第三章 出版 秋①

3 秋


「朱美、しっかりね。最初は色々不安だと思うけど、弁護士の先生もついてるし、私も側で見てるから、きっと大丈夫よ」

「うん。ありがとう、お母さん」

 入学式の日以来身にまとったスーツを、母が入念に直してくれた。このスーツと母を目の前にすると、あの日の申し訳ない気持ちに心が奪われそうになるが、今はそんな狼狽うろたえを許している場合ではない。

「じゃあ、行こっか」

「うん」

 なかなか仕事を休めない父に代わって、母はしばらくこっちに居てくれるそうだ。最初は少々大袈裟に感じていたが、いざ一人の時間が減ると、悪い方向の未来を考えてしまう時間も減った。

 裁判所に着くと、今回私たちを担当してくれる弁護士の本城ほんじょうさんが待ってくれていた。

「あ、夏目さん、それにお母さんも。本日、というかこれから、よろしくお願いしますね」

「お願いします、本城さん」

不束ふつつかな娘ですが、本当によろしくお願いします」

「ちょっと! お母さん!」

「いえいえ。朱美さんは本当にしっかりしてますよ。こんなが同じ大学で嬉しい限りです」

「……やっぱりお母さん、連れてくるんじゃなかった」

「ちょっと、なんてこと言うの!」

 本城さんとはもう既に、というか七月くらいから何度か会っており、私たちの事情や作戦にも全面的に協力してくれている。同じ大学という親近感や、何より尊さんの紹介ということもあり、私としても本当に心強い。

「それじゃ、行きましょうか」

「はい、お願いします」

「朱美、落ち着いて、冷静にやれば大丈夫だから!」

「もう、恥ずかしいからやめてよ……!」

 そんなやり取りも、本城さんはかたわらで見守ってくれている。

 こうして私は初めて、裁判所という場所に足を踏み入れた。


「反訴って、知ってる?」

「はんそ?」

 一花や美月を交え、先生の高校で初めて作戦会議を行なった日、尊さんは作戦内容を説明する中で、こんな言葉を口にした。

「うん。裁判の用語の一つで、要はカウンターみたいなものなんだけど」

「カウンター、ですか……?」

 私と美月はポカンとしてしまい、一花に関しては、裁判という言葉が出てきた瞬間から眠気が襲ってきたようだった。

大雑把おおざっぱに説明すると、何かを訴えられたとき、逆にこっちも相手にその裁判と関係あることを訴えることができるんだけど、さっき抗議とか署名活動やれば、相手はそれに対して法的措置を取ってくるかもって言ったじゃん? でね、あえてそれを誘発して、相手に訴えてもらうんだよ」

「もしかして──」

 美月が何かを感知した。

「その裁判のときに、朱美たちの小説が盗作されたことを逆に訴えるってことですか!?」

「その通り。美月さん、冴えてるね!」

 嬉しそうに、私に視線を送った。

「本来法廷は真実を明らかにする場だから、相手側が自分たちから来てくれるなら、それを利用しない手はない。ただ、相手だっていろんな準備をしてくるだろうし、こっちの作戦読んで訴えてこないかもしれない。まあもしそうなったら、徹底的に抗議活動やって逆に追い込んでやろう。そこまでされて、なんで訴えてこないんだって言い分もできるし」

「尊さんって、意外に腹黒いんですね」

「言うね、朱美ちゃん。……今いる業界が業界だからってことにしといてくれる?」

 果たして、本当にそんなことができるのだろうか。

「夏目さん?」

 被告側の席で考え込んでいた私に、本城さんが声をかける。

「……すみません。あの、」

「どうしました?」

 本番を目の前にして、急に不安にさいなまれる。

「そんなこと、本当にできるんでしょうか? もし負けたら、お金とか取られて、最悪大学辞めさせられるなんて、悪いことばかり考えてしまって……」

「大丈夫だ、って、一〇〇パーセント言い切ることはできません。そればっかりはやってみないとわからないので。ただこちらには、あの小説が夏目さんたちが書いたものだという、真実という一番強力なカードがあります。それさえ手札に来れば、すなわち証明できれば、間違いなく勝てます」

