第七章 あなたがより近くなった

 小山田の指紋が付いたゼラチンテープを無事、入手できた僕は、次の段階へと計画を進めた。


 小山田の部屋での『スイーツパーティー』が終わった日の夜、僕は自分のアパートへ戻り、ゼラチンテープから、透明シリコンを使い、指紋テープを作成することに成功した。


 複数のタイプの指紋を採取したので、指紋テープも複数作ることができた。


 目当てだった小山田の指紋テープを手に入れたため、後は、これが正確に、再現できているかのチェックを行う必要があった。


 数日後、僕は小山田の部屋へ、再度お邪魔をした。以前と同じように、隙を突き、指紋認証付きである小山田のスマートフォンへ、指紋テープの接触を試みる。


 指紋センサーへ、指紋テープが触れると同時に、スマートフォンのセキュリティーロックが解除された。


 これにより、この指紋テープは完全に、小山田の指紋を再現できていることが、証明されたのだ。


 心の中で快哉を叫ぶ。僕の『計画』は、成功へと、大幅に近付いた。


 その翌日、僕は、大学が終わり、すぐに自分のアパートへ直帰した。


 布手袋を装着し、部屋の隅に置いてある道具入れから、ある物を取り出す。これは、以前、わざわざ福岡まで赴き、購入したものだった。


 それをテーブルの上へ置く。黒色を基調にした、簡素な箱だ。ハードカバー小説ほどのサイズである。外装にはほとんどデザインが施されておらず、外観だけだと、これが何なのか判断が付かない。


 僕は箱を開け、緩衝材に包まれている中の物を取り出す。二つあり、それぞれサイズが違う。その両方共に、左上から黒い棒のようなものが、外へ突き出ていた。


 僕は先に、大きい方の緩衝材を剥がした。姿を見せたのは、手の平サイズほどの、トランシーバーに似た機械だった。


 これは、小型の盗聴器専門の受信機である。録音用のイヤホンジャックや、内臓スピーカーも搭載されている高性能モデルだ。思ったより、ボタンなどのインターフェース類が少なく、単純な造りだった。しかし、物々しさは拭えない。


 僕は、次に、もう一方の梱包も解く。


 もう一つの方は、受信機よりもさらにコンパクトで、シンプルなデザインの盗聴器だった。煙草ほどの大きさの真っ黒い箱に、アンテナを付けただけのような外観だ。


 こちらは、背面がマグネット式になっており、鉄製の壁や物体に貼り付けることが可能だった。これにより、コンクリートの反響音を収集し、もう片方の受信機へと、電波を飛ばすことができるのだ。


 これらは、セットで販売されていた。双子のような扱いで、一方の形式を調べると、必ずもう一方が判明する。それほど繋がりがあるセットだった。


 僕は、装着していた手袋を外し、指に小山田の指紋テープを取り付けた。そして、その上から、極めて薄手のゴム手袋をはめる。


 科学捜査において、採取した指紋からは、皮脂が検出される。指紋の主成分が脂肪分と水分だからだ。


 その成分からは、本人を特定できるDNAが採取されてしまう。これは犯人特定の手掛かりとして、極めて有効な決め手になる。しかし、皮脂がない状態だと、何らかの形で付いた指紋の形状のみで、警察は判断しなければならない。


 今回は、そのパターンに当たる。さすがに小山田の皮脂は入手が不可能だった。そのため、皮脂なしでの指紋を付着させざるを得ない。かと言って、指紋テープを直接触れさせると、指紋テープのシリコン成分も、検出される恐れがある。今の科学捜査の力は侮れない。


 そこで、この薄手のゴム手袋が役に立つ。


 この薄手のゴム手袋越しならば、かろうじて指紋だけは付く。その状態で、例えば、埃や血などをインク代わりにして、指紋を付着させれば、『小山田が、手袋を装着し、皮脂及び、指紋が付かないように注意し、この盗聴器と受信機を扱ったものの、その薄さによる指紋付着に気が付くことなく、証拠を残してしまった』という状況が作り出せるのだ、


