第二章 執筆 夏➁
2 夏
「え?」「え!?」
二人が一斉に声のあった方を向く。
「な、なんですかあなた……」
「か、奏さん! 何やってるんですか!?」
正体はなんとなく察しがついたが、その正体がなぜここにいるのかが、最大の謎だった。
「え、朱美ちゃん、知り合い?」
「う、うん。一応、サークルの先輩で……」
奏さんはなぜか平然と、西野さんを見つめている。
「なんで、こんなとこにいるんですか!? 私と一緒ならまだしも、一人でなんて!」
言った瞬間、誤解を招く言い方をしたことを悔やんだ。彼はともかく、西野さんがそう関連付けることは避けられないだろう。
「いや、最近、君の扱いが少し雑になってしまっていたと感じてな。だが街とかの雰囲気は知りたかったから、そういうときはこうして、一人で街に出てみてるんだ。今ここにいるのはたまたま偶然で、歩いてたら偶然君の姿を見つけ、君たちの会話が聞こえて……」
「盗み聞きしてたってことですか!?」
「ち、違う! 本当にたまたま聞こえて、君に話しかけるタイミングを探っていただけだ!」
「ちなみにどこら辺から?」
「彼女が君に、バイトの話が気になるかとか聞いた辺りから……」
「ガッツリ最初からじゃないですか!」
無駄に手慣れた私たちのやり取りを見て、西野さんは唖然としている。
「ごめんなさい美月ちゃん! この人、めちゃくちゃ変人で、こうやって平気で盗み聞きするような変態で、それで……」
「随分言ってくれるな」
「ああ、いや……」
そう言われても、というような困惑した顔をしていた西野さんだったが、一瞬間を置くと、奏さんの方をしっかりと見据えた。
「あの、あなたがさっき言っていた、私が間違ってるって話」
「ああ、そのことか」
そう言うと、奏さんも西野さんの方を向き、真剣な顔をした。
「もう一度はっきり言おう。君は間違っている」
本当にはっきりとそう言われ、西野さんの肩が
「ど、どういうことですか。何が、間違ってるって……」
「じゃあ訊くが、君はそうやってお金を稼いでいることを、親や友人に胸を張って言えるか?」
「え……!?」
何かが彼女に突き刺さった。
「別にこれは世間一般論の話じゃない。一時の感情じゃなくて、そうやって稼ぐことに
一応誤解のないように補足しておくと、彼はたぶん、一部のリアクション芸人のことを言っているのだと思う。それにしても、例えとはいえ、初対面の女性に対し、そんな放送コードギリギリの例を用いるとは、相も変わらずこの人の神経は常識離れしている。
「だけどな、君は迷っているんだろう? そうやって大金を手にし、少しずつ変わっていく自分の姿に」
「ち、違います! 私は、変わってなんか……」
「もしこれからも躊躇しながらやり続けるなら、必ずいつか深く後悔し、深く傷つくぞ?」
「……、そんなこと、ない」
自分に言い聞かせるように、西野さんはそっぽを向いた。
しかし、そっぽに逃げる彼女を現実に連れ戻したのは、いつになくゆっくりとした彼の声だった。
「これはあくまで推測だが、君はもしかして、今までの人間関係を、全部リセットしようとしてるんじゃないか?」
「っ!?」
一瞬、彼女はフラついた。
それを手で支え、そうなる原因を作った奏さんを睨み付け、
「何言ってるんですか!? 彼女と私は、高校の同級生ですよ!?」
「あ、そうだったのか……。それは申し訳ない。俺の勘違いだ」
しかし当の彼女は、一瞬苦笑いを浮かべ、
「……いえ、勘違いなんかじゃないです」
そのまま西野さんは体勢を立て直し、私の手から離れた。
「むしろ、図星です。私、高校の友達とか一回忘れて、心機一転こっちで頑張ろうと思ってたんです。だけど、こっち来て新しくできた人間関係は裏切られることばっかりで、高校のときはそんなことなかったのに、悪口とかもいっぱい言われるようになって、それでやけになってこんなこと始めたら、やめられなくなっちゃって……」
震える彼女の肩を必死で支える。
普段は相手の目など見ない奏さんが、しっかりと、彼女の目を見据えている。
