第一章 企画 入会

3 入会


 目の前にある小さな建物は、まるで神の手を使って強力なシュートを止めたり、炎や氷をまとって強力なシュートを放つサッカーアニメの弱小部時代の部室のような成りだった。言葉を変えれば、すなわち、倒壊寸前とまではいかないが、古い小屋のような建物である。本当にこんなところでサークル活動が行なわれているのだろうか。いや、案外こういうところに伝統や才能が眠っていたりするものだ。アニメや漫画でよくあるだろう。

 しかし私は、力士が押せば簡単に突き破れそうな古いドアの前に立ち尽くし、動けないでいた。そりゃそうだろう。ここまで辿り着くのさえ躊躇ちゅうちょしたのだから、そのドアを開けることは、もっと大きい勇気が必要になる。

 幸いその建物は広い大学構内の中でも辺鄙へんぴな場所にあったので、周りに人はほとんどいなかった。もしかしたら、中にもいないかもしれない。今日は通常であれば新入生以外は大学に来なくてもいい日であるし、このサークルは熱心な勧誘活動などは行なっていなさそうだったし、なにより、このサークルのメンバーは、たったの四人だ。そもそも中に誰もいないことだって、充分あり得る。勇気を出して空振りに終わった言い訳もつく。

 それなら、と満を持して心を整え、そのドアをそーっと開けてみた。その隙間からこっそり盗み見ると、中に広がっていたのは、単行本や文庫本が山積みされ、それと同じくらい何かの紙がたくさん積み重なった光景だった。だが散乱しているのではなく、本も紙もある程度整理され、その表題や内容などは確認できる状態だった。中には私の好きな本や、小説の構想リストみたいなものがあり、強く興味を惹かれた。このサークルに所属している人の中にもしかしたら、私と同じような趣味や、或いは目的を持つ人が、いるのではないか。

 そんな淡い期待が一瞬のうちに胸中を駆け巡り、気付いたときには、既に中に入っていた。だが、中から人の気配を感じなかったというのも事実だ。そっとそのコレクションを眺めるだけなら、今の私でも──

「なあ、宣伝活動とかしないでいいの?」

「ビラ作ったんだし充分だろ」

「いや、掲示板の隅っこに貼っただけじゃん。しかもほぼ去年の使いまわしだし。もっとなんかさ、配り歩くとか、そこかしこに貼るとか」

「そんな暇があったら、今の執筆終わらせて作品出して、それを宣伝で使った方がよっぽど効率的だ。だいたいこの前出した作品だって、今は結果待ちなんだぞ? それ次第じゃ、何もしなくたって一気に注目浴びるなんてことがあるかもしれない。そのためにも、ウチはひたすら作品を作り上げ、結果で証明する方針だって何度説明したらわかってくれるんだ」

「あっそ」

 不意に聞こえてきた男性の声に、思わずその場に座り込んでしまった。

 本当に、不意すぎた。

「ん? 今なんか音しなかった?」

「気のせいだろ。とりあえず俺は今日中にこの章終わらせなきゃならないから、少し集中させてくれ」

「あっそ」

 もしかしたら、このままそーっと出れば何事もなく逃げられるかも。

 そんなことを考えながらゆっくり立ち上がろうとした瞬間、鼓動の速さにバランスを崩され、再びへたり込んでしまった。挙句の果てに、そばにあった本の山に手がかかり、それが崩れていった。

