第二章 執筆 春➁

1 春


 物語と同様にハチ公前で待ち合わせし、これは物語通りにしなくてもよかったのだが、合流に手こずった。双方ともこういうことに慣れていないため、案の定、意思疎通が上手く取れなかった。集合予定の時間から約十分が過ぎて、ようやく合流できた。

「すごい人ですね……」

「ああ……」

 日曜午後の渋谷の街は、私たちの数少ない共感できる要素を生み出すほど、雑踏を作り出している。共にランチをするのはなんだかお互い気が引けたので、午後から集まることにした。と言っても、これから行く当ても全くない。

「なんか、奏さん、休日でもあんまり変わらないですね」

「どういう意味だ?」

 彼の良くも悪くもいつも通りの服装が、なんとなく気になった。別に普段はお互い制服で登校している訳ではないし、高校生のように私服の新鮮さを味わうなんてことを彼に期待していた訳でもない。

 だが、世間の人にとっては、期待することの方が多いのだろう。

「自分で言うのも何なんですけど、その、異性とこういう場所に行くときって、気合い入れるじゃないですか」

「そういう、ものなのか?」

 本気で言っているのだろうか? いや、この目は本気で言っている。

 おのずと恥ずかしくなった。

「いえ! その、私に対してそうしてほしかったわけじゃなくて!」

「確かに、今日の君は、いつもと違う気がする」

 余計に恥ずかしくするようなことを、平気で言ってくる。だが悪意は、もちろんない。

 東京に馴染めるようにと、上京する前日に母から買ってもらった黄色ベースのワンピースを見る彼は、どこか真剣な顔になった。

「なるほど……。それは勉強になった。要素に加えることにするよ」

「そ、それならよかったです」

 恋人同士ならここで、「似合ってるよ」、なんて言い合うのだろうか。都心に馴染めるように、いつもより時間をかけて入念に作り上げたこのポニーテールも、褒めてもらえるのだろうか。そうやって、何度も心を躍動させ合うのだろうか。

 だが改めて、目の前にいる人物を見る。白の無地な長袖Tシャツに、いたってシンプルなジーパンを合わせる彼は、特別ダサいとは言わないが、私が思い描いていた「デートに行く男性」像とはかけ離れていた。別にこれはデートではないし、彼が言うように「勉強」、もしくは私が言ったように「取材」に過ぎないのだが、初めての都心に舞い上がり、それなりに気合を入れてきた自分を振り返ると、肩透かしを食らった気分になる。私のことなど、誰も見ていないのに。

「それで、今日はどうするつもりなんだ?」

「え? 私ですか?」

「いやだって、ここに来ようと言い出したのは君だろう? なにかプランがあると思ったのだが」

 確かに一理ある。一理、あるけど、

「えっと、そうですね……」

「どこか行きたいところとかはないのか? 別に俺はどこでも構わないが」

「うーん」

 恋人同士ならここで、若干揉めるのかもしれない。「行きたいって言ったのは君の方だろう?」「デートプランを考えるのは男の役目でしょう?」、少し古いかもしれないけど、そういうやり取りをよく、そういう物語で見かける。

 だが今日はデートではなく、「取材」なのだ。彼が私を引き立てる必要も、遠慮する必要もない。こういうことも口に出して言った方がいいのだろうか。このままいちいち指摘しないまま進行したら、ツッコミ所満載の新感覚恋愛コメディ作品として、新ジャンルが確立されるかもしれない。それはそれで、ちょっと見てみたいけど。