「こんな風になっちゃったから、今さら高校の友達になんて余計見られたくないし、それで……」
「私、だったんだ」
「ごめんね、朱美ちゃん。でも、朱美ちゃんはわかってくれるって信じてたから……」
「うん。私も気付いてあげられなくて、ごめん」
涙に濡れるその美しい顔を手で覆いながら、彼女は必死に立ち上がろうとしている。
「……私、これから、どうしたらいいんでしょうか……?」
「とりあえず、アプリは消して、男とはもう会わない方がいい。男っていうのは狼だ。羊の顔していても心の中は、狼が牙を
何かの歌詞みたいな比喩は気になったが、実際言っていることは一理ある。
なにせ彼も、狼のうちの一匹なのだから。
「その、実は……」
今までにないくらい思い詰めた声で、彼女の口が開く。
「一ヵ月くらい前に会った男性に、ずっと、付きまとわれてて……。いつの間にかラインとかインスタのアカウントも知られて、それでこの前、家の前で、待ち伏せされて……」
「なんだと?」
「そのときはなんとか逃げ切ったんですが、その日以来、もう外歩くのが怖くなって……」
そんなこと、全く知らなかった。そんな雰囲気、全く感じなかった。
私はもしかしたら、小説家にとって重要素である観察するという能力が、
「それは、警察には相談したか?」
「はい。でも、あれ以来現れなくなったので、警察の人もどうしようもないと」
「そうか……。それなら、」
いつになくきびきびとした挙動で、奏さんはポケットからスマートフォンを取り出した。
「俺の知り合いに、そういうのに強い探偵のような人がいるから、その人に頼んでみるといい。安心してくれ。その人は女性だし、君みたいな若い女性の相談には慣れているから、きっと力になってくれるはずだ」
「ほ、ホントですか!?」
「ああ。今連絡先を教えるから、遊佐奏って人から聞いたって言えば、快く取り合ってくれるはずだ」
「え、奏さんでいいんですか?」
「おま……、確かにそういうのはいつも尊の役目だが、たまには俺だって役立つときもある。というか、その人は俺の親戚なんだ」
「あー、なるほど。すごい納得しました」
「この野郎……、今絶対バカにしただろ」
西野さんは尊さんの存在など知らないはずだが、今の私と彼のやり取りを見て、高校のときの、優しい笑顔が戻ってきた。
「今日はもう遅いし早く帰ろう。俺からも一応連絡しておくから、明日辺り電話すれば、スムーズに取り合ってくれると思う」
「色々と、ありがとうございました。えっと、」
「遊佐奏だ」
「奏さん、ですね! ありがとうございます! この御恩、一生忘れません!」
そう言って彼女は、満面の笑みを浮かべながら、奏さんの手を握った。
平静を装っているが、私には決して見せない
「朱美、帰ろう」
不意に奏さんから投げかけられ、身体が変な反応をしてしまう。
「えっと、美月ちゃんは?」
「私は地下鉄だから、ここでお別れ! 今日は色々ありがとう! 朱美ちゃん、それと、奏さん! それじゃ二人とも、お元気で!」
「うん、美月ちゃんも元気で!」
「達者でな」
西野さんは来たときよりも軽やかに、地下鉄の入口へ向かっていった。
「奏さん、連絡先とか交換しないでよかったんですか?」
「別にいい。第一、彼女の名前すら知らん」
「あ、そういえばそうですね。相変わらず、女の子との距離の取り方、極端ですよね」
「彼女に関しては生きている世界が違い過ぎるから、仮にそういう関係になったとしても、君と違って上手くいくことはないだろう」
いつの間にかそういうことを
「今日みたいな話、題材で使えるかもしれませんね」
「うむ、悪くないな。相変わらず朱美は、そういう所がちゃっかりしている」
これから乗る電車は違うが、ホームのある方向は同じなので、この短い間、街の
「そういえば最近、執筆、ちゃんとやってます?」
「編集者みたいなことを言うんだな……」
「まあ、そんなところです。ところでどうなんです?」
「うーん、やっぱり題材が足りなくて、いまいちストーリーが展開できない。街に繰り出すのはいいが、かと言って一人でやれることは限界があるし──」