「ん!? なんだ!?」

「どうせねずみとかだろ」

「おい、変なこと言うなよ」

 そう言って、おそらく二人のうちの一人の男性が、こちらに近付いてきた。

 非常にまずい。

「あーあー、なんか知らんけど山一個崩れちゃったのか。って、え!?」

「なんだようるさいな」

「えっと、大丈夫?」

「おい、だから何なんだよ」

「なんて言ったらいいんだろ。女の子が、座り込んでる」

「……、は?」

 つまり、そういうことだ。

 私は今、勇気を出してようやく辿り着いたこのサークルの部室の入り口付近で、失態をしでかし、あわれにうずくまっている。一言で言えば、泣きそうだった。


「とりあえず、立てる?」

「……、はい」

 体格の良い男性の手に掴まり、とりあえず最大の醜態からは脱出した。

「おいおい、一体何が起こってるっていうんだ!?」

 変にゲーム実況のような言い回しをしながら、もう一人の男性が近づいてきた。

 そうして私の目の前に、二人の男性が現れた。一人は先ほど私を立たせてくれた人で、先ほども言ったように、体格が良い。その意味は筋肉が凄いという意味ではなく、包容力があるというか、後は各々で想像してほしい。ただ、そこまで行き過ぎた包容力ではないことだけは念を押しておく。ちょうどいい、人の良さそうな包容力だ。

 一方でもう一人の男性は、私と同じく眼鏡をかけており、身長は一七六センチほどで、私より二十センチほど大きい。どちらかと言えば痩せ型で、顔はなんというか、神木隆之介君をちょっと残念にしたというか、いややっぱり結構残念にしたというか、そんなところだった。面影はほんのりあるが、端整かと訊かれればそうではない。ただ、眼鏡を外したらもしかしたら、みたいな期待を抱かせてくれそうな、くれなそうな、みたいな感じだ。

 なぜこんな状況で、初対面の男性をこんなにも冷静に分析出来ているのかは、自分でもわからない。ただ、後からやって来た男性に関しては、なぜかすっと頭の中に入ってきた。それも、怖いくらいに。

