第三章 出版 秋➁

3 秋


 この前と同じ、黒を基調としたドアが私を待ち構える。

「お待たせ、朱美さん。ささ、どうぞ上がって」

「はい。お邪魔します」

 この前と同じ音を立ててドアが開く。しかし、出迎える声は異なる。

 奏さんの母親と思われる女性に案内され、この前と同じ廊下を通り、この前と同じリビングに辿り着く。机の上にはこの前も置いてあった宅配物が、開封されて置いてあった。

「久しぶり、朱美」

 奏さんは私が来るのを待っていたのか、部屋着姿の前回とは違い、外に出るときのような格好でこの前と同じ場所に座っていた。母親が近くにいるからか、いつもと違って気まずい空気を出さないようにしている。

「それじゃ私、もう出ちゃうから、遠慮しないでゆっくりしていってね」

「え? そんな、悪いですよ」

「ううん、どうせまだ仕事残ってるから、気遣わなくて大丈夫よ。朱美さん、奏くんをよろしく頼みます」

「……わかりました。今日はありがとうございました」

「いえいえ」

 そう言って、奏さんの母は家を出た。

「……すみません、お母さんに気遣わせちゃって」

「ああ、うん、あの人はいい人だから気にしなくて大丈夫だ。ていうか、母じゃないし」

「え!? どういうことですか!?」

伯母おばだよ。去年、君の友達に探偵みたいな人紹介したろ? あの人だ」

「ああ! 美月の! なるほど、そのときの人だったんですね!」

「そういうことだ。七月くらいから母がいないときに、時々様子を見に来てくれるんだ。今日は君に会いたいと言ってわざわざ仕事抜け出してきたらしいが」

「そうなんですか。美月から聞いてたけど、本当に優しい人なんですね」

 ようやく色々落ち着いたところで、この前と同じ場所に座った。

「裁判、どんな感じだ?」

「良くて五分五分、みたいな感じらしいです」

「そうか。やっぱり、あれをひっくり返す証拠を見つけるのはなかなか難しいか」

 相変わらず戦況が厳しいことを口にしたが、そこまで悲観的な話し方には見えなかった。むしろ、私の方が沈んでいるようにすら思える。

「ずっと一人で戦わせて、本当に申し訳ない」

「いえ……」

 もちろん奏さんが言うように、私だけが出廷しているということもあるかもしれない。でもそれは、もう振り返らないと決めたことで、今さらただの言い訳に過ぎない。

「奏さん、思ったより元気そうで安心しました。前会ったときは、本当に自殺するんじゃないかってくらい暗かったのに」

「ああ、確かにそうだったかもしれない」

 その話し方も、出版社に直訴しに行った三月以前の、それより生き生きしていた、去年の執筆中の姿を思い出すほど、心がそこにあった。

「言っても、この前まではそのときと同じような状態だったんだ。なんとなく世間のものに触れて、その一方で、尊とか弁護士の先生からの連絡はあまり耳に入ってこなかった」

 その様子は、尊さんや本城さんからは聞いていた。

「で、一昨日、朱美がまたウチに来るって聞いて、急に俺らの小説読みたくなったんだ。それで、本当に久しぶりに、読み返してみた」

「私たちの、小説ですか」

 『月が、綺麗ですね。』。

「ああ。そしたらさ、自分で言うのもなんだけど、結構面白くて。それと一緒に、執筆してたときのことも思い出した。渋谷とか、動物園とか行ったよな」

「海も行きましたよね。あと奏さん、私の家に押しかけてきた」

「押しかけたって言い方はないだろ」

 この返しも、本当に久しぶりだ。

「でさ、ネット上の評価見てるといろんなのがあって、すごい褒めてくれてるのもあったり、けなされてるのもあったり、そういうのだけは五木あおいの所為せいにしたり、まあ色々見てたんだけど、」

 去年の十二月の目だ。

「やっぱり自分の創った作品って、一番評価してるのは自分だし、一番心を動かされるのも自分だし、一番愛してるのも、自分だってことを思い出したんだ」

 十二月の声だ。

「レビューの一件一件がさ、五木あおいに向けられてるっていうのはわかってるんだけど、やっぱり、その一つ一つが凄く心に刺さるんだ。こうしとけばよかったとか、こういうとこ気付いてくれたんだとか。それで思ったことが一つあって、」

