第四章 僕はあなたを手に入れる

 結局、鍵の掛かった千尋の引き出しは開けないまま、僕は部屋を後にした。再度、ピッキングを考えたが、使用していたクリップを無くしてしまった上に、机をもう一度解錠した場合、千尋に大きな疑念を与える可能性が生まれた。あの時、戻ってきた千尋は、机を施錠したが、その時は恐らく、自身の掛け忘れだと思ったに違いない。だが、その机が再び解錠されていたら、確実に疑うはずだ。誰かが侵入し、机をこじ開けたと。


 あるいは、机の中身を確認後、今度はピッキングにて施錠することも可能だったが、解錠であれだけ時間がかかったのだ。下手をすると、長時間、施錠に拘束される危険性があった。いつ何時、また千尋が戻ってくるかわからない。それは、リスクが大きい行為だった。


 少なくとも、合鍵は今、この手に存在している。またチャンスはいくらでもあるのだ。最初から無茶はしない方がいい。


 そのような観念から、僕は、鍵の掛かった机を前に、撤退を選んだ。


 今回の『探索』は、ヒヤリとした場面はあったが、概ね成果は悪くない。最初にしては、上々だと僕は判定した。


 千尋の部屋に侵入してから、一週間程が経った。


 その間も、僕は常に千尋と『共に』過ごし、千尋の姿を目に刻み続けた。千尋が側にいるだけで、僕は仄かな赤い幸せに包まれた。空っぽの乾いた心に、キス・オブ・ローズが注がれる。僕は、じっくりと、それを味わうのだ。


 季節は初夏に近付き、暑さが強くなってきた。暑くなれば、海上スポーツは盛んになる。


 海辺の町に、活気が溢れ始めた頃、僕は、再び、千尋の部屋に入る算段を画策していた。今度は、もっと確実に、徹底的に調べ上げる。そう決心していた。


 その矢先、驚くべき事が起こった。千尋からの呼び出しがあったのだ。




 

 どこでどう知ったのだろう。千尋は僕のスマートフォンの番号を知っていた。突然知らない番号から電話が掛かってきて、怪しみつつも出たら、見知った声が耳を撫でた。


 僕は驚きながらも、心臓が大きく跳ね上がった。湧き水のように感嘆の気持ちが溢れ、僕は頭が真っ白になる。


 恥ずかしい話、千尋を愛しているというのに、僕は千尋の電話番号を知らなかった。知りたくて堪らなかったが、思うように行かなかった。それが、向こうからやってきたのだ。


 僕は戸惑いながらも、何とか受け答えを行った。千尋の声は澄んでいて、とても美しかった。鈴を転がすような声とは、このような声を言うのかと得心する。


 そして、千尋は話があるからと、大学近くの公園へ待ち合わせを求めてきた。


 今の時刻は、午後十一時。逢瀬には、持って来いの時間だ。


 僕は一も二も無く請け負い、電話を切った。


 電話を切った後、僕は小躍りしそうなほどの気持ちの昂ぶりを覚えた。大声で喝采を叫び、外へと駆け出しそうになる欲求と懸命に戦った。それだけ、愛する人からの呼び出しは、歓喜に打ち震えるものだった。


 僕は、千尋に会うための準備を行う。出来る限り、身なりに気を使った。もうシャワーを浴び、寝る状態だったが、千尋に無様な格好は見せたくない。


 私服に着替え、鏡の前で自分の顔を見ている最中、ふと不安がよぎった。先ほどまでは、興奮で考慮することが出来なかったが、少し冷静になった今、思う所が生まれた。


 もしかすると、千尋は疑惑を持っているのでは?


 千尋の合鍵を盗んだこと、部屋に侵入したこと、それ以外の数々。それら全てが僕の仕業だと、千尋へ発覚したという可能性。


 電話の声を聞く限りでは、そのような気配は無かった。だが、それは、僕がただ、察することが出来なかっただけかもしれない。


 これまで証拠は残しておらず、僕だと気取られるミスは無いはずだ。杞憂だと思うが、頭の隅には留めておこうと思う。

 その後僕は、持って行く物の準備をした。こちらは多くは無く、スマートフォンや、財布など必要なものを用意した。


 台所も確認し、忘れ物が無いかのチェックを終え、僕は部屋を後にする。




 

 千尋が呼び出だした先は、千尋が住む宿町内にある日見公園だった。所狭な海辺の町にしては広く、小学校のグラウンド程もある。しかし、少子化に加え、奥まった場所にあるせいで、利用者が少なく、いつも人影が疎らだった。


