僕を裏切ったら必ずあなたを刺し殺します
佐久間 譲司
第一章 これは、運命の出会い
初めてあなたを目にした時は、大学の入学式の日だった。
僕達新入生は、講堂での式を終えた後、皆揃って、講堂を出た。
その日の日程は、これで終わりだったが、コミュニケーションが得意な新入生達は、すでに話し相手を見付けており、いくつかのグループとなって、講堂前の広場に居座っていた。
僕は不幸にも、そちら側の人間では無かったため、取り残された形となってしまった。
新入生の喧騒で溢れる広場の中、ポツンと一人で居る僕は、とてつもない居心地の悪さを覚えた。このままアパートに帰ろうかとも思った。つい先日越して来たばかりだったし、まだ荷解きすらろくに済ませていなかった。その続きをこれからやろうと考えたのだ。
しかし、桜舞い散る大学生生活初日に、他の新入生達が新しい仲間との絆を築き始めている中、ただ一人、とぼとぼと歩いて帰ることに引け目を感じた。このままでは、灰色の大学生活を送ってしまう。そう危惧した感情に、僕の頭は支配されてしまった。
僕は、一度トイレに行ってから、身繕いをチェックし、再び広場へと戻ってきた。
誰でもいい。話しかけて、仲良くなろう。
僕は、迷子になった子供のように、キョロキョロと周りに視線を向けながら、続々と作られていく新入生グループの中を歩き回った。おそらく、不安げな面持ちだったろうと思う。
そのような中、あなたを見付けたのだ。
講堂の横に生えている桜の木の下で、あなたは早々と仲良くなった友達と、楽しそうに談笑を行っていた。
あなたを一目見た瞬間、時間が止まったのかと思った。写真のように周囲の動きは停滞し、あなたのみに、僕の視線はフォーカスされた。
他の新入生達と同様、あなたは、リクルートスーツを身に纏っていた。僕も含め、新入生達は、まだ慣れないスーツに『着られている』といった様相が強かったが、あなたは違った。
レディースフォーマルを見事に着こなし、まだ高校生の面影が残る他者とは、一線を画す、大人びた印象を持っていた。それもスラリとした細身のスタイルと、整った美しい顔立ちのお陰なのだろう。しかし、それでありながら、淡いピンクのブラウスと、それに合わせた桃色のギャザーが似合っているのは、可憐さも併せもっているからだ。
子供の頃、絵本でアフロディーテという美しい女神のイラストを見たことがある。荘厳かつ、清楚で美麗。僕の目には、あなたは、愛と美と性を司る、赤薔薇の女神そのものに映った。
気が付くと、体が勝手に動いていた。
桜の花が舞い落ちる中、僕はあなたに歩み寄る。あなたは、太陽のように明るく笑いながら、出来たばかりの友人の肩に優しく触れていた。友人が何か冗談を言ったのだろう。笑う度に、揺れるセミロングの髪が、春の陽光を受けて、絹のように煌いていた。
あなたは、僕がすぐ近くに寄るまで気が付いてくれなかった。それほど友人との談笑が楽しいのだ。
僕は、勇気を振り絞って声をかけた。
「あ、あの、僕とお話しませんか?」
声が裏返ってしまったことを実感する。
僕に声をかけられたあなたは、一瞬、不思議そうな表情をした。突然、妙な言葉をかけられたからだろう。僕の緊張のせいだ。これは失態か。
だが、すぐにあなたは、優しい笑顔に変わった。僕のことを気遣ってくれたのだとわかる。その行動で、僕はあなたが、他者を思いやれる、優しい女性だと直感で理解した。
「初めまして。
千尋と名乗ったあなたの言葉で、僕はまだ自己紹介はおろか、挨拶もしていなかったことに気が付いた。恥ずかしい。
「ご、ごめん。そう言えば、挨拶していなかった」
僕は、自己紹介を行う。最後の方は、緊張と胸の高鳴りのせいで、声が掠れてしまった。
それでも、挙動不審な僕の様子を気にすることなく、千尋は可愛らしく微笑む。
「こちらこそよろしく」
これが僕達の出会いだった。
僕が今年度から通う私立・桑附大学は、長崎県長崎市の網場地区にあった。網場地区は、海辺の町であり、漁業と海上スポーツが盛んであった。とは言え、シーズン以外はとても静かな田舎の町である。
そのような地域の中に、桑附大学は存在していた。
大学は、橘湾を見下ろす眺めの良い丘の上に建てられている。この近辺の海域は、波が高く、サファーやヨットの練習に適していた。特にヨットの練習は頻繁に行われており、沿岸で行うインショア・レース用のカラフルな小型艇が、海の中に出廷して行く姿をよく目にすることが出来た。