 そうなれば、本人を特定できるのに充分な証拠となる。仮に証拠として弱くとも、任意同行を求められるきっかけくらいは、作り出せる効力があるはずだ。そうなればそれは、成功を意味している。その上、証拠はこれだけではない。


 僕は、埃や外箱の糊、セロテープの糊などを使い、小山田の指紋を盗聴器と、受信機へ付着させていく。それに加え、別途で購入した録音機にも、同じように付着させる。


 僕の指紋が検出されれば、アウトなので、そこは留意しつつ、慎重に事を行った。


 不自然ではないほどの数の指紋を付け終えた後、深夜まで待つ。


 時計の針が午前を迎え、一時近くを指した頃、僕は動き出した。


 道具が入ったデイパックを持ち、部屋を出る。深夜の網場地区を、千尋のアパートへ向かって歩く。空を見上げると、今日は新月だった。


 この地区は、深夜帯では、全く人がいなくなる。隠密行動には打って付けだが、警察には気をつけなければならない。職務質問などされれば、一発で終わりだ。


 新月の薄暗い中、田中町の寝静まった住宅街を抜け、日見町へと入る。今まで、人どころか、車一台出会わなかった。遠くに波間の音が聞こえるものの、とても閑静だった。町全てが、奈落の底に沈んだような、寂寥感を覚える。


 日見町にある千尋のアパートへ向かうルートは、通学ルートとほぼ同じだった。そのお陰で、新月の、見通しが利きづらい闇の中でも、問題なく歩みを進めることが可能だった。


 誰一人、他者とすれ違うこともなく、やがて、無事に千尋のアパートへと到着した。千尋は不在のようだ。明日は休日なので、実家にでも帰っているのだろうか。


 僕は、周囲を警戒しつつ、千尋の部屋の前へ立つ。そして、扉の横に備え付けてあるメーターボックスを慎重に開けた。金属製の蓋なので、音が響かないように、細心の注意を払う。


 開き切ったメーターボックスの中には、その名前の通り、水道や電気、ガスのメーターが設置されていた。そして、それらの供給用の堅配管が、奥で所狭しと絡んでいる。千尋のアパートは、各戸ごとに、メーターボックスが設置されているため、このメーター類は、全て千尋の部屋専用のものだ。


 メーターボックスは、それぞれの業者が検針やメンテナンスを行うために、誰でも開けられる仕組みになっていた。それこそ、僕のような部外者ですら、いつでも中を覗くことが可能だ。もちろん警察もだ。都合の良いことに、このメーターボックス内部は、部屋主のプライベート部分には当たらないらしい。つまり、ここを覗いたり、手を入れたりしても、プライバシーの侵害や、不法侵入を犯したことにはならないのだ。それは同時に、警察の捜査において、令状なしの捜査を行えることを意味していた。


 僕は、メーターボックスの奥の鉄板へ、盗聴器を貼り付けた。最後にボタンを押し、機能をオンにする。


 これにより、周囲に、盗聴用の電波が拡散されたことだろう。誰かが盗聴していれば、この部屋の音が聞こえるはずだ。


 僕は、開いた時と同じく、音を出さないよう注意しつつ、メーターボックスを閉じる。これまで全て、小山田の指紋テープ付きゴム手袋を着用しての作業だった。


 ついでにドアノブや、郵便受けからはみ出している郵便物を触り、証拠を残す。


 必要な作業を終えたので、僕は千尋の部屋から離れることにした。あまりに長居して、誰かから目撃でもされたら面倒だ。


 僕は周囲に気を配りながら、部屋を後にする。


 アパートの共用廊下を出た所で、誰かの視線を感じて、僕は立ち止まった。周りの建物や、たった今出てきたアパートに目を移す。今夜は新月だ。月明かりがなく、深夜なため、見通しが悪い。