「あの、少し前に結構大きな商業施設ができたみたいなんですけど、そことかどうですかね?」

 薄い流行知識を基に、なんとかそれらしい場所をひねり出してみた。別に特別行ってみたかったわけではない。

「ああ、それなら聞いたことがある。スクランブルエッグみたいな名前のビルだろう?」

 施設の関係者の人、これ聞いたらすごく怒るかもしれない。どうかこの近くにいませんように。

「じゃあ、そこにしますか」

「いいだろう」

 こうして私は、初めての都心を、男性と二人きりで過ごすこととなった。


 なんだかんだ時が経ち、なんだかんだ商業施設を楽しみ、なんだかんだで休日は終わりを迎え始めた。特にその商業施設にある展望台に登り、渋谷の街を一望したときは、かたわらにいる男性のことなど忘れ、圧巻のパノラマに夢中になった。そのときだけ、少しは心が躍るようなデート気分を味わえた気がする。理由は今述べた通り、何かを忘れたからである。

 一方の奏さんも、それはそれで新鮮な体験をしているようだった。彼も渋谷は初めてと言っていたが、それ以前に彼は、「都会っぽいもの」すらほとんど馴染みがなかった。本当に東久留米市が地元なのかと耳を疑いたくなったが、今までの言動から考えれば、そこまで不思議ではないとも思う。先の商業施設で売られていた流行り物や、カラフルな服や髪の毛をまとう若者、さらには今しがた横を通りかかった、店名に星が付く某超有名カフェでさえも、彼は目を丸めて見入っていた。

「この店って、有名なのか?」

「はあ!?」

 店名をGoogle検索にかけてその事実を知った彼に対して、ついつい怒りを含んだような鋭い返しが漏れた。別にそんな意思は欠片も含んでいないし、むしろ私も行ったことはない。

 そんな風にして、会話はほとんどなくとも、お互いそこそこの収獲を携えて初体験を締め括る、はずだったのだが、

「奏さん……。ここ、ホントにどこなんですか……?」

「うーん……」

 なぜか、本当になぜか、私たちは道に迷っていた。

 いつの間にか駅から離れ、徐々に住宅街のような場所に迷い込み、カラフルな若者たちは、私のアパートの近所にもいるような親子連れに姿を変えた。

「ここを真っ直ぐ行ったら駅の方に向かうはずなんだが……」

「なんか、逆に遠ざかってる気もしますけど……」

 文明の利器もむなしく、地図アプリを使いこなせない我々は、中途半端な勘違いが積み重なって、益々都会の穴場に迷い込んでしまった。スマートフォンのバッテリーも心もとなくなり、段々と暗くなる空と合わさって、不安な気持ちにさいなまれていく。

「おい、大丈夫か!?」

「す、すみません……。大丈夫です……」

 運動という概念とは正反対な場所で生きてきた私は、体力の限界が迫っていた。

「あそこに公園があるから、とりあえず一回休もう」

「はい……。ありがとうございます……」

 そうして公園へ入り、奏さんに付き添われるようにしてベンチにへたり込んだ。

「ちょっと待ってろ」

 そのままどこかに行ったと思ったら、三十秒ほどして戻ってきた。

「口に合わなかったら申し訳ない」

「え、いいんですか……?」

 彼が差し出してきたのは、おそらくそこの自動販売機で買ったペットボトルのお茶だった。だが私の心を揺さぶったのは、その姿に、あまりにもギャップの要素が含まれていたからということに相違ない。

「元はと言えば、俺が駅の周りにも行ってみたいと言ったのが発端なんだ。最低限の責任は果たす」

「あ、ありがとうございます」

 素直にそのお茶を受け取り、渇いた喉に流し込んだ。何の変哲もない普通のお茶の味だったが、いつもの何倍も美味しく感じた。こういうのを、「特別」と呼ぶのだろうか。

「隣、座っていいか?」

「あ、はい!」

 そう言って奏さんは、すぐ横ではなく、半人分くらい空けて、私の隣に座った。

「悪かったな、こんなことになって」

「いえ」

「今日、楽しかったか?」

「え?」

 予想外の質問に、思わず身構える。

「いや、でもやっぱりデートっていうのは、相手に楽しんでもらえることが一番の目的だろう? 君は、その、俺の恋人ではないけれど、一人の女性として、今日一日、どうだったんだ?」

