第60話

 4月、恵愛病院に新しい研修医が配属された。今年は合計8名の研修医が医師としてのスタートを切る。


 初日の今日は病院関係者が多目的ホールに集まり新スタッフが挨拶を行う。研修医もひとり、ひとり挨拶をしていく。


「それでは、続いて後期研修・専攻医のご紹介です」


 司会に呼ばれて俺は椅子から立ち上がる。


「榛名千昭です。産婦人科専門です。よろしくお願いします!」


 拍手を送られる中、漆山先生と目が合った。軽く手を上げて俺に微笑んでくれた。その隣で三國先生が俺を睨んでいる。俺は引きつった笑顔で返す。


「いい迷惑だな。申請の締め切りをとうに過ぎてから専攻を変えられるなんて。受け入れ先の科にも随分迷惑が掛かった。やっぱり初期研修での指導が足りてなかったんじゃないですか、先生」

「すみません。昼飯、何でも奢るんで許してください」

「アンタ、激辛ラーメン屋以外知らんでしょう……」


 漆山先生と三國先生が何やら話し込んでいる。

 俺の話だったら絶対いいことじゃないだろうな。


 それでも俺は真っすぐ背筋を伸ばす。


 挨拶を終えた後は、通い慣れた産婦人科のナースステーションに顔を出す。改めて挨拶をすると瑞樹さんから「知ってるー」のヤジを貰った。



 専攻医としての初日を終えて、電車に揺られて家へと帰る。街路樹の桜からひらひらと花びらが落ちる。夜空に舞う桜の花びらを目で追いながら歩いていると、あの小さな立て看板が見えてきた。


『今夜、たぬきのキャラメル最中あります』


 ビルとビルの隙間、道と呼ぶには細すぎる、まるで野良猫の通り道のような狭い路地に光が見える。進むとアンティーク風の木製ドアが目に入って来た。窓枠のショートケーキ型をしたステンドグラスから柔らかな灯りがこぼれる。


「千昭さん!」


 ドアを開けると、百衣さんが俺を出迎えてくれた。俺はドアを閉めてショーケースを見る。漆塗りの黒いお盆の上にたぬきの型をした最中が並んでいた。


「新作、出来たの?」

「うん! 実は、さっき雨宮さんが旦那さんと一緒に買いに来てくれました」

「前に俺が預かったフロランタン渡せなくてごめんね。今夜、お店がオープンするって連絡したら喜んでたよ」


 百衣さんはショーケースから最中を取り出し、今夜もここで食べて行きますかと尋ねる。俺は頷いてイートインスペースの椅子に座った。


 百衣さんの顔色がよくてほっとする。まだ本調子ではないようだけど、自分で作ったお菓子を食べるようになり少しずつ力を取り戻しつつあった。


 あの夜、俺のために力使い果たして死んでしまいそうになっていた百衣さんを救ったのは百衣さん自身のお菓子だった。


 百衣さんも俺と同じだ。

 ずっと自分を顧みることなく生きてきた。

 明日が来ることを恐れる夜もあった。


 だけど今は違う。

 もういいんだ。

 自分を甘やかしていいんだ。


「今まで作ったお菓子は食べてなかったの? 余ったりすることもあっただろ?」


 ずっと疑問に思っていたことを尋ねた。


「作ってるとそれだけでお腹一杯になっちゃって味見程度でしか……それに、余ったものは一吹くんが全部食べちゃうから」

「なっ……! お前のせいかよ!」


 俺はレジ裏に向かって叫ぶ。最中と湯飲みを乗せたお盆を持って一吹くんが現われた。今日も三角巾とエプロンが似合っている。


「捨てるのもったいねぇじゃん」

「まぁそうだけど……って、なにこれ可愛い。桜?」

「桜湯知らねぇ? 塩と梅酢で漬けた桜の花にお湯を注いだ飲み物だ。花びらが咲いてるみたいで綺麗だろ」


 薄ピンクのお湯の中で桜の花びらが舞うようにゆらゆらと揺れていた。


「百衣のお菓子をずっと食べて来たから俺もなんか力がついてきた気がするんだよな」

「たぬきのキャラメル最中は一吹くんのアイデアだもんね。私、和菓子は疎いからすごく勉強になったよ」

「おお、期待大。いただきます!」


 お盆の上に乗った最中を手に取って一口かじる。


「うっっっま! なるほど! 裏側をフロランタンにしたんだ! 餅もいいアクセントになってる!」


 さくさく、ざくざく、もちもち。

 噛むごとに触感が変わって食べ進めるのが楽しい。


「色々改良を重ねてさ、生地は最中のもち米にして裏側をフロランタンのアーモンドのキャラメリゼにしたんだ。お前んちで食べたみたらし団子は小さめにして挟むことにした!」

「天才!!」


 だろ? と一吹くんは得意げに鼻をひくひく動かした。


「これさ、売れるんじゃない? たぬき型も可愛いしお土産にぴったりじゃん」

「雨宮さんもそう言ってた! 今度取材してもいいかって百衣聞かれてただろ!?」

「だけどそんなに沢山作れるわけじゃないし……」

「お取り寄せ限定で購入制限かけるのはどうだ? 抽選方式もありだな」

「なんか商才まで芽生えてない……?」


 俺は苦笑しながら桜湯を手に取る。

 ほのかな塩気と酸味に、桜のいい香り。甘い最中にとても合っていた。


 二口目のたぬきの最中を噛みしめるように食べる。


 うららかな春が過ぎても、うだる夏が枯れる秋が凍てつく冬が訪れても、ずっとずっとこんな明るい夜が続くことを祈りながら。



【完】


最後までお読みいただき本当にありがとうございます。

少しでも気に入っていただけたら

★や♡、フォローで応援・評価いただけると嬉しいです。コメントもお気軽に。今後の執筆の励みになります。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真夜中の甘やかし〜孤独を癒すご褒美スイーツは摩訶不思議な路地裏から〜 ワタリ @gomenneteta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画