 それでも、何とか確認する。見る限り、一つも僕に目を向ける人影などなかった。


 仮に誰かが見ていても、この薄暗さだ。上手く僕の姿を捉えることは至難の業だろう。さきほどの作業も短時間で済ませていた。予め、誰かが狙い、張ってでもいない限りは、僕の行動を捕捉することは不可能だった。


 僕は、気を取り直し、千尋のアパートから離れた。


 田中町へと戻り、防波堤沿いに差し掛かかった。僕は、海へ顔を向ける。


 夜の海は真っ暗で、不気味な雰囲気を湛えていた。見ていると、飲み込まれそうな恐怖が生まれる。死者の群れが、海から這い出し、生者を引きずり込もうとする想像が、頭を掠める。


 今はまだ、夜の神、ニュクスが君臨する時間なのだ。食い殺されないように、注意を払わなければならない。


 海岸沿いから、住宅街へと入り、自分のアパートへと無事に到着した。




 

 それから、数日が経過した。


 僕は、その後も、『工作』に専念した。何度か小山田のアパートに通い、着実に仕込みを重ねていった。


 僕が所持していた、千尋の部屋の合鍵をさらに複製し、もう一本合鍵を作ると、それを小山田の部屋へとひそませた。小山田自身に発見されては元も子もないので、隠し場所は、使用している形跡が少ない、台所のシンク下の収納棚を選んだ。それにももちろん、小山田の指紋を付着させた。


 盗聴器の音声データーも、仕込みの道具とした。


 受信機に接続した録音機からは、盗聴した音声の入ったMP3ファイルが作成される。それを、小山田のパソコンとスマートフォンへと移したのだ。もっとも、間が悪いことに、千尋の生活音ははっきりと録音できなかった。しかし、データを解析すれば、千尋の部屋の前に取り付けてある、盗聴器から発せられた音声データだとわかるはずだ。


 そして、録音機も同時に、部屋へと仕込む。場所は、机の中を選ぶことにした。


 これで、準備はほとんど整った。後は、仕上げのみだった。


 今まで、小山田は、一切、僕の謀に気が付くことはなかった。抜けている性格というのもあるが、完全に、僕に心を許していることの表れでもある。


 そのような小山田を『ハメる』ことに、罪悪感を抱かないわけではなかった。考えてみれば、小山田は、大学に入ってからの、初めての友達とも言える存在だった。僕自身は、胸に一物あるため、はっきりと友達と呼んでいいかは微妙なラインだったが、少なくとも小山田は、そう思っているはずである。


 これは歴然とした裏切り行為であり、悪意を感じる所業でもある。傍から見れば、愚劣の極みだと指を差されるだろう。


 しかし、これも千尋の信頼を勝ち取るために必要なことだ。僕は、何としても、この『計画』を成功させ、千尋を自分の物にしたかった。


 この愛は、誰にも止められない。


 僕は、最後の仕上げに着手する。


 手元に残った盗聴用の受信機を、茶封筒に入れた。そして、小山田の情報と、盗聴器の場所を記した紙を同封させる。これは、大学のパソコンを使って、印刷したものだ。


 それを東長崎警察署へと送付した。おそらくこれで、警察は千尋のアパートにある盗聴器を発見するだろう。そして、そこに付着している小山田の指紋と、受信機の指紋を検出させるはずだ。そうなれば、両者は一致し、任意同行へと事が進むようになる。希望的観測だが、その可能性は濃厚だった。


 僕は、宝くじが当たっていることを祈るような気分で、進展を待った。




 

 ビンゴだった。


 僕の目論見は功を奏したようだ。


 『証拠品』を東長崎警察署に送ってから、一週間後のことだった。


 小山田が任意同行を求められたのだ。誰が、どこでどう知ったのか、大学内でその噂が広まっていた。千尋のストーカー被害に対する、被疑者としての事情聴取だという内容だった。


 警察は、僕の思い通りに動いてくれたようだった。見事、小山田を標的にした。後は射抜くだけだ。


 僕は、夜、小山田に連絡を取った。進捗を確かめたかったのだ。だが、小山田は始めは否定をした。事情聴取など受けていないと言い張る。しかし、暗く沈んだ声の調子から、それは嘘だと告白しているも同然だった。