 言葉を選びながら発しているというのが、手に取るようにわかる。たぶん彼は、緊張している。

「そう、ですね、最初はどうなることやらって思いましたけど、でも振り返ってみたら、意外と結構楽しかったかもしれません。それに、」

「それに?」

 彼以上に緊張し、彼以上に言葉を選んでいる私の姿は、彼の目にどう映っているのだろう。

「尊さん抜きで、というか、奏さんと二人で、それも学校外で会うなんて初めてだったので、上手く話せるかとか色々心配だったんですけど、意外に大丈夫だったのが、意外と言うか」

「ああ、それは俺も思った」

 意外な彼の一言に、今度は動揺してしまう。

「君と活動するのも悪くないなって、不覚にも思ってしまったよ」

「一言余計ですよ」

「ふっ。まあともかく、執筆、明日からちゃんとやるようにしてみるよ。執筆というより、今は物語を作らなきゃだが」

「そうですね。それなら、私もできる限り協力します」

「ああ。今日みたいな日も、またこれから頼むかもしれない」

 今、はっきり言った。「頼むかもしれない」と。奏さんの口から、はっきりと。

「今日の出来事も、物語に組み込めそうですか?」

「ああ、充分参考になった。やはり異性というものは、色々刺激になる存在なのだな」

 今の時代、一歩間違えれば炎上しそうなことを平気で言う。

 ただ、それが彼の本心なのだから仕方ない。

「ただ、今のこの状況だけは、さすがにやめておこう」

「え? なんでですか?」

「なんでって、こんな状況になったら、普通仲たがえるものだろう?」

「いえ、私、案外楽しかったですよ? なんか、探検してるみたいで」

「え、本当か? それ、朱美君特有の感性なんじゃないか?」

「そうかもしれませんけど……。でも、逆にその感覚使うっていうのもアリですよね? 人の感情なんて、所詮、一括りにできないんだし」

「なるほど。そのアイデア、確かに使えそうだ。おお、素晴らしいよ朱美君! 君とならやはり、何とかやっていけそうだ!」

「あの」

「ん?」

 この際だから、思い切って言ってみよう。

「その、朱美、『君』って呼ぶの、やめてほしいです。なんか、気持ち悪くて」

「そんなこと言われても……。こういう風に呼ばないと、逆に俺が気持ち悪くないか?」

「世の女の子たちは、君付けなんかで呼ばれたくないと思いますよ?」

「そういう、ものなのか?」

 正直、知らない。

 だがこう言っておけば、たぶん彼は、大抵のことを思い通りにできる、気がする。

「そうなると、朱美、って呼べばいいのか……?」

「そう、なりますかね」

「『そうなりますかね』って、君が呼べって言ったんじゃないか」

「私だって慣れてないんです!」

 内心、もうどうでもよくなってきたが、春風が「それでいいんじゃね?」と、他人事風に言っているような気がした。

「おい! あれを見ろ!」

 今までの会話の気まずさを忘れたように、急に奏さんは叫んだ。

「あれ、駅の方向を示す看板じゃないか! やったぞ! 遂に迷路から脱出だ!」

 やたら大袈裟に喜ぶ奏さんを尻目に、私もその看板を見てみる。看板には「恵比寿駅」と書いてあった。確か恵比寿は山手線の渋谷の隣の駅だったから、私たちは約一駅分歩いたことになるのかと、気まずい雰囲気を忘れて冷静に考えた。

 約一駅分、恋人と二人で歩く。それは、どのようなものなのだろうか。どのような会話がなされ、どのような景色を共有し、どのような感情に浸り、そして、どのような出来事の末に、愛が深まっていくのだろうか。やはり私たちは、恋愛小説を完成させられるほど、経験を有していないのかもしれない。それなら曲がりなりにも、新感覚恋愛コメディとして売り出すのもアリかもしれない。そんなものが、果たして形を成すのかはわからないが。

「早く行くぞ! 朱美!」

 その一方で、会話の内容は覚えてくれていたようだ。

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