 十二月の顔だ。

「やっぱり俺は、あの小説を取り戻したい。俺たちの名前で正面から評価を受けて、その上で一喜一憂したい。朱美との思い出も、朱美との誓いも全部含めて、俺たちの証として世間に見てほしい。だから、俺──」

 小説が完成した十二月の、希望に満ち溢れた、とっておきの奏さんがそこにいた。

「もう一度、前を向いて生きるよ」

 私は今まで何度も、たくさんの人に励まされ、背中を押され、救われてきた。尊さん、先生、一花、美月、それから、奏さん。

 その奏さんが今、再び前を向いた。それを導いたのは、紛れもない、私たちの小説だった。私たちの生きた証だった。証に届いた、たくさんの人の声だった。

 現在はそれが五木あおい、改め佐々木有紗のものだということはわかっている。それでも世間の人々は、たくさんの声をくれた。私たちの未熟な行ないに対し、心で返してくれた。そうして私たちはその心を受け取り、再び心を返す。このやり取りこそ、世界を明るくしてくれる。世界の傷をいやしてくれる。尊さんも先生も、一花も美月も、奏さんも、そして、私も、そんな世界を望んでいる。そんな世界で思いっ切り生きていきたい。

 だからこそ私は、この道を選んだのだから。

「奏さん」

 準備は整った。

「絶対に、勝ちましょうね!」

「ああ!」

 目を合わせ、心で握手する。

「そういえばこの前、君の高校の先生と話したんだけど、あの人、なんかすごい人だな」

「あ、そうなんですか」

 唐突に先生の話になる。

「その先生って、他の盗作被害者の人とかと会ったりしてくれてるんだろ?」

「そうみたいですね」

「それでさ、一つ、ちょっと提案というか、考えがあるんだけど──」

 奏さんの作戦を聞く。

「へえ、面白いですね。いかにも奏さんらしい、性格悪いやり方というか」

「余計なお世話だ」

 戦いはこれから、集大成を迎える。



「夏目! 頑張れよ! しっかり見てるからな!」

「はい先生! 大野さんも、協力してくれて本当にありがとう!」

「全然大丈夫です! 先生の頼みだし、何よりあの音声聞いたらホントにムカついたんで、今日は徹底的にやってやりますよ!」

「う、うん。彼女、すごいメンタルですね」

「間違いなくウチの高校でナンバーワンの根性持ってるよ」

 裁判は公開の尋問じんもんに移行し、裁判所の入り口付近で平日にもかかわらず来てくれた先生たちと話していると、美月やお母さん、本城さんなども合流し、最後の作戦会議に入った。

「今日はよろしくお願いします。大野さんもお願いしますね!」

「はい! できるだけ言われた通り頑張ってみます!」

 時計の針は、刻々と世界を前に進めている。

「あ! あれ!」

 約束の時間まであと二分と迫ったとき、美月の声が、今日来る予定の最後の一人の姿を指した。

「皆さん、お待たせして申し訳ありません」

 初めて見るスーツ姿、初めて見るビシッとした立ち振舞い、そして、初めて見る眼鏡を外した相貌そうぼうが、そこにはあった。

「ここまで本当にありがとうございました。初めましての方もいらっしゃいますが、ここまでたくさんのご迷惑とご心配をかけてきた分、ここから何とか取り返したいと思いますので、何卒よろしくお願いします」