僕は春の日差しの中、大学へ向かうため、防波堤沿いの歩道を歩いていた。比較的大学から近い学生用アパートを借りたものの、通常ペースで歩いた場合、およそ十五分は掛かる。大学周辺の相場で、一番安いアパートを選んだが、あまりケチらずに、近場を選べば良かったと、今更、後悔の念に襲われていた。
僕の側を自転車に乗った高校生の集団が、追い抜いて行く。近隣の高校の生徒達だろう。それを見て、今度、母にお願いをして、自転車の代金を仕送りに上乗せして貰おうかと考えた。自転車があれば、大幅な時間短縮が可能だ。しかし、学費や生活費諸々、両親の世話になっている身分なため、あまり我儘は言い辛い。どうしようかと思う。
僕は通学の方法に頭を悩ませながら、大学への坂を登り切り、校内へと入った。今日は、まだ入学早々なので、単位や履修登録、学校生活の説明を行うオリエンテーションの日となっていた。
僕は、そのオリエンテーションが行われる第一教室へと入った。この教室が講堂を抜き、一番広い部屋らしい。
教室へ入った後、僕は、教壇を見下ろすように並んでいる席の間を登る。すでに他の生徒達も席に座っており、半数以上が相手を見付け、仲良く会話に花を咲かせていた。
僕はあまり周囲に人がいない席を選び、そこに座った。本来なら、人の輪に飛び込むべきだったが、どうにも気が進まない。これでは駄目だと切に感じた。
僕は、教室全体を見渡した。オリエンテーション開始まで十五分ほど時間があるが、まだ席は半分以上空いている。このオリエンテーションは参加が不可欠なので、これから続々と集ってくるはずだ。
その時、周囲に向けていた僕の目は、教室の入り口に吸い寄せられた。教室に入ってきた人物が誰か即座に把握したからだ。
千尋だった。千尋を見た瞬間、僕の胸は高鳴り、体温が上昇するのを実感した。頭の芯が痺れ、千尋から目が離せなくなる。
千尋は深緑のハイウエストスカートに、カーキー色のブルゾンを組み合わせた服装だった。昨日の大人びたスーツとは打って変わって、明るい若さを感じさせる雰囲気を纏っている。
千尋は一人だった。千尋は、周辺の席の様子を伺いながら、段差を登ってくる。幸運にも、僕がいる方へ向かってきていた。
千尋が側にきてから、僕は声をかけた。緊張がバレないように、注意しながら。
「おはよう。宮越さん」
唐突に声をかけられたせいか、千尋は驚いた表情をした。その驚いた表情だけでも、天使のような可愛らしさが垣間見えた。
整った二重の目が、僕を見る。声をかけた主が僕だとわかると、僅かばかり、千尋の表情は和らいだ。
それは、僕のことを覚えていた証だった
僕の中に、煌きに似た喜びが生まれた。
「うん。おはよう」
千尋は、春先の花のような美しい笑みを浮かべ、挨拶を返す。そして、僕の前の席に座った。
僕の中で、喜びがさらに増大した。千尋が近くの席に座ってくれたのだ。もしも、僕に嫌悪感を持っていたら、ありえない行動だ。少なくとも僕は、千尋に対し、悪印象を与えていないのだと確信した。これは、とても嬉しい事実だ。
その後、少しの間、僕は千尋と会話を行った。これからのキャンパスライフのこと、サークルのこと、履修登録のこと。千尋と言葉を交わす度に、僕の中に生まれた温かい蛍火のような光が、次第に大きくなっていくのを感じる。夢のような、とても幸せな気分だった。
だが、すぐにその時間は終わりを告げた。
「おはよー。千尋。ここ空いてる?」
千尋に声をかけてきたのは、昨日入学式で、千尋と仲良く話をしていた女の子だった。
「おはよ。アズミ。空いてるよー」
アズミはまるで、僕がそこに居ないかのように、千尋のみと挨拶を交わし、千尋の隣に座った。そして、昨日と同じように、楽しげに会話を始めた。
取り残された僕は、アズミの赤みを帯びた後ろ髪を見つめた。そして、心の中で呟く。
下品な女だ。
服装からしてそうだった。ピンク色のワンピースに白のカーディガン。そしてショートブーツ。まるで合コンにでも参加するかと思うような格好だ。化粧も濃く、ナチュラルメイクの千尋とは対照的だ。そもそも、顔立ちからして、険のあるきつい目付きの女だ。それでも整ってはいるので、全体的に、男好きが服を着て歩いているような印象を持ってしまう。それに比例し、性格も相当きついのだと、先ほどの行動でわかった。