「ごめんなさい……。本片付けたら、すぐ帰りますので……」

「ああいや、それは俺らがやっとくからいいよ」

「そ、そうですか。すみません……」

「それより、とりあえず、ここ座る?」

 体格の良い男性が、椅子を差し出してくれた。ここで座ってしまえば、おそらく逃げられなくなるだろう。だがそれはある意味、チャンスでもある。

「えっと、いいんでしょうか?」

「うん。まあ、ていうか──」

「何か用があって来たんだろう?」

 後からやって来たもう一人の男性が、早口気味に核心をついてきた。

「あ、えっと、その……」

「こんな場所にあるボロ小屋なんて、用がなきゃまず誰も訪れない。つまり、そういうことだ」

「おいおい、なにカッコつけて張り切ってんだよ。まあでもこいつの言う通り、君は何か用があってここに来たんでしょ? だったら遠慮なく座ってよ」

「そ、そうですね。それじゃ、失礼します」

 そう言って私は、その椅子に座った。同時に体格の良い男性は近くの椅子に座り、もう一人の男性は、おそらく何かを執筆していたと思われる場所まで戻っていった。

「えっと、これはこのままでいいのでしょうか?」

 足元に散らばる本の数々に目がいく。

「ああ、まあその辺はあいつが適当に古本屋で買ってきたもんだからさ」

「でも、やっぱり……」

「そうだね。気になるんだったら、片付けようか」

「ああ! 私もやります!」

 そうして二人で散らばった本を集めていると、

「君はなかなか、見所がありそうだな」

 奥から彼が、再び戻ってきた。

「お前も手伝えよ」

「なあに、もう終わりそうではないか。俺がわざわざ出向くまでもなさそうだな」

「お前、またそうやって実はタイミング見計らってたな?」

「それは神のみぞ知る」

 いつの間にか、彼のキャラは拍車がかかっていた。

 なんとなく今までの会話で想像はついたが、この二人はキャラクターがはっきりしている。上手く言葉で言い表せないけど、明確なボケと、明確なツッコミ、みたいな感じで。

「よし、とりあえずこんなもんでいいだろ。な? かなで

「おう、まあよかろう。ん? 君、それ、ちょっと見せてくれないか?」

 彼の差した指は、私の持っている文庫本を示している。

「え、これですか?」

「そう、それだ! うん、やはりそうだ。おいたける、遂にずっと探していた本が見つかったぞ!」

「ああ、あれね。次の題材にするとか言ってたやつ」

「パーフェクト。君のお陰だ。この恩は一生忘れない。いつか礼をさせてくれ」

「え、えっと、」

 私からその文庫本を受け取った彼は、一目散に元の場所に戻っていた。

「変な奴だろ? あいつ」

 体格の良い男性が改めて座り直り、楽しそうに話しかけてきた。

「い、いえ! そんなこと……」

「無理しなくていいよ。顔に書いてあるから」

 まあ、そうだよね。

「えっと、違ってたら申し訳ないんですけど、あの方はもしかして、自分で小説を書いているのでしょうか?」

「別に違ってても申し訳なくないと思うけど、」

 彼は笑いながら、その人の方をチラリと見る。

「まあそうだね。大学入ってからはあんな感じだよ」

「そうなんですか。すごいです、率直に」

「ま、結果は全然出てないけどね。あと、君がもし小説を書きたいんだとしても、あいつのことは絶対参考にしちゃダメだよ?」

「え、なんででしょうか?」

「まあ、そのうちわかるよ」

 またその人の方を見て笑っている。

「あ、本題に入るのすっかり忘れてた。えっと、君はもしかして、サークルの入会希望者? 違ってたらごめんね?」

「え!? あ、はい! そうです!」

「そうかそうか。それはもちろん大歓迎だよ! ただね──」

 そう言いながら彼は、言葉を詰まらせた。

「これから入ろうとしてくれてるに言うのもなんだけど、このサークルでさ、いわゆる、夢のキャンパスライフ、みたいなもんはさ、期待しない方がいいよ?」

「え?」

 今度は少々悲しげな表情で、彼を見ている。

「まあ一言で言うと、ウチのサークル、悲しいことにメンバー二人だけなんよ。俺とあいつ」

「そ、そうなんですか。あ、でも、ビラには四人って書いてありましたよ?」

「あー、うん、それ、たぶん去年の数字だ」

「あっ、……そうなんですね」

 予想、以上だった。

「一応去年はさ、新入生二人入ったんだよ。だけど二人とも最初の一、二ヵ月で辞めちゃって。俺らの同期も何人かいたんだけど、同じように辞めて、結局俺らだけが残ったって感じなんだよね」

「な、なるほど……」

「だからさ、えっと、君名前は?」

「あ、夏目朱美といいます!」

「夏目さんね。一応、俺は柳井やないたけるっていって、あいつは遊佐ゆさかなでっていうんだけど、夏目さん、後で幻滅させちゃうのも悪いから今のうちから言っとくけど、ウチ、そういうサークルなんだよね」

 なんて返したらいいのかわからない。確かに、ある程度の予想はしてたけど、本当に、予想以上だった。

「あの、ビラに書いてあったんですけど、賞受賞された方がかつて在籍されていたとか」

「ああ、それは嘘じゃないよ。それでこんな古いけど、一応大学から部室みたいの貰ってるし。ただねえ、だいぶ前の話だし、受賞って言っても在学中の話じゃないから、いまいちパンチが弱いというか。一応、本人も気には掛けてくれてるみたいだけど」

 すると柳井さんは、後ろの本棚から一冊の単行本を取り出した。

 作家名の欄には飛鳥あすかわたると記されている。

「一応この本、ちょっと前にその人が出版した小説なんだ」

 その本と作家名には見聞き覚えがあった。というか、私も持っている。数年前に紅白書房という出版社から出され、最近では映画化もされた大ヒット作だ。なるほど、すごい。

「正直さ、こんなこと夏目さんに言ってもしょうがないんだけど、そんなすごい作家さんがいたのに今のこの状況って、申し訳ないというか……」

「そ、そんなことないですよ!」

 そう言いながらも、私は迷っていた。

「俺らが入ったときも先輩ほとんどいなかったし、新しく入ってきてもほとんど辞めちゃうし、まあサークルの代表はあいつだから、別に俺が責任感じる必要もないんだけど、やっぱり最後の代ってなると、ちょっと嫌だよね」

