第二章 執筆 秋➁

3 秋


 あの日から、約二ヵ月が経過した。

 この期間、私は奏さんに会うどころか、連絡すら取っていない。講義にも出席していないようなので、姿すら確認できていない。部室に行けばいるのかもしれないが、私の方もどこか遠慮してしまって、初めて訪れたあの日のように、一歩が重くなった。先週一度、その重い足を振り切ってドアを開けたのだが、偶然か必然か、彼の姿はそこにはなかった。尊さんとは何度か連絡を取ったが、奏さんの話題になる気配まで持ち込むことはできなかった。

 ということで、私は今、西野さんと再会した日までの夏休みのように、悶々もんもんとした日が続いている。しかも偶然か必然か、あの日と同じように、私の前には今、西野さんがいる。

「ごめんね、わざわざこんな遠くまで来てもらっちゃって」

「ううん! この前は渋谷に来てもらったんだし、おあいこだよ!」

 午前中までのバイトが終わり、家に帰っていた道中、あの日と同じように西野さんから連絡があり、これから会えないかと言われた。この後の予定はなかったし、西野さんが私の家の方まで来てくれると言ってくれたし、何よりあの日以来、私と彼女の距離は、だいぶ縮まった。だから、断る理由がなかった。

 そうして私たちは今、私のアパートの最寄り駅の近くにある、前に行った喫茶店とは比べ物にならない、率直に言えば、さびれた喫茶店にいる。休日の午後にもかかわらず、私たち以外の客はほとんどいない。

「それにしても、京王線って初めて乗ったよ! なんか、色々電車あるんだね! 特急とか、準特急とか、どれ乗ればいいのか全然わからなかった!」

「確かに。私も最初、全くわからなかった!」

 京王線の中でも西寄りの、裏を返せば八王子にある我が大学に近い私の家の最寄り駅は、本当に東京かと思うほど、落ち着いている。同じように上京してきた人たちの中には、このギャップにショックを受けていた者もいたが、私はむしろ、大歓迎だった。

「もうあれから、変な問題とか起きてない?」

「うん! 大丈夫! あの件は、本当にお世話になりました」

「私は何もしてないよ!」

 そのような余計な雑踏がないため、彼女はこの街にいても、どこか居心地が良さそうだった。

「あの日、朱美と会ってなかったら、たぶん私は今でもあれを続けてた。だけど、朱美と会えたから、自分を見つめ直せたし、奏さんにも会えた。だから、本当に感謝してるんだよ?」

「美月……。うん、ありがと」

 今の西野さん、いや、美月は、髪型も高校時代のような黒髪のストレートに戻し、服装も季節の関係はあるが、露出もなく、色も落ち着いている。相変わらずの美貌以外は、この街にいても遜色そんしょくない。

「そういえば奏さんは?」

「……、最近連絡取ってないんだよね」

「あ、そうなんだ。でも、なんで私に連絡先教えてくれないんだろう。嫌われちゃったのかな……?」

「違う違う! それはないから安心して!」

 私も正直、理由はわからない。美月から連絡先を訊かれたら、百人中九十九人の狼は喜んで贈呈するだろう。残りの一人は奏さんのような変人か、もしくは、美月をうるわしい借金取りやスパイかなんかと勘違いしている妄想男だろう。もしかしたら、奏さんはそれに該当しているのかもしれないが。

「そういえば美月、どこかのサークル入ったの?」

 美月のLINEのアカウントのトップ画像が、それを思わせるものに変更されていた。

「うん! 大学で唯一仲良かった娘が入ってて、それで誘ってもらったんだ!」

「へー! そうなんだ! ちなみになんのサークル?」

「ボランティア! 楽しいよ! みんな優しいし!」

 ここでわざわざ「前と違って」と付け加えないあたり、やはり美月は性格が良い。そんなことを想像する、私の性格が悪いだけかもしれないが。

「私、本当に、あの日から前を向けるようになったんだ。それまではボランティアなんてって内心思ってたんだけど、いざやってみたら楽しいし、仲間もいっぱいできた。でも、そんな風に素直になれたのは、本当に、朱美たちのお陰」

 神が直々に与えたようなその瞳が、私のレンズを射抜く。

「本当に、ありがとう!」

 眼鏡がなかったらきっと、私は心ごと、彼女に射抜かれた。

「……、ドラマ、みたい」

「え、ドラマ?」

 慌てて、何かの言葉を模索する。

「え、えっと、美月、ドラマの女優さんみたいに綺麗だなーって」

「え、なにそれ……! ちょっと、やめてよ……!」

 照れた彼女の顔が、余計に愛おしくなる。

 でも、ふと、一筋の曙光しょこうが頭に浮かんだ。

 私がもし物語をえがけるなら、彼女の存在を、上手く、お話の中に取り入れてみたい。

「これからも、よろしくね!」

 それぐらい彼女は、人々を、幸せにしてくれる。

「うん! もちろん!」

 だから私も、彼女を、人々を幸せにする、物語を描きたい。


 その後、近況報告や何気ない世間話、美月の新しいバイト先の話、さらには高校の頃の思い出話などで一時を堪能し、その日は解散した。本当は前のように、ディナーも一緒に楽しもうと思ってくれていたみたいだが、明日のボランティア活動が朝早くからあるため、それは今度の機会ということで、今日はお開きとなった。