「なんで誘ってくれないんですか……!」
「え?」
こんなことを言った自分が、不思議でならない。
初めて私以外の女性に優しくしている彼を、目の前で焼き付けたから? そんなこと、あるわけないのに。
「言ったでしょう? 何かやりたいことがあるなら協力するって」
「いや、前期は確かにそうしていたが、あれは君に対して失礼じゃないかと思って」
「そんなこと……」
ないです、まで言い切る勇気は、私にはない。
「まあ、ほどほどにしてくれれば問題ないです。ただ、行き詰まってるのに私が何もしていないのは、やっぱり嫌だから」
「それもそうだな。それなら、これからはまたどこかに行くときは、できるだけ君を誘うようにするよ」
「そうしてください」
最も自然な流れで、彼との「取材」の日々を再開させることに成功した。
私も案外、狼の血が宿っているのかもしれない。
後期の通常授業週が始まる、つまり夏休みが終わる一週間前、私は
「奏が急に海見に行きたいって言い出してさ、今度行くことになったんだけど、朱美ちゃんも良かったらどう?」
西野さんから電話がかかってきたときと同様に、
だが結局、その久しぶりは解消されなかった。
「ホントにごめん。急にテレビ局の人から会いたいって言われちゃって、明日、行けなくなっちゃった……。俺から誘ったのに、本当に申し訳ない」
海に行く予定の前日の夜、つまり昨日の夜、尊さんからの残酷な報告の電話によって、私のテンションは
一方その後すぐ、奏さんに電話すると、
「俺は別に一人でも行くが、君はどちらでもいいぞ」
と、突き放されたような答えが返ってきた。
なんだが無性にムカついたので、
「いえ! 私も行きます!」
なんて、少々子供じみた言い返しで反撃した。
「お、おう。それなら好きにしろ」
こんなやり取りがあって、実際二人きりで海に来たのだが──
「奏さん……。ここ、ホントにどこなんですか……?」
「うーん……」
私は今、夢を見ているのだろうか。
デジャヴにも程がある感覚に襲われ、頭がクラクラしかける。
「ここを真っ直ぐ行ったら着くはずなんだが……」
「なんか、逆に遠ざかってる気もしますけど……」
なぜ私たちは、近代文明が生んだ交通機関の停車場ならまだしも、この惑星と共に文明の成り立ちや発展を見守ってきた、生命の源への
「奏さん、そろそろきついです……」
「うーん。お、あれ、コンビニじゃないか?」
さすがにデジャヴにも節度を設定しろと、この世界を創り出した神、もしくは神気取りの人間に訴えかけたい。あんたのその面を見たら、一発殴ってやりたい。
「入って、一回休もうか」
「わかりました」
そんな風に原作者の男と不毛な争いをしている間にも、奏さんは足を進める。
中に入り、ペットボトルやアイスやらを買って、ひとまず応急処置の装備を手に入れた。
だが奏さんは、どのアイスを買うかで悩んでいた。
「そんなに悩むなんて珍しいですね」
「うーん、ダメだ、どうしても決められん。あれだったら、先に行っててもいいぞ」
「あ、わかりました。ついでに店員さんに道訊いてみますね」
「そうしてくれ」
そのまま私は先に会計を済まし、店員の男性から海への方向を無事に聞き出し、店を出て買ったばかりのアイスを食べていた。しかし食べ終わっても奏さんはなかなか出てこないので、とりあえず信号のない横断歩道を渡り、コンビニから出てすぐの道路から姿が見える位置で待機していた。
すると二、三分経ち、漸く奏さんは店内から出てきた。出てすぐに私の姿を見つけ、こちらに来るためにその横断歩道を渡ろうとしている。そのタイミングで一台の車が現れ、奏さんが渡るのを待ってくれている。しかし奏さんは車に先に行くようにゼスチャーし、逆に道を譲ろうとしている。車の人もそのようなゼスチャーをし、段々二人はゼスチャー合戦みたいな状況になり、一言で言うならば、グダグダになっていた。
何やってんだ、あの人。心の中で、はっきりとそう呟いた。
やがて二人とも痺れを切らしたか、お互い自分の判断に従おうと動き出した。しかし今私が言ったように、二人とも同時に動き出したので、奏さんは一瞬、