 その言葉が、余計に私を迷わせる。

「だからさ、言っちゃなんだけど、ウチのサークル、泥船みたいな状況なんだよ。だから夏目さんも、ちゃんと執筆とかしたかったら、他所の文芸サークル探した方がいいかもしれない。インカレでよかったら、俺何個か紹介するけど──」

「そのために俺がいるんだろう?」

 奥で黙々と執筆していた遊佐さんが、いつの間にかそこに立っていた。

「お前は四年生で就活とか忙しいから、もうこのサークルのことは気にしなくていい。その代わり、俺がこのサークルを救う。俺の書く小説で、このサークルも、大学も、そして世間の人々も、前を向かせてみせる」

 その瞬間、強く、心を打たれた。まるで一瞬、時間が止まったように。

「そのために俺がいる。言っただろう? そのためにわざわざ留年して、このサークルのために身を粉にして頑張っているんだ」

「お前、今の一言で前半のセリフ完全に死んだぞ」

 何事もなかったように、柳井さんは遊佐さんの応対をしている。

「君は、夏目君といったっけ?」

「は、はい!」

「君も安心したまえ。君が三年生ぐらいになった頃、すなわち俺が卒業している頃には、全盛期のようにたくさんの人間がこの部室を埋め尽くしているだろう。その頃君は、きっとサークルを救った伝説の英雄をの当たりにした人間として、必要以上にあがめられるだろう。それから──」

「もういいよ」

 柳井さんは相変わらず、親戚の中学生を見るような面持ちで遊佐さんを眺めている。

 一方私には、全く逆の感情が芽生えていた。

「あんま言いたくないけど、こいつのこのキャラも正直、現状の一因かもな。高校のときはもっとマシだったんだけど」

「なっ、それはどういう意味だ!?」

「去年ちょっとだけ来た女の子、覚えてるか? お前のその振舞い見てドン引きしてたぞ」

「ふん、天才とは常に孤独な存在なのだ」

「ダメだこいつ、早くなんとかしないと」

「おい! 俺をそんなれ物扱いするな!」

「あの!」

 私の声が、二人の洗練された掛け合いを引き裂く。

 そのときの鼓動は、自分でも想像できないくらい、波を打っていた。

「遊佐さんの作品、私、見てみたいです!」

 そのとき、遊佐さんは不敵な笑みを浮かべた。中学生以外でその表情を見るのは初めてだった。

「いいだろう。精々楽しむがいい」

 そのとき、柳井さんは苦笑いを浮かべた。今日何度も見たその表情の中でも、特段な苦笑いだった。

「あーあ、こりゃ大変だ」

 柳井さんの言葉を無視し、遊佐さんは奥にあった大量の紙の束を運んできた。


「今のところ十五作品あるんだが、どれが見てみたい?」

 分厚い紙の束を十五個並べた遊佐さんは、自信満々な顔をしている。

「えっと、初めて書いた作品ってどれなんでしょうか?」

「ん? ああ、処女作か。それならこれだ」

 彼が指差した紙の題名の欄には、『東久留米くるめの空に』と書いてあった。

「まあ、所謂いわゆる青春モノってやつだな。将来の兆しが見えない時代を生きるある高校生が、汚い大人たちに抑圧されながらも生きがいを見つけ、最後は周りの想像をひるがえして高校を脱走するっていうのが大まかなストーリーだ」