「やっぱり眼鏡、外してみたら?」

「え?」

「朱美は絶対、もっと、可愛くなれるよ!」

 そう置き土産を残して、美月は帰っていった。私にとって彼女の言葉は、全くもって、黒い色を帯びない。白く、透明な意味が、直接私の胸へと昇華される。こういう人が美しい物語には必要なのだと、強く、そう思った。

 したがって、夜はフリーになった。いつもは近くに住む先輩の家にお邪魔することもあるのだが、今日は友人の家に泊まりに出かけているらしく、その選択肢もついえた。

 そのまま一人で夕食を食べ、少し前から独りでに始めたルーティンにふけっていると、突然スマートフォンが鳴った。それと同時に、もう0時を回っていることに気付いた。明日は日曜で何も予定がないため、油断してルーティンに熱中しすぎた。

 眠くなってきた身体を起こし、スマートフォンの画面を見ると、眠気が全て吹き飛んだ。

「……はい、もしもし?」

「……、朱美か?」

 約二ヵ月ぶりの、彼の声だ。

「……、それ以外、誰がいるんですか?」

「……、まあ、それもそうだな」

 約二ヵ月ぶりの、彼の言動だ。

「それで、どうしたんですか? こんな夜中に」

「実は、ちょっと、困っていて」

「困ってる? どういうことですか?」

「その……」

 電話越しでも、彼がどんな表情をしているのか、不思議とわかる。

「家に、泊めてくれないか?」

「……、は?」

 ただ、こんな言葉が飛んでくることは、さすがにわからなかった。


 それから約一時間後、インターホンが鳴った。

「うわ、ホントに来た……」

 ドアの前にいる人物が先ほどの声の主だと確認し、ドアを開ける。

「……、お久しぶりです」

「……うむ」

 今までで一番の気まずい沈黙が、二人の間に流れる。

「本当に、来て、よかったのか?」

「……しょうがないじゃないですか。もう、帰れないんでしょ?」

「……ああ」

 会うのも、話すのも、二ヵ月ぶりだ。

「とりあえず、中、入ってください。外、寒そうですし」

「……すまん、ありがとう」

 そう言って奏さんは、かなり遠慮がちに、私の家に入った。

「綺麗にしてるんだな」

「……そういうこと言うの、やめてもらっていいですか?」

「……、すまん。気を付ける」

 一応この一時間で最低限片付けたのだが、いざ言われると、どことなく気恥ずかしい。

 私たちは、そういう関係だ。

「執筆、ちゃんとやってるんですね」

「まあ、一応な」

 私がなぜ、こんな状況になってまで彼を招き入れたかというと、その執筆の進捗が、大きく関係している。

「でも、もう、こんなことにならないように、気を付けてくださいね?」

「ああ、反省してる」

 奏さんは最近、連日再執筆に没頭しているらしい。それで今日、日付的には昨日も部室で執筆していたそうだが、大学が22時で閉まり、しかしいいところだったため、近くのファミレスで続きをやっていたところ、お察しの通り、終電を逃してしまった、らしい。

 そんなアホみたいなことがあるかと耳を疑ったが、ご存知の通りアホの属性を持つ彼の言動と、私に対する下心など想像するだけで恥ずかしくなるくらい微塵みじんにも感じなかったので、一応の葛藤の末に、狼を招き入れることを容認した。本当は彼を招き入れた後、先輩の家に泊まらせてもらえばいいやというリスクヘッジも用意していたが、彼にOKサインを出した後、それがいかに愚かな策だったことかに気付いた。

 したがって今晩、私はこの狭いワンルームで、今までで一番気まずい状況の彼と、一晩を共にすることを強いられた。強いられたと言っても、招き入れることを受け入れたのは自分だけども。

「一時間くらい、歩いたんですか?」

「まあ、そうなるな」

 電車やモノレールはもう止まっていたので、大学の近くからここまで、彼は歩いてきたらしい。

「なんか、すごいですね。信じられません」

「そう言うが、よく歩いていただろう? 俺たち」

「ああ、確かに……」

 思えば私と彼は、しばしば長距離を歩く場面に遭遇した。

 そのときから思っていたが、彼はなぜか、歩くことに関してだけ、無駄にタフだった。

「疲れ、ましたよね? その、」

「なんだ?」

「お風呂、入ります?」

「……え?」

 そのときの感情は、自分でもわからない。

「いや、さすがに遠慮しておく」

「私は、入ってもらって、いいですよ……?」

「そ、そうか?」

「はい。あ、でも、なにか、変なもの仕込まないでくださいよ?」

「するわけないだろう!?」

 そうして若干鳥肌を立たせながら、私の案内に従い、風呂場へ向かった。

 普通の女性はこういうとき、恋人でもなく、ましてや今日初めて部屋に上げるような男性を、風呂に入らせるなどあり得ないだろう。おそらく、私の行動を陰で操っているこの世界の創造主は、相当な変態なのだと思う。