「何やってんだ、あの人」。今度は口に出して、はっきりとそう呟いた。
こんな人間を私に押し付けた原作者は、やはり殴っておかなければならない。
「奏さん」
「ん?」
横で砂浜に座りながら、
「何か、見えます?」
「いや」
私たちはもう、二時間はこうしている。
「強いて言うなら、月、か?」
「なんですか、それ」
確かに今、夜空に浮かぶ満月が海に反射し、幻想的な光景を創り出している。
「逆に、何が見える?」
「うーんと……」
奏さんが目を向けている方に、同じように向けてみる。
「星、ですかね」
「海の話はどこに行った」
ボケたつもりはなかったが、奏さんは冷静にツッコんだ。
私たちは今、ただひたすら、夜の海を眺めている。元々奏さんは海に「行きたい」ではなく、海を「見に行きたい」と言っていたので、世間一般の海水浴のイメージとは相反する今の我々の行動は、我々の中では理に
ただ、世間一般のイメージが頭から離れず、何かをほんの少し期待した私は、無駄に多い荷物を携えて、その奥に水着を忍ばせた。尊さんと三人で行くことを想定して、
だが、その心配はなさそうだ。
「なにか、話してくださいよ」
「な、なんだいきなり」
別に特別、沈黙が嫌だったわけではない。
「見てるだけじゃ、つまらないですから」
「うーん」
見てるだけじゃ、つまらない、わけではない。
「そういえば、あの女性は大丈夫そうか?」
なんとなく、彼と話がしたくなった。
「ああ、はい。あの一週間くらい後に、その犯人捕まったらしくて」
「そうか。それはよかった」
「美月ちゃん、奏さんにすごく感謝してて、会いたがってますけど、奏さんの連絡先、教えてもいいですか?」
「いや、やめておいてくれ」
「え? なんで?」
「なんとなく、ダメな気がする」
「なんですかそれ」
こういう何気ない会話が、欲しくなった。
「恋人同士だと、こういうとき、どんなことを話すんでしょうね?」
「知らん。そんなもの」
「知らんって……。そういうことを考えるのが小説家の仕事でしょう? ほら、なにか話してください」
「さっきから強引すぎる……。そうだな、どうだ、最近。何かいいことはあったか?」
「なんですかそれ……」
「その、恋人とか、そういう人はできたか?」
不意すぎる超特急な変化球に、喉が詰まる。
「な、なんで、そういうこと訊くんですか……?」
「いや……、だって、そういう小説を書くのだから、そういう経験も、その、しておいた方がいいだろう?」
「だからって、私たちの関係で、そういうこと、訊きます?」
「ん? どういう意味だ?」
「なんでもないです……!」
やはりこの人の思考回路は、良い意味でも悪い意味でも、訳が
「ていうか、恋人同士の会話って言ったじゃないですか。その質問はおかしいでしょう?」
「確かにそれもそうだな。それなら、えっと──」
お互い、息を深く吸い込む。
「月は、好きか?」
息が止まる。
「……、はあ。もっと意味が解りません」
「すまん……」
沈黙が生まれる。
「どういう意味だったかだけでも、教えてもらっていいですか?」
「ああ、いや」
右手に
「あの月が、あまりにも綺麗だったから、」
その砂を、目の前に放り投げる。
「共有したくなっただけだ」
いつかの日のように、空に浮かぶ満月を見上げた。
「奏さん、らしいですね」
そのまま満月を見つめる彼は、目を閉じ、私の言葉に軽い笑みを浮かべた。
「来週から、授業が始まるだろう?」
「はい」
「最初の授業の日、いつでもいいから、部室に来てくれないか?」
「え?」
閉じた目を開け、私の目を正面から見つめた彼は、いつになく、真剣な表情をしている。
「できたものを、完成した原稿を、見せたい」
この日が、漸く来た。漸く、辿り着いた。
「わかりました。楽しみにしてますよ?」
「そうしてくれ」
月の明かりは、やけに彼の下に集まり、それを神秘的なもののように演出している。
そんな風にして、私たちの夏は、
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