第59話
襖を全開にすると、百衣さんの顔が見えた。
目を閉じて眠っていると思いたかった。窓ガラスから差し込む月の光に照らされて、異様に青白く見えるだけなんだと。
「もう……起き上がる力が残ってないんだ」
背後で一吹くんの弱々しい声がする。
「な……なんで……」
俺は一歩、一歩、百衣さんに近づく。
「お菓子へのまじないも裏路地の店を作り出すのも全て百衣の力だ。だけど、力は無限じゃない。命そのものを削って生み出す力だ」
俺は百衣さんの枕元に膝から崩れ落ちる。
「百衣は分かっていた。分かって望んで、そうしていたんだ」
「俺は望んでないって言っただろ……!!」
俺は泣き叫び、百衣さんの身体に縋りつく。
「生きてよ! 悪いと思うなら……もう自分のために生きてくれよ!!」
ずっと言いたかった言葉。
父さんにも母さんにも雨宮さんの赤ちゃんにも言いたかった。
「もう誰も死なないでくれよぉ……!!」
口に出したら余計に叶わない気がしてずっと言えなかった。
だけど、俺にはこれ以上の願いはない。
誰も死なないで。一緒に生きて欲しい。
ひとりはもう嫌なんだ。
灯りのない部屋が一層青く光る。俺は頭に軽い重みを感じて顔をあげた。
「百……衣さん……」
薄く瞼をあげた百衣さんが俺を見て、ゆっくり頭を撫でる。
「お……たんじょ……び……おめでと……ケーキ……食べた……?」
俺はぼろぼろと涙を流しながら首を振る。
「い……一緒に食べようよ……誕生日ケーキ……ひとりで食うなんて寂しすぎるだろ……?」
自分でもこんな時に何を言っているんだと思ったけど、百衣さんはふっと静かに笑った。
「そうか!!」
背後で息吹くんが叫んだ。びっくりして振り返るとその姿がなく開けっ放しの玄関から風が通るだけだった。
俺は我に返り、百衣さんの心拍を確認する。弱々しくて胸が潰れそうになる。とにかく病院へ連れて行こう。正体がバレるかもしれないし病気じゃないから治療方法もないかもしれないけどこのまま寝かせておくよりは絶対にマシだ。
「ああ! クソ!」
救急車を呼ぼうとスマホをポケットから取り出すが圏外だった。俺は布団から百衣さんの身体を抱き起し、背中に乗せる。だらんと力の抜けた彼女の身体に焦りが募る。どんなに大声で名前を呼んでも目を開けてくれない。俺にしがみつくことすらない。俺は無理やり彼女の腕を引っ張って背中に担いで玄関へ急ぐ。担いでいるからスニーカーがうまく履けない。履きかけのスニーカーを乱暴に蹴飛ばして玄関を飛び出した。
「はあ! はあ! はあ!」
落っことさないように気を付けながら全力で山道を走る。でこぼこの地面、ぬかるみ、小石、木の枝が俺から走る力をどんどん奪おうとする。痛てぇ。畜生。ふざけんな。頑張れ。頑張れ頑張れ頑張れ頑張れって!!
頑張ってくれ百衣さん。
「うわっ!!」
足を上げた瞬間、すり減って穴の空いた靴下に木の枝が引っ掛かる。百衣さんを背負っているから身構えることも出来なくて硬い地面に顔から突っ込んだ。
「ぅ……ぐ……ッ」
ぼたぼたっと顎を伝って鼻血が流れている感触がする。口の中も血の味だ。顔中、激痛が走る。
「百衣さん!!」
倒れ込んでいる百衣さんに駆け寄る。頭を打っているかもしれないから抱き起すことが躊躇われ、おろおろと狼狽えた。灯りのない山道じゃ彼女の容態が分からない。
「百衣さん! 百衣さん!!」
血と涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。頭ン中もめちゃくちゃで暗闇の中大声で名前を叫び続ける。
ああ、嫌だ。なんでこんな時に思い出すんだ。ずっと今まで忘れていたくせにどうして今なんだよ。
『母さん! 母さん!!』
灯りに一つない森の中で、記憶が鮮明になっていく。あれは最後の日。明日から一時退院の予定だった。おめでとう。神様は千昭のことを見ていてくれたんだね。そう言い切るのに母さんは10分以上かかった。途切れ途切れの最後の言葉。医学部合格を祝う言葉。そして、その夜、母さんは息を引き取った。
ああ、ああ、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
もう思い出したくないんだ。
お願いだ。
もう誰も俺の思い出にならないで。
遠くからバタバタバタッという足音が聞こえて来た。
「ケーキ食おう!! 早く!!」
ついさっき出て行ったはずの一吹くんが肩で息をしながら戻って来た。口には俺の部屋にあったケーキの箱の取っ手を加えている。箱はぼこぼこにへこんでいた。
「こ、こんな時に何言ってんだよ!! 今じゃねぇだろ!」
「今しかねぇんだよ!! いいから早くしろ!!」
一吹くんの剣幕に押されて、俺は涙が引っ込んでいった。彼女の顔の傍に箱を置いた。
「ぼさっとするんな!! お前は医者なんだろが!!」
一吹くんのは百衣さんの身体を起こそうとする。一吹くんの力じゃ百衣さんの身体はぴくりとも動かせない。
手の甲で涙をぬぐって、自分の身体にもたれ掛からせるように百衣さんの身体を抱え起こす。その間に一吹くんはぼこぼこにへこんだケーキの箱を開けた。中には原型をとどめていないほどぐちゃぐちゃになった俺の誕生日ケーキが入っていた。
「食わせろ!!」
「え、は? いや……だってお前」
「いいから! 俺の言葉を信じろ!!」
「でも……フォ、フォークとかねぇし」
「指ですくえ!!」
一吹くんは牙をむき出しにして怒鳴る。
俺は人差し指でクリームの部分をすくい、百衣さんの開いている口に恐る恐る入れた。百衣さんの冷たい口の中でクリームは溶けていく。その行為を何度か繰り返している時だった。
「あ……」
小さな声を上げて、百衣さんは目を覚ました。
「最初からこうすりゃ良かったのかぁ……」
一吹君は盛大な安堵のため息を吐いて腰を下ろした。俺はまだ事態が飲み込めない。それでも、腕の中で百衣さんの意識は段々とハッキリしてきた。
百衣さんは弱々しく腕を上げて俺の手をとった。指を持ってケーキをすくう。そして、俺の口元まで運んだ。俺は戸惑いながらも口を開けた。
「……うまい」
俺が微笑むと満足そうな顔をして再び眠りについた。
すうすうと穏やかな寝息が耳に届いて、俺は力強く百衣さんを抱きしめた。
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