第二章 執筆 秋①

3 秋


「あ、どうも」

「お、来たか」

 後期最初の授業の日、約束通り原稿を見せてもらうために、私は部室を訪れた。

 後期も最初の週はほとんどがガイダンスのみで終わるため、別にわざわざ講義に行く必要はなかった。実際奏さんはサボっているようだったし、だからいつでもいいと言っていたのだろう。ただ私は、友人の彼女と最初の講義で会おうと約束していたため、一応出席した。本音を言えば一刻も早く原稿を見たかったのだが、唯一の同級生の友人を無下にはできず、約束を優先した。彼女とは二限と三限が同じ講義で、四限は別々だったので、三限が終わったと同時に部室に駆け込んだ。

「それで、どれですか!? 原稿!」

「まあ落ち着け」

 言葉通り落ち着いている彼に椅子に座るよう促され、とりあえず定位置の椅子を持ってきて、机を介して奏さんと対面した。

「題名はまだ決めてないんだが、一応、これだ」

 そう言って彼は、右上がじられた分厚い紙の束を机に置く。

「やっと、できたんですね……!」

「君のお陰でもある」

 やけに頭がかゆくなる。集中したいので、できるだけそういうことは言わないでほしい。

「分量はどれくらいになりそうですか?」

「原稿用紙で、だいたい五〇〇枚くらいだ」

「ちょっと多いですね」

 小説の新人賞の多くは、原稿用紙換算枚数を二〇〇枚から三〇〇枚まで、多くても四〇〇枚まで程度と定めているところが多いので、そう考えると若干多い。だが五〇〇枚や六〇〇枚と定めているところもあるし、最悪これから推敲すいこうで削ることもできるので、この部分はそこまで憂慮しなくてもいい。

「その分、とんでもない展開や演出を加えたんだ」

 自信満々に言った彼の目に、ついつい表情がほころぶ。

「わかりました。楽しみにしてますよ?」

「そうしてくれ」

 夏の最後を思い出させるやり取りに、再び表情が綻ぶ。

「じゃあこれから読むので、その間──」

「あ、ちょっといいか?」

「なんですか?」

「申し訳ないが、今日はこの後用事ができてしまったので、感想を聞くのは後日でいいか?」

「え、珍しいですね」

「ああ。ちょっと外せなくてな」

 どうせならしっかり読みたいと思っていたので、それならそれでいいだろう。

「わかりました。家で読むことにします」

「そうしてくれ」

 奏さんが帰り支度を始める。

「次はいつなら会えます?」

「ガイダンス期間中は基本的にはここにいるから、いつでもいいぞ」

「明日とかでも大丈夫ですか?」

「君が大丈夫なら、それでも構わない」

 夜ご飯を抜いてでも、お風呂に入らなくても、徹夜してでも、明日には感想を言おう。

「なら、明日、授業終わったらまたここに来ます」

「そうしてくれ」

 今日三度目の「そうしてくれ」を言った彼の顔は、どれも自信に満ちていた。

 その自信に、思わず、心が躍る。


 家に帰ると、即行で原稿を読み始めた。

 序盤を支配する想像した通りの華麗な文章と、中盤を支配する何度もフラッシュバックを繰り返す場面展開。たまに自分たちの記憶が邪魔をして、物語に没入することを妨げたが、それでも美しい世界観が、感情を登場人物たちに同化させていった。

 19時、20時、21時と、帰ってから五時間近く経過しても、一向に紙束をめくる手は止まらない。主人公に若干の曖昧さは感じたが、それでも彼らを彩る文字と物語が、逆に彼らを引き立たせる。その上これから、それらを完成させる、とんでもない展開と演出が待ち構えている。

 空腹も、眠気も、何もかもその美しい世界に吸収されていく、はずだった。

「なに、これ……?」

 彼の言っていた展開や演出は、私が想像し、期待していたものとは全く異なっていた。

「なんで、こうなっちゃうの……?」

 夕食も食べず、入浴もせず、ただただその喪失感に打ちひしがれながら、朝焼けが通り過ぎる明くる日を迎えた。


 バンッ、と大きな音を立てて、古い文芸サークルの部室のドアが開く。

「ん? ああ、朱美か。思ったより早かったな」

「思ったより早かったじゃないですよ! なんですかこれ!?」

「え?」

 鳩が豆鉄砲を食ったようとはまさにこのことといった、驚きの表情を浮かべた。

「奏さんは、本当にこういうものが書きたかったんですか!?」

「わかったから、とりあえず落ち着け!」

 家からずっと手に持っていた原稿を、机に置く。こんなに雑に持ってきたから、もはや最初に貰ったときの原型は留めていない。

「君は、あの展開や演出がおかしいと言いたいのか?」

「おかしいっていうか……、こんなの、最後まで読んでもモヤモヤが残るだけです……!」

 言いたいことがなかなか整理できない。

「モヤモヤ?」

「そうです! これってつまり、主人公がやってた行動やセリフは全部妄想で、現実の主人公は何もやってなくて、しかも好きだった女の子は、全く別の、伏線もなしに終盤いきなり登場した男に持っていかれて、捨てられる、そういう話でしょう……!?」

