第六章 あなたがより近くなる

 数日が経った。僕はその間、福岡へと赴き、目当ての物を購入することに成功した。


 実際、費用自体は、交通費も含め、これが一番飛んでしまう結果となった。だが、予め両親へ電話で泣き付き、仕送りをして貰ったため、何とか事足りた。


 お陰で、学生向けカードローンに頼らずに済んでいた。良い両親を持ったと思う。しかし、二人に、自分の子供がこんな物を購入するために、仕送りの追加を要請したと知れたら、間違いなく、勘当ものになってしまうだろう。


 現在も、僕と小山田の『交友』は続いていた。向こうは、完全に僕に気を許しているようで、初めての友人に、心が浮き立っているようだった。これは僕にとって、追い風である。


 小山田との『交友』に注力していたため、大学内で、千尋とあまりコミュニケーションが取れていなかった。


 しかし、昨日、その千尋から犯人探しの進捗を聞かれた。そこは順調だと答えていたが、千尋は焦れた様子だった。あまり時間がない気がする。急がなければ。


 僕は、大学が終わり、いち早く自分のアパートへと戻ってきていた。これまで集めたものを使い、ある試作を行うためだ。


 僕は自分の部屋に入ると、閉めたままのカーテンを少しだけ開けて、日光を取り入れる。窓を開けたいが、それは避けた。


 僕は、部屋の隅にまとめてある購入した物品を、テーブルの上へと広げた。そして、それらの隣に、自身のスマートフォンを置く。


 僕は最初に、指紋採取キットを開封した。


 中に入ってあるタンポやブラシ、拡大鏡などの用具を外に出す。指紋粉であるベビーパウダーが入った小型容器も、テーブルの上に置く。そして、その蓋を取り外し、内部が、乳白色の粉末で満たされていることを確認した。


 その内の半分ほどを、用意していたタッパーに移す。次に、ゴルフ用品店で買ったアルミパウダーの蓋を開け、そこから、ベビーパウダーと同程度の量をスプーンですくい、小型容器の中に入れ、ベビーパウダーと混合させた。


 小型容器の蓋を閉じ、さらにシェイクさせ、充分に混ぜ合わせる。


 小型容器の蓋は、口吻状になっているため、容器のまま、内容物を排出させることが可能だった。


 僕は、小型容器を傾け、側に敷いていた新聞紙の上に、混合アルミパウダーを小さじ一杯ほど落とす。


 そして、タンポを手に取る。タンポは、耳かきの白い綿毛部分そっくりの道具だ。刷毛のようにして使う。


 僕は、タンポの先端に、混合アルミパウダーを付着させ、隣に置いてあるスマートフォンのモニターへと触れさせた。そして、混合アルミパウダーを広げるようにして、軽く叩いていく。この姿がまさに、テレビドラマや映画で見る、指紋を採取する鑑識の作業そのものだった。


 やがて、電源を落としてあるスマートフォンの黒いモニター上に、白色の遺留指紋が浮き出てきた。人指し指のものだ。


 予想以上にくっきりと模様が表れており、僕の指紋のタイプが、渦状紋であることが見て取れる。


 タンポを置き、スマートフォンを持ち上げ、斜めにする。モニターに当たる光の反射角度を調節し、指紋がはっきりと、見えるようになるまで傾けた。そして、それをルーペでチェックする。


 指紋の隆線は高く、指紋そのものよりも、くっきりと盛り上がっているように見える。これは、単体のベビーパウダーや、朱肉では再現できない高さであった。


 これこそが、アルミパウダーを購入した理由だった。


 僕が行った指紋の採取方法は、粉末法と呼ばれるものだ。科学捜査において、指紋を検出させるのに、もっともオーソドックスな方法であった。


 指紋の主成分は、水分と脂肪分、そしてダスト。粉末法は、それらを微粉末によって、検出する手法だ。しかし、アルミパウダー単体や、ベビーパウダー単体だと、単に粉が付着するだけで、さほど隆線の高さは得られない。


 そこで、ベビーパウダーとアルミパウダーを混合させた粉末が登場する。


 化粧品であるベビーパウダーには、シリカと呼ばれる成分が含まれている。このシリカの表面は、超多孔性になっており、指紋の成分である脂肪分やダストに、オナモミの実のようにくっつく性質があった。その上、アルミパウダーを繋ぎ止める力もあり、言わば、接着剤と『つなぎ』の両方の効果を併せ持っていた。


 そのため、このシリカの成分が入ったアルミパウダーが、遺留指紋に付着した場合、大量のアルミパウダーによって、パテで盛ったように、隆線が高く盛り上がる現象が起きるのだ。


 このシリカ入りのアルミパウダーは、実際の鑑識でも使われているようだった。つまり、僕は、警察の鑑識とほとんど同じ方法で、指紋を検出したことになる。


 満足する結果が出せたので、僕は息を一つ吐いた。スマートフォンをテーブルへ戻し、次の手順に進むことにする。


 僕は、キッチンへ行き、アルミ製の片手鍋を用意した。水を計量し。五百ミリリットルを片手鍋の中へ注ぐ。


 それをコンロへかけ、一定の温度になるまで暖める。温度計を使って、確認し、六十度程度に達したところで、火を止めた。


 湯気を放つ片手鍋を、テーブルの横へと持って行き、敷いた布の上に置く。六十度とは言え、火傷する温度のため、ひっくり返さないように、注意しなければならない。


 僕は、介護用『ゼラチン寒天』を手に取り、ハサミでパッケージを切り開いた。そして、顆粒状の中身を鍋の中へ、大さじ五杯分投入する。


 この量は、通常使用される分量より、遥かに多かった。食用として提供される場合は、百ミリリットルに対し、『ゼラチン寒天』は約五グラムほど使用される。今投入した分量は、七十グラムと、三倍以上の濃さを持っていた。これでは、凝固した場合、固過ぎて使い物にならないのだが、今回はそれが必要だった。