しかし、周囲の男子学生達の衆目は集めており、時折、雄特有の舐めるような視線が向けられていた。それは、アズミだけではなく、千尋にも同様に注がれていた。
僕は、モヤモヤした黒い感情を抱えたまま、オリエンテーションが始まるのを待った。
やがて、担当の教員が教室へ入って来て、オリエンテーションが始まった。しかし、その後、ずっと、その黒い感情は消えることがなかった。
本格的な大学生活が始まった。キャンパスライフは思っていたよりも華やかではなく、単調な毎日となっていた。
おそらく、それは僕特有のものらしく、他生徒は、それなりに楽しそうに過ごしていた。
他生徒達は、すでに作り上げた友人や、グループで行動し、これから入るサークルの話や、履修登録の相談を行っていた。
僕は未だに友人はおろか、ろくに相談相手すら出来ていなかった。サークルの勧誘は何度か受けたが、決めかねていた。こんな時、友人がいたら、相談したり、つい友人に合わせて、興味のないサークルに入ったりするのかもしれない。
思い描いていたキャンパスライフを送れておらず、僕は灰色の気持ちに包まれていた。だが、たった一つだけ、楽しみにしていることがあった。
千尋の存在だ。
オリエンテーション以降、ろくに会話が出来ていないが、千尋の存在が僕の大きな支えとなっていた。
講義の際、僕は常に千尋を意識した席に座り、その姿を目に焼き付けている。千尋は、僕にとって、乾いた大地に生えている、一本の薔薇だった。
だが、千尋は入学してから間もないというのに、男子学生からの人気が高かった。信じたくないが、アズミもそうだった。二人は、新入生の中で、飛び抜けてモテていた。
僕はそれが不快で仕方がなかった。ライバルが多いから――ではないが、千尋が男子学生達から、邪な目で見られていることを認めたくなかった。
僕は、千尋にもっと近付きたかった。
その日の朝、僕は、いつものように、広場にある掲示板の前にいた。この掲示板は、一年生用であるため、周囲には、同学年の学生達が同じように、掲示板の情報を見るため集まっていた。
僕は、それに混ざり、講義の時間割や、お知らせをチェックする。まだ、選択科目が始まっていないので、講義の頻度は緩やかだった。
僕は、一通り、掲示板の内容に目を通した後、その隣に貼られてあるサークル活動の広報を眺めていた。今は友人はいなかったが、これらのサークルに参加すれば、親しい仲間や、先輩が出来るかもしれない。だが、もしかすると、今のように孤独のままの可能性もある。新しい場所だからといって、劇的に物事が変化することは稀だからだ。
僕は、千尋のことを考える。
千尋はサークル活動を行うのだろうか。行うとすると、どのサークルに入るのか。千尋のことだから、体育系やバンド等の騒々しいものではなく、お淑やかなものを選びそうだ。
もしも、千尋が入るサークルがわかれば、僕もそれに合わせるつもりだった。
知りたい情報は得たので、僕はその場を離れようと、一歩を踏み出した。
そこで、少し離れた位置に、千尋がいることに気が付く。
僕は思わず唾を飲み込んだ。足の先から頭まで、微かな電流が走った。たちまち、体が熱くなる。
千尋は僕には気が付かず、掲示板を眺めていた。
僕は、ギクシャクした動きで、千尋の側へ歩いて行く。
そして、僕は、千尋の綺麗な横顔に向かって声をかけた。
「お、おはよう」
千尋は僕の方を見ると、ニッコリと笑った。
「おはよう」
千尋が挨拶を返してくれたことに、喜びを感じつつ、僕は言葉を続けた。
「あの、宮越さんは、サークル入るの?」
千尋は少しだけ考える仕草をした後、答える。
「うん。先輩から声がかかっているから、そこに入るつもり」
「何のサークル?」
僕がそこまで訊いた時だった。千尋の隣にいた人物が口を挟んだ。
「ねえ、もう行こうよ」
アズミだった。アズミは汚い物を見るような目で僕を見た後、千尋の手を引き、この場から離れようとする。
「じゃあまたね」
僕が声をかける間もなく、千尋はバツの悪そうな顔をしながら、アズミに手を引かれるがまま、僕の前から立ち去っていった。
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