「ああ」

「しかもその男は、マッチングアプリで出会った金持ち男」

「そうだ」

「それで傷ついた二人は、月夜に照らされながら、同じ海で最期を選ぶ」

「どうだ? すごいどんでん返しだろう?」

「どこがですか!!」

 おそらく部室の外まで響いた私の声に、定位置に座っていた彼は、立ち上がって後退あとずさる。

「そんな展開、誰が望んでるんですか!? これじゃまるで、ゲームのバッドエンドじゃないですか!」

「お、よく気付いたな。実はあるゲームの──」

「これはゲームじゃないんです! 小説なんです! エンドは一つしかないんです!」

 こんなに声を荒げたことなど、間違いなく生まれて初めてだろう。

「君は、バッドエンドが苦手なのか?」

「確かに、好きではないです。最後は楽しいお話の方が好きです。でも、美しくバッドエンドを描いてる作品も、同じくらい好きです……!」

「美しい、バッドエンド?」

「はい。私も上手く言葉で表現できないんですけど、なんて言うか、こうするしかなかったみたいな、最後までもがいて、その末に幸せに届かなかった、胸を打つようなアンハッピーエンド、みたいな」

「……」

 少しだけ、彼の目に光が宿る。

「この物語は、すごく感情移入ができる物語なんです。だから、読者はたぶん、主人公にも、女の子にも、幸せになってもらいたいって、思うと思うんです。なのに──」

「それを、ぶち壊したと」

「……、はい」

 私の目にも、光の欠片かけらが生まれる。

「わかった。そんなバッドエンドは、確かにこの物語には合わない。ありがとう。気付かされたよ」

「……いえ」

 話が一旦落ち着いたことを見計らい、奏さんが元の位置まで戻ってきた。

「だが、このどんでん返しはどこかには入れたいんだ。俺の作品は、全部そういう構成になっていて──」

「それも違うんです!」

 再び私の荒げ声に気圧けおされ、足場が不安定になっている。

「違うって?」

「奏さんは、どんでん返しってどういうものだと思ってますか?」

「え? まあ、今までと真逆の展開にして、読者をビックリさせるみたいな」

「確かに、表面上はそうだと思います」

 そうして言葉を並べながら、奏さんの方へと歩いた。

「どんでん返しって、起承転結の結とか、もしくは転辺りを返すものじゃないですか。だから一見、ここだけをひっくり返してるように見えるんです。だけどそのとき返してるのって、結とか転だけじゃなくて、その前の起とか承も含めてひっくり返してるんです。だから、本当のどんでん返しって、ひっくり返しても全部くっついていて、今までのものが全く落ちないんです」

 初めて、こんな近くで、彼のレンズの奥を見た。

「奏さんのこれは、結だけをひっくり返していて、だから今まで大事に作り上げてきた、起も、承も、転も、全部関係なくなっちゃって、すべてを、そっくりそのままひっくり返したように、全部落っこちて、全部、壊れてしまってるんです!」

 私がひとまず言い終えると、彼はゆっくりと、近くにあった椅子に座った。

「こんなこと、言いたくなかったんですけど……」

 私も同じように、近くにある椅子に座る。

「正直、奏さんの文章、前半と後半で、明らかに変わってしまっています」

 その言葉を聞いて彼は、今まで以上に、私に視線を向けた。

 前半と後半、それは高校時代に書いたものと、最近書き始めたものの境だ。

「もちろん後半の文章も、良い文章だとは思います。ストーリーの展開は繊細に伝わってくるし、情景描写も美しいです。でも、登場人物たちの心理描写が、前半にはあった、なんて言うか、透明感みたいなものが失われていて──」

 そのまま私のレンズの奥を、深く見つめている。

「作られた感情、のように感じるんです」

「作られた感情……」

 そう呟き、視線を落とした。

「もちろん読者の人は奏さんのことは知らないから、そんなこと気にしないかもしれないんですけど、でも明らかに、前半と後半で、心理描写の核が違うんです」

「どう、違う?」

「前半はもう、奏さんが考えそうなことが、そのままつづられています。だからちょっとあらいところもあるし、それはおかしいでしょ、みたいなとこもあるんですけど、どこか温かいんです。その点後半は、確かに綺麗で繊細で、共感できる部分も多いです。だけど、どこかお手本をなぞっているような、良い子すぎる気がして」

 視線を落としながら、目を閉じる。

「私は、前半の方が好きです。どう見てもカッコ悪いけど、真っ直ぐで、ひたむきで、挨拶しただけで相手に惚れちゃうような、そんな奏さんの方が、好きです」

 目を閉じながら、近くにあるボロボロの原稿を手に取った。

「確かに読者の人たちの中には、作家が登場人物に自己投影していることを嫌がる人もいると思います。後半のまとまっている方が、大衆受けするかもしれません。だけど、これは奏さんが創った、『奏さんの』物語なんです。だから、もっと自分勝手にやってもいいと思います」

 その彼の姿を見ながら、私は立ち上がった。

「奏さんが書く、奏さんにしか書けない物語を、私は見たい!」

 そばにある荷物を持ち、入り口の方へと向かう。

「もっと、あなたが生んだ物語を、愛してあげてください……!」

「……」

 普段の姿からは考えられないほど、私の言葉を聞き、黙っている。

「ごめんなさい、こんな、わがままで。それじゃ──」

「朱美」

 ドアノブに手をかけた瞬間、私の名前が呼ばれた。

「もう一度、書く。だから──」

 固まる背中と、固まる声。

 でもまだ、私は、

「もう少し、待っていてくれ」

 彼を、信じている。

「わかり、ました。楽しみに、してますよ……?」

 彼が、書き続ける限り。

「そうしてくれ」

 彼が、創り続ける限り。

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