「設定違うだけで、中身は『ショーシャンクの空に』って映画の丸パクりだよ。そもそも高校脱走するってどういうことなんだよ。普通に辞めりゃいいじゃん」

「うるさい。こういうのを業界ではパロディと言って、一定数認められているんだ」

「にしても『東久留米の空に』って、東久留米に空なんてあったか?」

「空ぐらいあるわ! 俺の地元をバカにするな!」

 珍しく一瞬だけ、遊佐さんがツッコミに回っていた。

「あの、この『異常気性』というのは?」

「よくぞ訊いてくれた! それは俺の作品の中でも特に自信作でな!」

 そうして遊佐さんは近くに寄ってきて、私の指差した紙の束を手に持ち、ページをめくった。

「地球全体が急に異常気象になってしまうんだよ。酷い猛暑や極寒の日があれば、一方で突然普通の気温に戻る日もあるんだ。その因果を誰も解明できない日々が続くのだけれど、ある日日本政府に密告が届くんだ。その情報によれば、国内のある精神病院の患者の『気性』が、そのまま世界全体の『気象』と連動してるっていうんだ。当然政府はそんな馬鹿げた報告信じないのだけれど、一応調査に向かった捜査官が目にしたのは、その患者が怒れば世界が燃え、哀しめば世界が冷え、落ち着けば世界も落ち着くという、信じがたい光景だったんだ。さすがに政府もそれを信じ、慎重にその患者を扱おうという方針になったのだけれど、どこからかその情報が漏れて、世界中のあらゆる組織の耳に渡り、やがて世界中で『気性』をめぐる闘争が勃発するっていうストーリーなんだ」

 「馬鹿げた報告」という部分しか聞き取れなかった。

 だが、彼が創りそうなストーリーなのだろうなということは、想像できた。良い意味でも、悪い意味でも。

「後はこの地球の地下深くに大きな空洞があって、そこに文明が栄えているというモノだったり、そもそも地球自体の文明が栄える前に文明が存在して、その文明の人々は地球を捨てて別の惑星に移ったというモノだったり、今執筆しているモノだと、ある実験施設が文明の成り立ちを観察するために、実物の環境をできる限り再現したミニチュアの地球を造るのだけれど、そこに好奇心の強いある研究者が高性能AⅠをこっそり混ぜてしまい、やがて急速に文明が発達した『ミニチュア地球』にじわじわと我々の文明が乗っ取られるというストーリーなんだけど、興味ある?」

「え!? あ、はあ」

「夏目さん、興味ないってよ」

 今回は一応、聞いていたつもりだ。

 確か文明がどうとか言っていて、地下深くにある実験施設で今より前の文明を研究し、そのために高性能AIを使って地球のミニチュアを造り、しかし好奇心の強いある研究者に研究所を乗っ取られたから、地球を捨てて別の惑星に逃げた、というストーリーだったはず。

 なるほど、わからん。

「ラノベみたいのも書いてみたことはあるのだけれど、妹とか幼馴染とかお嬢様とか異世界転生とか、そもそも現実で触れ合う機会がなくて、なかなか筆が進まないんだ」

 その理由が根拠だとしたら、なぜ最後の四つ目が他の三つと平気で肩を並べているのかはわからなかったが、彼がそういうことにうといことは解った。

 同時に、その根拠がなぜ先ほどの作品たちには適用されないのかと、心が訴えていた。柳井さんは既に自分のノートパソコンで何かの作業を始めていたため、その指摘が音となって彼の耳に届くことはなかった。

「他の作品のストーリーも聞きたいか?」

「えっと……、大丈夫です……」

 高校のときに一番きつかった体育の授業以上に、疲れが心と体を支配している。

「まあ、察してたとは思うけど、こいつ、こういう奴だからさ」

 私の様子を見かねた柳井さんが、作業を中断して声をかけてくれた。

「よく、わかりました……」

 しかし今、私の心は正直、だいぶ傾いていた。

 柳井さんはとてもいい人だ。メンバーは少ないが、このサークルに伝統があることもわかる。それに、インカレという存在は、私が最も苦手としているたぐいの場所だ。

 だがそれ以上に、私はたぶん、この人、すなわち遊佐さんについていけない。と言うより、ついていける人間などいないだろう。彼の文章を読んだことはないが、それ以前に世界観が私とはかけ離れている。ある意味それも勉強になるのかもしれないが、いくらノーマルタイプとゴーストタイプが戦ったって、お互いに効果のない不毛な時間で終わるのが目に見えている。