 普段よりも大人びて見える彼のたたずまいに、美月と大野さんは思わず見入っている。

「奏くん、とりあえず言われた通りできたと思うから、後は頼んだ」

「はい。先生と、それに大野さん、無理なお願い聞いてくれて本当にありがとうございます。本城さんもこれからよろしくお願いします」

「はい! ここから佳境になると思うけど、しっかり頑張りましょう!」

 彼は最後に、私の方を向いた。

「奏さん、お帰りなさい」

「ああ。待たせて悪かった、朱美」

 にっこりと笑うその顔は、あの日よりもさらに際立っている。

「それじゃ、行きましょうか」


「では、名前と年齢、学校名をお願いします」

「はい。大野直香なおか、十六歳、横浜恵成けいせい高校一年です」

 証言台に立つ彼女は、前回の公判で初めて立ったときの私とは比べ物にならないほど、堂々としている。

「大野さんは先日、編集者を名乗る男性に原稿を手渡したのは事実ですか?」

「はい、手渡しました。確か河井さんという二十代後半くらいの方で、作品の出来次第では即デビューできるかもしれないと言われました」

「異議あり。本件とは関係のない事柄です」

 相手の弁護士の横槍よこやりが入る。

「では、質問を変えましょう。それ以来、その男性から連絡は来ましたか?」

「いえ、来てません。こちらから連絡しても繋がりませんでした」

「それはおかしいですね。まるで遊佐さんと夏目さんが受けた被害と、全く同様のやり口ではないですか?」

「異議あり! その趣旨に関してはもう充分審理したはずです。それが詐欺だという確証はないし、そもそもその男と佐々木が繋がっているという証拠は全くありません」

「では、証拠があったとしたらどうですか?」

「は?」

 満を持してその言葉を言い放った本城さんと相手の弁護士の顔は、著しく対照的だった。

「裁判長、これは、今朝資料で提出したとある音声データです」

「音声データ?」

 相手の弁護士が不思議そうな声を出す。

「これはこちらの大野さんが、先日その編集者をかたる男性と面会したときのものです」

「はあ!?」

 佐々木有紗がわかりやすく憤慨ふんがいの声を上げた。

「ま、私が直接録ったわけではないんですけどね」

 大野さんが意地悪な笑顔を浮かべて、私に視線を送った。同時に傍聴席を見ると、先生が「俺が近くの席でやったんだぞ!」と言わんばかりに、自分を指差していた。

「裁判長、再生してもよろしいですか?」

「どうぞ」

 本城さんは裁判長の返答を入念に待って、その音声を再生した。

【あ、有紗さん、今終わりました。一応原稿は確保しましたけど、……正直、なかなか酷い出来なので、あまり期待しない方がいいと思います】

【そう思います。たぶんこれが二作目だと、五木あおいの名に傷がつきますよ】

【ええと、そうっすね、永野ながの華奈かななんてどうですかね?】

【ホント酷いもんですよ。あの娘、高校生にもなって中二病丸出しなんですもん】

【もちろんっす! あ、ちなみに今日、有紗さんの家行ってもいいですか? 今後の作戦会議もしたいので──】

「……今聞こえた女性の声は大野さんですが、電話で誰かと話している男性の声はその詐欺師の男で、その男ははっきりと、佐々木さんの下の名前である有紗という名を呼び、原稿の受け渡しを示唆する発言をしています。ということは、電話の相手はあなたではないですか?」

 室内に騒めきが生じる中、本城さんから暗に追及された佐々木有紗は、初めて法廷で険しい顔を浮かべた。

「……し、しかし、有紗という名前だけで断定するのは──」

「では五木あおいの方はどうでしょうか? しかも彼は二作目と言っています。調べたところ、当該小説以降、五木あおいは作品を発表していないようですが」

 相手の弁護士は何も言い返せない。

「これを繋ぎ合わせると、この時点で詐欺師の男は大野さんから原稿を奪い、佐々木さんに渡そうとしています。さらにそれは、五木あおいとしては二作目の可能性があったと言っています。ということは、同じような方法で遊佐さんと夏目さんから原稿を奪ったことは大いに考えられますし、それが五木あおいの一作目だった可能性も非常に高いです」