 僕は公園に辿り着き、千尋を探す。勢い込んで小走りで来たため、少し息が上がり、汗も薄っすらと滲み出て来ていた。せっかく髪や身なりをきっちり整えたのに、崩れてしまったかもしれない。少し自重すべきだと反省する。


 それだけ早く、千尋に会いたかったのだ。


 僕は、頻繁に周囲へ目を配り、千尋の姿を求めた。公園内には全く人影が無く、物静かな雰囲気に包まれている。公園の真横にある、県道三四号線を走る車のエンジン音のみが、僕の耳に届いていた。


 今夜は半月なため、やや薄暗く、公園内は見通しが悪い。そのせいか、なかなか千尋の姿を見つけられなかった。どこにいるのだろう。まだ来ていないのか。一刻も早く、千尋の姿を見たい。


 僕が、隅の方にある遊具置き場に近寄った時だ。不意に声が掛かった。


 「ここよ」


 僕は声がした方へ顔を向けた。児童用の滑り台の陰から、人影が姿を現した。

 千尋だ。


 「こんな時間に呼び出してごめんなさい。話したいことがあって」


 千尋は、申し訳なさそうにそう言った。千尋は、白のフレアワンピースに、リボンパンプスを組み合わせた服装だった。


 僕は慌てて、手を振り、千尋を宥める。


 「いいよ。宮越さんのためだから」


 僕の言葉を聞くと、千尋は黙り、俯く。そこにどこか、影が差しているように感じた。だが、それは、半月の光の中、むしろ色香を醸し出していた。陰鬱な仕草さえ、千尋は美しさを放っているのだ。


 「話ってなに?」


 僕は思い切って尋ねた。


 俯いたままの千尋は、言い難そうにしていたが、やがておずおずと口を開いた。


 「ストーカーにあっているの」




 

 千尋の口から『ストーカー』という単語が出て、僕はドキリとした。まさかバレたのか?


 しかし、千尋の話を聞いている内に、僕に対して、疑いを抱いているのではないのだと判明した。


 千尋曰く、こうだった。以前に、部屋のドアノブに、愛用している生理用ナプキンと同じものが提げられていたこと。合鍵を一時紛失していたこと。部屋に誰かが侵入した形跡があったこと。机の引き出しを開けられた形跡があること。


 それらが重なり、自分はストーカーにあっているのだと疑惑を抱いたこと。


 千尋の話を聞いている内に、僕の胸の中に、ざわつくものがあった。それもそうだ。それらは全て僕の仕業なのだから。しかし、あれだけ用心したのに、部屋への侵入を悟られたのは意外だった。自分でも気付かない内に、瑕疵を残していたのだろうか。幸い、千尋は、僕のことを微塵も疑っていないようだが……。


 一通り話し終わった千尋は、再び黙り、俯いた。表情は見えないが、ひどく怯えているのが感じ取れた。


 こうなった以上、取るべき道は一つだ。


 僕は言った。


 「安心して。僕が必ず、犯人を見つけるから」


 千尋は弾かれたように顔を上げ、驚いた表情をした。


 「本当に? でも……」


 「大丈夫。僕に任せて、大船に乗ったつもりで居て!」


 僕は明るくそう言い切ると、自分の胸元を強く叩いた。


 千尋は、首を振った。


 「でも悪いわ。あなたにとっても危険だし……。ただ、私は話を聞いて貰うだけでも気が晴れたから」


 「このままじゃ千尋が壊れちゃうよ。僕は君を助けたい」


 犯人は自分なのだが、もうこの方法しかなかった。千尋を手に入れるには、上手くこのチャンスを利用しよう。


 千尋は、無表情で固まったままだ。


 僕は、思い切って、大胆な行動に出た。ずっと抑えてきた感情を表に出すことにしたのだ。それは、千尋を安心させたい一心もあった。


 僕は千尋を抱き寄せた。初めての経験だった。心臓は破裂しそうなほど、バクバクと大きく音を立てている。息も荒くなり、酸素が脳へ行き届いていないと思い込むほど、頭がぼんやりとなった。


 僕に抱き付かれた千尋は抵抗しなかった。大人しく、僕に身を委ねていた。


 僕は、なすがままの千尋の華奢な体を抱きしめ続けた。


 抱き合った僕らの間に温もりが生まれていた。千尋からは甘い香りがした。それは薔薇の香りに似ていた。アフロディーテのように美しいあなたを抱いていると、僕の脳裏に、いくつもの赤い薔薇が咲き乱れた。


 僕は誓った。


 必ずあなたを手に入れる。

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