第58話
「百衣さん!」
インターフォンのない古民家の玄関を叩く。窓に灯りはなく煙突から美味しそうな香りもしない。
スマホの時計を見るともうすぐ日付が変わる頃だった。寝ている可能性も考えたが、さっきのケーキの状態からそれは考えにくかった。
「……俺の顔を見るのが嫌ならそのまま聞いてください」
百衣さんから反応がない理由があるとすればきっと俺のせいだ。今日のケーキだって、いつもなら甘やかし屋を開店して声を掛けるだろうにそうしなかったのは俺に会いたくなかったからだと思った。
「この間はごめん……あんな言い方して。雨宮さんからの手紙ありがとう。誕生日ケーキもすごく嬉しかった。明日だって知っていたんだね」
閉ざされた扉に向かって、俺は一方的に語り掛ける。
「俺さ……思い出したんだ。どうして洋菓子屋リリーのことを何も覚えていないのか。母さんとの思い出が薄くなっているのか」
泣いている女性を見るのが辛いのは母さんを思い出すからじゃない。
「俺は……弱い自分を隠していたかったからなんだ」
泣いている母さんを見ても何もできない、弱くてちっぽけな子どもの頃の自分を思い出すからだ。
母さんはとても強かった。
涙一つ俺に見せないでひとりで病気に耐えていた。
それに比べて俺はとても弱かった。
陰で人知れず泣く母さんの苦しみに寄り添うことが出来ず、病気を治してやることも出来ず、ずっと見て見ないふりをした。自分の気持ちすらも誤魔化して。
叔父さんの喫茶店のソファ席から。
実家の団地の寝室から。
病室のドアの隙間から。
本当はずっとずっと母さんを見ていた。泣きながら俺は見ていたんだ。
そして、目をそらした先にあったのは自分の悲しみだけだった。
ひとり親で予後不良の母親を支える自分。
友達とまるで違う生活になってしまった地元での暮らし。
地元を離れられたと思ったら今度は経済的に恵まれた医学部生が多い大学生活。
孤独で、誰に助けて欲しくてたまらない。
だけどそれを口にしてしまったら押し込めてきた苦しみや悲しみが溢れて二度と前を向けない気がしたんだ。弱い俺は、全部見てみないふりをするしか
あの日、24マートの閉店の張り紙を見た瞬間。これまで押し込めて来た感情に一気に支配されそうになった夜。
現われたのは、甘やかし屋だった。
「俺みたいな人間が誰かに甘えてしまったらもう二度と立ち上がれなくなると思ってた……だけど違った……君が……力をくれたからだ……!」
その時、ガラガラッと勢いよく引き戸の玄関が開いた。
「近くで言ってやってくれ。まだ聞こえると思うから」
一吹くんは泣いていた。
俺は電気のついていない部屋の中を見る。
そして、飛び込むように居間に上がった。
半分開いた襖から横たわる百衣さん姿が見えた。
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