 その凛々りりしい話し方は、自然と不安を摘んでいく。

「ただ、一つ言っておかなければならないのが──」

 凛々しい話し方のまま、若干トーンを落とした。

「裁判っていうのは、ある種、足の引っ張り合いみたいなものなんです。あることないこと言われたり、思い出したくないこととか、自分の一番隠したいこととかさらけ出し合って、その末に、人間の黒い部分がまさった方が勝者になる、そんな側面もあるんです」

 確かに映画やドラマの裁判のシーンを思い返すと、相手の弁護士の口撃に遭い、その場に座り込んで泣いたり、怒りの感情を相手にぶつける場面などが印象に残っている。

 私たちはこれから、そのどれかと遭遇するのだろうか。

「始まる前からこんなこと言って夏目さんの不安を煽るのもどうかと思ったんですけど、今回に関しては、人間のそういう部分が著しくけている相手だと思います。だからこの先、法廷から逃げ出したくなることもあるかもしれません。でもそのときに、ここまで一緒に頑張ってきたお友達や先生、尊くん、そして奏くんのためにも、最後まで戦いましょう! 私も最後まで一緒に戦いますので!」

 そうだ。私たちはもう充分、お膳立てしてもらったんだ。

 次は、私たちが頑張らなきゃいけない番なんだ。

「……本城さん、ありがとうございます! 私、最後まで絶対諦めません!」

 本城さんが笑顔を見せたそのとき、

「あ、来ましたね」

 私たちの相手が、原告側の席に着いた。

 相手もこちらと同じ二人で、詐欺師の男は来ていなかった。五木あおい、もとい佐々木有紗は、出版社で会ったときと同じくらいのメイクで参上し、私だけが座る被告側の席を見ると、わざとらしくわらってみせた。

「あれえ? 遊佐くんは来てないのお?」

「奏さんは、その、体調を崩していて……」

「え!? 嘘!? もしかしてこの前ので!? 超ウケる! てか、もう半年くらい経ってんのに治ってないとか、マジメンタル弱すぎでしょ! あんときもそうだったけどさ」

「ちょっと……、佐々木さん……」

 法廷で堂々と私たちを煽る佐々木有紗に対し、相手側の弁護士は困り果てている。

「んじゃ、今回はあんた一人なんだ。結局誰だか知らないけど、一回は警告したんだから、もう容赦しないからね?」

「……臨むところですよ! 佐々木有紗さん!」

 急に大きな声で反撃した私に、驚いた顔を見せる。

「……ふーん。この前会ったときより、随分強気になっちゃって」

 しかし佐々木有紗もすぐに態勢を立て直し、口撃を続ける。

「そのムカつく偉そうな態度、微塵みじんにしてあげるから」

「臨むところです!」

 そうして遂に、戦いの火蓋ひぶたが切られた。


「ということは、被告側の主張は、当該小説を創作したのはそもそも被告であり、原告には権利を有する根拠がないと、そういう趣旨でよろしいですか?」

「はい。その通りです」

 裁判長の毅然きぜんとした声が法廷に響き渡り、室内が若干の騒めきで満たされる。

「ちょっとどういうこと!? そもそも反訴って何!?」

「そう言われましても、私としてもそんなこと主張されるなんて思ってもみませんでしたから……」

「……そうだった」

 佐々木有紗はバツの悪そうな顔で、弁護士を責めるのをやめた。おそらく、弁護士には何も言ってなかったのだろう。

「それでは、次回からはその点についても審理するということで──」

「ちょっと待ってください!」

 相手の弁護士が声を上げる。

「反訴の要件の一つは著しく訴訟手続きが遅滞しないこととされており、今から当該小説の創作者を新たに審理するというのは、著しい遅滞が発生する恐れがあるため──」

「しかし、被告側が提出した証拠には一考の余地がある」

 我々は今日、これまでの活動で蓄積してきたデータや証言などをまとめ上げ、証拠として提出した。もちろん、これらがそのまま証明に繋がるほどの証拠能力はないとはわかっているが、裁判官の目を惹くには充分だったようで、作戦通り、スムーズに反訴とやらを展開することに成功した。それを成し遂げた本城さんを、思わず見入る。