「……しかしそれは、所詮状況証拠に過ぎない! その小説を書いたのがその遊佐という男だという直接的な証拠にはならないだろう!?」

「おや? ということは、盗作をしたこと自体は認めるんですか?」

「ぐっ、そういうわけでは……」

 佐々木有紗は横の弁護士に向かって、明らかに怒りのゼスチャーを送っている。

「以上です。大野さん、ご協力、誠にありがとうございました」

「いえ! お役に立てて何よりです!」

 最後まで晴れやかに言い放ち、跳ねるように証言台から降りていった。

「これ、全部奏さんが考えたんですか?」

「まあ、大枠はな。もちろん尊や本城さんにも相談したけど」

「後でちゃんと大野さんにお礼言わなきゃダメですよ? そのついでに口説くどいたりするのも絶対ダメですからね?」

「するわけないだろ!? ったく、法廷で変なこと言うな」

 我々のコソコソ声を横で聞いていた本城さんは、他の人から見えないように笑っていた。


「いやあ、ホント見事でしたよ、大野さん」

「いえいえ。私、証言台ではほとんど何もしてませんよ」

 閉廷後、朝の作戦会議のメンバーで再び集まり、束の間の余韻に浸っていた。

「それにしても、よくおとり作戦なんて引き受けてくれましたよね」

「正直、最初は怖かったです。だけど先生に頼まれて、それで皆さんの事情聞いたら居ても立っても居られなくなって、自信はなかったですけど、上手くいってよかったです!」

 高校生らしい純白な一言一言が、裁判の緊張で疲れ切った心を徐々にほどいていく。

「大野さんも、小説家目指してるんだっけ?」

「はい! お二人の小説も拝読しました! 正直あんな作品、絶対私じゃ書けないってくらい凄かったです! それもあって今回、思い切って協力させていただきました! あ、たぶん誤解されてると思うんですけど、詐欺師に渡した原稿を書いたのは私じゃないですからね? あれ、確か先生が書いたんですよね?」

「お、おい、今それ言うなよ……」

 皆の視線が恥ずかしそうに頭をいている先生に集まる。

「ち、違うんだ! 急に原稿が必要ってなったから、中学時代のノート引っ張り出して大急ぎで書いたんだよ! だから酷評されたのも事故みたいなもんで……」

「へえ、先生ってああいうの好きだったんですね!」

「おい西野、お前まで俺をいじめるな!」

 当時の話で盛り上がる先生たちの輪から少し抜け、本城さんに話しかけた。

「あの、今日の証拠って、勝敗にどう影響しますかね?」

「まず間違いなく、今までのものよりは証拠能力が高いことは確かです。やはり書物などと同じで、具体的な音声というのは直接的な内容ですから。おそらく、証明度で言えば五割は越えていると思います」

 私が問いかけることを予測していたかのように、すらすらと現状を解説してくれた。

「ただ、今回のように事実関係が最大の争点となり、なおかつ証明責任がこちらにある場合だと、高度の蓋然がいぜん性というものが求められることが多く、そうなると八割程度の証明度が必要になります」

 奏さんもいつの間にか、本城さんの説明に耳を貸している。

「相手の弁護士が言っていたように、今回の証拠はまだまだ状況証拠の域を脱していません。となると──」

「俺があの小説を書いた具体的な証拠が必要、ってことですね」

 本城さんが黙って頷く。

「一応、尊くんが精力的に動いてくれていますが、正直間に合うかどうかが微妙で……」

「俺もできる限り、尊に協力してみます!」

 本城さんが「お願いします!」と笑顔で言ったそのとき、

「病み上がりにしては、随分元気そうじゃない」

 先ほどの裁判など気にしていない様子で、平然とした顔の佐々木有紗が現れた。

「……何の用だ」

「いやね、あの男、最後にとんでもないヘマしでかしたから、愚痴言ってやろうと思って」

 その対象が詐欺師の男なのか、はたまた弁護士の男性なのかは断定できなかった。

「そんなもん聞きたくもない。さっさと帰れ」

「まあまあそんなこと言わずにさ。そういえば、あの作戦ってあんたが考えたんでしょ?」

「だからどうした?」

 佐々木有紗の目が正面から奏さんを捉える。

「いやさ、復帰早々こんなこと仕掛けてくるなんて、相変わらず気持ち悪い性格してるなあ、なんて思って。ホント、高校のときと何も変わってないよね」

 そう言いながら、嘲笑的な笑みを浮かべる。

「ま、冴えない陰キャ同士、二人とも精々頑張ってよ。また姑息こそくな作戦使ってさ」

 言い終えると、私たちに背中を向けて歩き出した。

「あの!」

 私の声に、佐々木有紗は立ち止まり、振り返った。

「佐々木さん、いえ、有紗さんは、何か趣味ってありますか!?」

「は? 趣味?」

 困惑と嫌悪が入り混じった顔をする。

「趣味じゃなくてもいいです! 楽しいこととか、心を動かされることとか、……愛してることとか! 何か、ありますか?」

「……、イケメンと遊ぶことかな」

 幾許いくばくか間を置いた彼女は、そう答えた。

「有紗さんも一度、小説、書いてみたらどうですか?」

 表情は変わらない。

「きっと、楽しいですよ」

 しかし、眉が一瞬、はっきりと上下した。

「……余計なお世話よ」

 歩いていく彼女のスピードは、いつもより速い気がした。

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