「あの、やっぱり私……」

 期待させといて本当に申し訳なかったが、その決心を口に出そうとした瞬間、

 ばさ、っと、傍らに山積みされていた紙の束の一番上のものが、開いていた窓から吹き込んだ風に吹かれ、私の目の前に舞い降りた。

「あ、それ──」

 遊佐さんがそれに気付き、珍しく動揺した頃には既に、私はその紙に書かれた文章に目を奪われていた。


「な、なんですかこれ……!」

 次の行に目を移す速度も、ページを捲る音速も、かつて体験したことがないほど高まっている。

 その文章は、繊細で、なおかつ大胆で、感情の柔らかいところを一つずつつまみ、それが壊れないギリギリで放すことで、心にすっと入り込んでいく、そんな風に、可憐で、幼気で、奥ゆかしく、そして綺麗な、字の並びだった。

「すごいです! 今まで見たどんな文章より、なんて言うか、美しいです!」

 それを聞いた遊佐さんは、少しだけ顔をしかめた。

「これは、どなたが書かれたんでしょうか!?」

「奏だよ」

 不意に柳井さんから飛んできた驚愕の事実に、心臓は波を打つ。

「お、おい、尊」

「別に隠すことないだろ? それは正真正銘、奏の文章だよ。高校のときに書いてた恋愛小説だよな」

 咄嗟とっさに遊佐さんを見つめる。

「遊佐さん、これ、」

「あ、ああ。一応、前に俺が書いたやつだ」

 そのとき、一瞬だけ、彼の瞳の奥に、何かの陰が見えた。

「あの、これはどのようなお話なのでしょうか?」

「いや、それは、その、完成してないし、完成させる気もないんだ」

「え?」

 先ほどまであんなに堂々としていたのに、ひげを抜かれた猫のように、遊佐さんは急にしぼんでしまった。

「見ればわかると思うけど、現状一〇〇ページにも満たない文章量だし、これからも執筆する気はない」

「な、なんでですか?」

「その、なんて言うか、方向性と合わないんだよ」

 いつの間にか柳井さんも、遊佐さんを見つめている。

「もったいないですよ! こんな、こんなに美しい文章なのに!」

「まあ、色々あってね」

 遊佐さんではなく、柳井さんが意味深に呟いた。

「俺もその小説、奏にしては良いなあって思ってたんだけど、まあ、色々あったんだ」

「そ、そうなんですか」

 たぶんそれは、彼の過去に何かしらの影響を与えた、とても大きな出来事なのだろう。もしかすると、彼が今こういうスタンスを取っているのも、それが関係しているのかもしれない。