 僕は、心配している素振りを見せ、小山田から実情を聞き出そうとした。小山田は、最初は言い淀んでいたが、ポツポツと、任意同行の内容を語り出す。


 やはり、千尋の部屋へ、盗聴器を仕掛けたことに対する聴取だったようだ。


 小山田曰く、その聴取方法は、極めて理不尽だったようだ。頭から犯人だと決め付けているような、高圧的な態度だったらしい。


 しかも、指紋まで取られていた。本来なら、拒否が可能なのだが、小山田は圧力に負けて、容易く同意したと言う。


 僕は心の中で、手を叩いて笑った。全て、僕に都合の良い流れで進んでいた。指紋を取られたならば、これから先、小山田が犯人だと指し示す物的証拠が、次々に見付かるということなのだ。小山田にとっては、悪夢のような展開だろう。


 すでに、沈没が確定した船に乗った小山田は、引き返すことが不可能な本流へと入った。後は、沈みゆくその姿を、僕は川岸から眺めていればいい。


 僕は、電話越しに、心底、心配している演技を行い、小山田を励ました。傷心である小山田は、あっさりとそれを信じ、これからの展開を相談する旨を僕に告げた。


 小山田との電話を切った僕は、部屋の中で独りでに笑い転げた。これ程までに、僕の狙い通りに事が運ぶとは思わなかった。やはり、僕には女神が付いている。そう確信せざるを得なかった。しかもそれは、愛を運ぶ女神なのだ。


 僕は昂ぶった気分のまま、ベッドへと身を投げた。そして、毛布に包まる。まるで、アフロディーテに抱擁されているような、不思議な気分に陥る。熱さと、劣情が入り混じった感情が押し寄せた。


 僕は、久しぶりにマスターベーションを行った。最近、『計画』のため忙しく、心に余裕がなかったため、ご無沙汰だったのだ。


 もちろん、千尋の姿を思い浮かべながら行う。


 行為の最中、薔薇の香りを感じた。薔薇の花など飾っていないため、それは有り得ない。高揚のあまり、幻嗅を覚えているのだろうか? それとも、本当に、アフロディーテが光臨なされたのか。そうだとしたら、僕は、女神にすら愛される存在だということになる。


 僕が絶頂に達する頃、薔薇の香りは、さらに濃くなったような気がした。




 

 小山田に対する任意聴取は、順調に進んでいるようだった。僕は連日、小山田からその話を電話で聞いていた。彼は、聴取が始まってから、一度しか大学へ来ていなかった。しかし、その時も、周りの冷たい視線に耐えかねて、早々に早退をしていた。


 小山田の聴取は苛烈を極めていた。そのきっかけは、彼のスマートフォンから、盗聴器の音声ファイルが発見されてからだった。


 小山田は、終始、容疑を否認していたが、容疑が濃厚だということで、裁判官から家宅捜査の礼状が発布された。そして、その家宅捜査により、様々な証拠が見付かり、身柄を拘束されたのだ。


 小山田の逮捕を受け、大学では、小山田についての噂が飛び交っていた。以前から、小山田が怪しいと思っていた者や、大学内でも、ストーカー行為を働いている姿を見たなどと、まことしやかに流布されていた。


 彼が犯人でないことは、僕が一番良く知っている。そのどれもが、虚言に過ぎないのだが、もうすでに、学校内の人間によって、小山田は犯人と決め付けられていた。


 おそらく、小山田は、証拠不十分で、釈放されるはずだ。しかし、それでも、真犯人が捕まらない限りは、小山田に対する扱いは変わらないだろう。人間とはそういうものなのだ。事実はさておき、イメージこそが『真実』なのだから。


 もっとも、それを利用した僕が、偉そうに諭せる立場ではないのだが。


 僕は、期が熟したのを見計らい、千尋へと報告することにした。小山田逮捕のきっかけを作ったのは、僕だということを伝えなければならない。


 僕は、千尋へ報告した。

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