「……やってくれたわね」

 佐々木有紗は鬼のような形相で、私をにらみ付けている。

「それじゃ、次回もよろしくお願いします。次回の日程は──」

 双方の弁護士と裁判長で次回の期日を話し合っていると、ふと、傍聴ぼうちょう席に目がいった。ほとんどが顔見知りだった中で一人、マスクで顔を隠している男性が、必死に何かのメモを取っていた。そのとき、直感的に、その男性があの詐欺師なのではないかと思った。確かによく考えてみると、奏さんを始め何人もの人間と対面し、その度に原稿を盗んでいった張本人がわざわざ裁判の矢面やおもてに立つわけがないと、そのとき理解した。

 同時に彼は今、次の手を必死に模索しているのではないかと思い、その姿を凝視した。

「それでは閉廷とします」

 裁判長の声が響き、一日目が終わった。

「お疲れ、夏目さん」

 本城さんの声で我に返る。

「あ、お疲れ様です」

「どうだった? 初めての裁判」

「えっと、とりあえず疲れました」

「まあそうだよねえ」

 本城さんは軽く笑った。

「とりあえず出よっか。お母さんもお友達も待ってるみたいだし」

「あ、はい」

 そのまま本城さんについていき、法廷から出た。

「朱美! お疲れ!」

「あ、美月! 今日は来てくれてありがとね!」

「ううん! むしろちょっと楽しかった!」

 外の入り口で待っていた美月は、本当に楽しそうだった。

「そういえばお母さん知らない?」

「あれ? さっきまで一緒にいたんだけどな。あ、」

 気が付くと母は、いつの間にか、私の背後で本城さんと話し込んでいた。

「朱美のお母さん、めっちゃいい人だし、めっちゃ面白かったよ!」

「んもお、そんなこと言われたら恥ずかしいって……」

「ふふっ。ダメだよ朱美! こんなことで動揺しちゃ!」

「いくら何でもそれはズルいよ……」

 母同様、というか元々東京にいる美月は、すべての裁判に来てくれると言ってくれた。普段は仕事がある尊さんや先生、地元に戻った一花などはなかなか来られないため、美月の存在はとても心強い。

「今日、最初だったけど良さそうだったじゃん! 本当に尊さんたちの言った通りになって、ホントビックリしたよ!」

「私も正直半信半疑だったから、めっちゃホッとした! ただね、」

「ん? どうしたの?」

 美月が不思議そうな顔をする。

「傍聴席にね、たぶん、相手の詐欺師の男っぽい人がいて、その人が終わり際にすごい勢いで何か書いてたから、もしかしたら相手も色々作戦立ててるのかなー、なんて思って」

「え? 嘘、そんな人いた?」

「うん。マスクつけてて、ちょうど美月の後ろにいた」

「嘘!? 全然気づかなかったんだけど! もー、気付いてたらとっちめてやったのに!」

「それじゃ美月が捕まっちゃうよ!」

 その後、美月と母の三人で食事をし、これから続く長い戦いの一日目が終わった。



 あれから非公開の争点整理に移行したが、本城さんいわく、戦況は良くて五分五分だという。争点自体は複雑ではないため、盗作の事実が認められれば被告側の勝訴、認められなければ原告側の勝訴となることで合意し、裁判は着々と次の段階へ進んだ。

 しかし当の証拠に関しては、やはりまだまだ一矢いっし報いる程度で終わり、先生が見つけてくれた他の盗作被害者の証言も、詐欺師の男と佐々木有紗本人との関連性を示すことができず、有力な証拠にはならなかった。

「やっぱり、今までのより具体的な証拠が欲しいよなあ」

「そうですよね……」

 裁判が始まって以来なかなか会えない尊さんとは、電話で定期的に連絡を取っている。

「ただ、当てがないわけじゃないんだよ」

「え?」

「でもそれを見つけるにはもう少し時間かかりそうで、それと奏に関連することだから、もし法廷で証言することになったら、できればあいつにもいてほしいんだよね」

「なるほど」

 やっぱり、いつまでもこのままじゃダメだ。

「あの、私、また奏さんの家に行ってもいいですかね……?」

 奏さんだって、きっとそう思ってる。

「あいつの心を開けられるのは、やっぱり朱美ちゃんだよな」

 尊さんの優しい声が、私の背中を押す。

「よろしく頼むよ!」

「はい!」

 そうして私は、再び、彼に会いに東久留米に向かった。

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