 それでも私は、諦め切れなかった。

「なら、こうします!」

 勢いよく叫んだ私の声に、二人の視線が集まる。

「私、正直、さっきまでここのサークル入るの、遠慮しようと思ってたんです。だけど、遊佐さんが執筆するなら、その小説を完成させるなら、ここに入ります!」

 十八年間良い子だった私が、人生で一番、わがままを言った瞬間だった。

「な、何を言ってるんだ君は……」

 遊佐さんは当然、困った顔をしている。一方柳井さんは、少しだけ、微笑んだ。

「だからお願いです! これを書いてください!」

「む、無理なもんは無理だ。恋愛小説なんて、今さら……」

「見たいんです! 遊佐さんの作品が!」

 心の底から、本当にそう思った。だからこそ、殻を破れた。

「私でよければ、色々アドバイスもしますし」

「そういう問題じゃないだろう」

 そう言って遊佐さんは、近くの椅子に座り込んだ。

「そもそも完成させようって言ったって、さっき言ったように、俺はそういうのにほとんど縁がないんだ。だからストーリーを考えるのにも限界がある」

「じゃあ、あのSF崩れみたいな作品の数々はどうなんですか? あんなの、それこそ現実じゃないじゃないですか」

「逆だよ。あれはそもそも現実じゃないから、すべてを想像でえがける。だが現実を描く物語は、現実の出来事から生まれる。だからこそ、経験が必要なんだ」

 確かに、遊佐さんの言っていることは一理あるかもしれない。

 しかし私は、あの神秘的な一時は、現実から生まれたものだからだと信じている。

 それなら──

「……それなら、私が協力します!」

「え?」

 その無色な表情に、少しだけ色が宿る。

「経験が必要で、遊佐さんが今までしたことないなら、これからすればいいだけです!」

「ど、どうやって?」

「だから、私が協力します!」

 下を向き、眼鏡が落ちそうになるのを押さえる。それを見て私も、眼鏡の位置を整える。

「……、恋愛小説をか?」

「あ! そういう変な意味じゃないです! だから、その、どこか行ったり、何かをしたり、そういう経験というか、なんと言うか、少しでも材料になるなら、その、私が付き合います!」

「なんだよそれ……」

「なかなかとんでもない娘が入ってきたな」

 様子を見ていた柳井さんが、柔らかく応酬に入ってきた。

「いいじゃん奏。夏目さん、お前がその小説書くなら入ってくれるって言ってるし、それに、諦めてないんだろ? それ」

「尊……」

 遊佐さんを見つめるその目は、誰よりも、何よりも、柔らかい。

「夏目さん、奏はこんな感じの奴だけど、あの小説だけは、密かに俺も完成するのを楽しみにしてたんだ。申し訳ないけど、俺は今年就活とかで忙しくて、二人の制作に協力できることは少ないと思う。だから奏が夏目さんに何をしでかすか監視することはできないけど、それでも、奏を手伝ってやってほしい」

「お、おい」

 遊佐さんは抵抗を試みるも、柳井さんには手も足も出ないみたいだ。

「これから、よろしくな!」

「はい! ありがとうございます!」

「だから、まだやるって言ったわけじゃ──」

「お前、女の子が入ってくれたら死んでもいいって言ってたじゃねえか」

「お、おま、こんなときにそのことは言うなよ!」

 慌てて立ち上がる。

「ち、違うんだ! その、酔った勢いでつい……」

 思わず笑い声が漏れた。

「ま、これで訳のわかんない文明シリーズの執筆も終わりだな。何から始めるかは知らないけど、とりあえず、お前も夏目さんを歓迎してやれ。それとも、もっと恥ずかしい発言暴露してやろうか?」

「お、お前……、覚えとけよ?」

 そう言いながらも、私の方に向き直る。

 同時に私も、椅子から立ち上がり、姿勢を正す。

「仕方ない。えっと、夏目さん、だったかな。しょうがないから、我がサークルに歓迎してやろう。それに、誠にしょうがないが、その、あれを、少しは進めてやろう。おい、これでいいか?」

「しょうがないなあ」

 柳井さんも私の方を向く。

「夏目さん、あ、これからはメンバーになるわけだし、下の名前でもいい?」

「あ、はい! えっと、朱美といいます!」

「朱美ちゃん、改めて、ウチのサークルに歓迎するよ。って言ってもメンバーはこの二人だし、理想のキャンパスライフとはかけ離れてるだろうけど、それでもこれから二人がしようとしていることは、朱美ちゃんの人生にとっても、奏の人生にとっても、無駄なことには決してならないと思う。だから、精一杯、後悔のないように頑張ってほしい! 俺もできる限りのことは協力するから!」

「はい! ありがとうございます!」

「ほら、お前も」

「その……、よろしくな、朱美、君」

「よろしくお願いします! 尊さん! 奏さん!」


 こうして、私の大学生活は幕を開けた。

 今は、それしかわからない。幕はまだ、開いたばかりなのだから。

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