもしれない。あるいは、その時のクリスティーンがふっと漏らした自慢げな笑みや風になびく金髪が、撮りたかった「池のほとりで睡蓮を愛でる学生」の映像としてぴったりだったのだろうか。フォスターの目にいとも輝かしく映ったのは二人の姿で、彼女たちの背後のどこに犯人が居たのか、どんな顔をしていたのかを思い出そうとしても無理だった。
たしかに聞こえたはずの銃声すら、フォスターの記憶には残らなかった。ただ血が、噴き出す体液の色が、柔らかな空気の中に散らばった。
魔術があれほどフォスターに力を与えたのは初めてだった。ただ純粋に死を念じただけで、銃を持った男が声も上げずに地面に転がった。しかし命を奪える呪力でさえ、死体に生命を与えることはできなかった。その場で悲鳴を上げていないのはヘレナだけだった。彼女はうわずった声で恋人の骸に何かを語りかけていた。フォスターの知らない言葉で、いとも優しげに。
クリスティーンの博士論文が査読を通過したという報が届いたのはその三日後だった。フォスターのたっての希望で、彼女は博士のアカデミックガウンを着て棺に入れられた。生前のクリスティーンがヘレナの財産で王女と同等の暮らしをしていたことと比べると、ヘレナが予算を出すことを許されなかった葬儀はあまりに質素だった。ヘレナは放埒な生活を理由にして親元に連れ戻され、数年後に遠縁の男と結婚した。
フォスターはベルトを外して地面に輪を作り、人類のものでない言語で大地に呼びかけた。その下に住まう者が最も望まれる姿を取り、望む者のもとへと現れるよう祈願した。森のざわめきの中で、月光が姿を取った。クリスティーンがあっと声を上げた。黒髪の艶めくヘレナが、落ち葉の上に黙って立っていた。その澄んだ茶色の瞳は、呼び出したフォスターにさえ本物と寸分違わぬとしか思えなかった。フォスターはクリスティーンが生前と同じく饒舌な愛の言葉を口にすると思った。あるいは立ち上がってヘレナを抱きしめ、口付けを交わすと。しかしクリスティーンは座り込んだまま、ただ目の前の幻を見つめていた。そして堰が切れたように嗚咽しはじめた。フォスターに聞き取れたのは「どうして私は死んだの」という一言だった。どうしてだというのか。王室の財産を実に鼻持ちならない浪費家二人が蕩尽したから?それがフォスターの教え子で同性愛者で劇作家志望の大学院生を無惨に殺す理由になるのであれば、フォスターがこの世界に僅かばかりの奇跡を起こすために魔術師となったことは全て無駄だったのかもしれない。
「あのね、クリスティーン」
「なんですか」
今や死霊となったかつての教え子は泣きじゃくりながら答えた。
「あれが欲しがっているのは私の魂だけで、肉体は別に要らないんだ。欲しいならあげよう」
クリスティーンが目を見開いた。
「……そんなこと、できるんですか?」
「魂の交換はあまり褒められた術じゃないとされているけれどね。欲しいかい?」
フォスターは間髪入れずに頷いた。
「下さい。私は自分でヘレナに会いに行く」
「きっと君は、そう言うと思った。なら、このヘレナはもういいかな」
「はい。このヘレナは美しいけれど、私が好きな、おしゃべりで騒がしいヘレナじゃないもの」
丁重に退散を願うと、地下の霊はすぐに姿を消した。フォスターは夜空を見上げ、そこに光ならぬ光、闇ならぬ闇が蠢いているのを認めた。
「ああ、時間だ。クリスティーン、君はしばらく消えていなさい。あれを見ずに済むなら見ない方がいい」
「さようなら、先生。本当にありがとうございます」
「さようなら、クリスティーン。楽しんで生きるといい」
クリスティーンは薮の暗がりの中へ姿を消した。初めて独りになったフォスターは、この世を憎むことを自らに許した。
魔術師は立ち上がり、天の裂け目を睨んだ。それは大きくなり、遠近を無視して彼女の方に近づいてきた。裂け目はフォスターを覆い、彼女の脳の中に、精神の中に、魂の中に裂け目は広がった。魔術師は苦痛の叫びを上げたが、その苦痛さえ裂け目は飲み込み、全ては無かったことになった。そして森には静寂が戻った。
ピクニックシートの上に女が倒れていた。突然、彼女は目を開いた。それから新しい手足をぎこちなく動かし、おもむろに立ち上がった。彼女はピクニックシートを畳み、森の道を歩き出した。朝焼けが空を染め上げていた。
ヘレナの召喚 アーカムのローマ人 @toga-tunica
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