「はーあ、どうしよ」

 一人きりになった部屋で、少し先のことを考える。

 たぶん今晩は、眠れなさそうだ。


「……、奏さん?」

「……、なんだ?」

「……、起きてます?」

「……、その質問は、果たして必要なのか?」

 あまりにも突貫工事で作った仕切りの向こうにいる奏さんを、修学旅行でソワソワする中学生のように、長い夜に巻き込む。

「……、執筆、どんな感じですか?」

「……、まあまあだ」

 いつものベッドで横になる私と、適当な掛け布団さえくれれば大丈夫だと言って、すぐ脇で雑魚寝する奏さんとの間にあるジェリコの壁は、本当に、あってないようなものだ。

「……、もう寝ましょう」

「……、ああ」

 そうは言っても、眠気は全く襲ってこない。知らないうちに、誰かに覚醒剤でも混入させられたのだろうか。明日が何も予定のない日で、本当によかった。

「あの」「なあ」

 奇跡的に、問いかけが重なる。

「……、なんですか?」「……、何か用か?」

 私たちは一体、何をしているのだろう。

「朱美、君から話せ。俺のは別に後でもいい」

「……、わかりました」

 別に、訊きたいことなどなかった。

 なんとなく、彼を、眠らせたくなかっただけだった。

「奏さんは今まで、その、彼女とか、そういう人はいたことあるんですか?」

「……、なぜ訊く?」

「前に私にも訊いたじゃないですか。それのお返しですよ」

 その言葉を境に、十秒ほど間が空く。

「中学のときまでは、いた」

「……! へえ、意外ですね」

 暗闇に紛れて、平静を装う。

「高校のときは、そういうの、なかったんですか?」

「……、色々あったんだ」

 久しぶりに聞いた、「色々あった」。彼があの小説を書くことをやめたきっかけと思われる、「色々あった」。だけど結局、その理由を訊くことができない、「色々あった」。

 聞こうと思えば、聞けたはずなのに。

「……、次は、奏さんの番ですよ」

「ああ、そうか。いや、別に、わざわざ言わなくてもいいことなんだが」

 暗闇に紛れて、彼の方を見る。

「眼鏡、外してみたらどうだ?」

「……は?」

 奏さんが私の家に泊まりたいと言ったときと、全く同じ声が出た。

「いや、さっき眼鏡を外したときの君を一瞬見たんだが、」

 眼鏡を外したときの、私。

「そっちの方が、他人ひとから注目されるような気がする」

 他人から、注目される。

「もちろん君がそういうのは嫌だとか、余計なお世話だとかで気分を害したなら謝る」

「……、奏さんは、眼鏡を外した私の方が、良いってことですか?」

「……、俺は、いつもはコンタクトをつけている娘が、家だと眼鏡をかけているみたいな、そんなギャップが好きなんだ」

 彼は今、私の目の前で初めて、好きな異性の話をした。

「……、気色悪い趣味ですね」

「……、ほっとけ」

 それ以降、私は何も言えなくなり、奏さんも何も言わなくなった。もしかしたら、眠ってしまったのかもしれない。相変わらず眠気の兆しすら見えない私は、さっきの会話を反芻はんすうし、余計に眠れなくなる。

 そのまま時が過ぎ去るのを、ただひたすら、全身で感じていた。


 気が付けば朝焼けが、もうそこまで迫っていた。思わずベランダに出てみる。

 いつか見た春の朝焼けのように、色鮮やかで、清澄で、朧気おぼろげで、空が意思を持ち、自由を謳歌おうかしているような、そんな解放感が、私の胸に突き刺さる。

「あれ、月じゃないか?」

 いつの間にか、奏さんが私の後ろに立っていた。

「すみません。起こしちゃいましたよね」

「いや、ずっと起きていたから大丈夫だ」

 そのまま彼もベランダに出て、私の横に並ぶ。

「それより、あれ、月だろう?」

 ぼんやりと浮かぶ月を指差す。

「本当に奏さんは、月が、好きなんですね」

 私の問いかけを、彼は笑顔で応える。

「月が、綺麗だからな」

 目を閉じる奏さんの横顔を見ながら、私も目を閉じてみる。

 そしてそのとき、二つの、ある言葉が頭に浮かんだ。

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