 お湯へと落ちた白色の『ゼラチン寒天』の顆粒は、たちまち溶け、お湯と混ざり合う。僕はそれをスプーンでかき混ぜた。


 一見すると、無色透明で、何も変化がないように思えるが、これの真価は、冷えた時に発揮される。


 適度にかき混ぜた後、僕は『ゼラチン寒天』入りのお湯をスプーンですくい、スマートフォンのモニター上にある遺留指紋へ、覆うようにしてかけた。


 そして、冷えるのを待つ。


 やがて、『ゼラチン寒天』は白っぽくなり、凝固した。指でそれに触れてみると、乾いた糊のように、固くなっていることが確認できた。


 僕は小さな笑みをこぼす。狙い通りの成果だ。


 僕は、固まった『ゼラチン寒天』に爪を立て、慎重に剥がした。その下にあるはずの遺留指紋が消える。


 剥がした『ゼラチン寒天』の凝固物を裏返して見てみると、テープのように、遺留指紋がくっついていた。これも狙い通りの結果だ。


 ちなみに、この剥がした薄い『ゼラチン寒天』の凝固物は、ゼラチンテープと呼ぶらしい。


 僕は、ゼラチンテープを水で洗った。付着していた遺留指紋が流れ落ちる。そして、ゼラチンテープを室内の光に透かして見た。


 遺留指紋が張り付いていた部分が、へこんでいた。ルーペで確認すると、そのへこみは、綺麗に指紋となって、形作られている。ルーペでもわかるほど、隆線の溝は深い。


 僕は、僅かばかり身震いをした。あまりにも順調だった。


 高校時代、科学の実験で、テルミット反応を成功させた時と同じような、強い達成感を覚えた。そのせいか、頭の中で光が明滅しているような錯覚を受ける。むしろ、喜びはその時以上だった。この先に、得るべきものがあるからだ。


 そして、僕は、最後に残った『透明シリコン』の封を切った。


 円筒形のプラスチチックケースの中を覗くと、ツンとした、シンナーに似た臭いが鼻をついた。中身の液体の色は名称通り、透明で、水飴のように粘度は高い。


 僕は、透明シリコンの主剤を紙コップへと入れる。粘度が高いので、ヘラを使い、巻き付けるようにして、落とし込む。


 そしてその後、付属の硬化剤を投入した。主剤と硬化剤の混合比は十対一なので、間違えないように、注意を払わなければならない。


 硬化剤を投入した後、ヘラでよくかき混ぜる。気泡が入り込んでいるが、多勢に影響はないようだ。


 主剤と硬化剤が混ざり合った『透明シリコン』を、ヘラに僅かばかり付着させ、指紋テープへ流し込む。流し込むとは言っても、極少量であるため、擦り付けると言った方が正しいか。


 指紋テープの遺留指紋跡に、きっちりと透明シリコンが埋まり切ったのを確認して、ヘラを置いた。


 これで概ね作業は終了だった。後は『透明シリコン』が固まるのを待って、成果を確かめなければならない。


 僕は、強張った肩の筋肉をほぐしつつ、立ち上がった。そして、カーテンの隙間から、窓の外を覗く。


 いつの間にか、日が暮れていた。外が暗闇に覆われたせいで、鏡のようになった窓に、顔色の悪い僕の顔が映し出されている。


 僕は、カーテンを閉めようと、手を伸ばした。その時、ふと、誰かの視線を感じた。じっとりと、湿ったような視線だ。


 僕は、窓に近付き、外を透かして見てみる。アスファルトの路上には、誰もいなかった。念のため、路上以外にも目を配るが、こちらに目を向けている人間など、一人も見当たらない。


 気のせいだろう。


 僕はそれ以上、気に留めなかった。


 散らかっているテーブル周りをいくつか片付け、その後、台所に立つ。


 今回の『試作』実験で、頭が一杯だったため、夕飯の食材を購入していなかった。今から買いに行くことも考えたが、とても億劫に思えた。それに、なぜか、部屋を空けたくない気分だった。


 それでも空腹を覚えていたので、僕は、貯蔵していた、インスタントラーメンを食べることにした。テーブルは今は使えないため、台所に立ったまま、インスタントラーメンをかき込む。


 簡素な食事を終えた後、僕はシャワーを浴びた。浴室から出ると、今まで実感しなかった異臭が、部屋に充満していることに気が付く。この臭いは『試作』実験で使った、道具や材料が発生元に違いない。作業の際は、嗅覚が順応して、認識できていなかったのだろう。


 窓を開けて換気を行いたかったが、臭いが外へ漏れ出す恐れがある。異臭騒ぎは御免被りたいので、ここは我慢するしかない。換気扇も使わないほうがいいだろう。


 僕は、異臭の中、テレビを眺めながら『透明シリコン』が固まりきるのを待つ。やがては、鼻が臭いに慣れ、気にならなくなった。


 時刻が午前を越える頃、ようやく『透明シリコン』の凝固を確認できた。ゼラチンテープに貼り付いている『透明シリコン』は、僅かに白濁しており、水羊羹のような様相を呈していた。


 僕は、その『透明シリコン』をゼラチンテープから引き剥がす。両方共、剥離用フィルムのように、難なく剥がれた。


 ゼラチンテープの方は捨て、『透明シリコン』の方に着目する。


 これこそが、今回の作業の目的である『指紋テープ』だった。正確に言うと、これは僕の指紋なので、これ自体には用はない。あくまで『試作』である。


 僕は、指紋テープをルーペで仔細に観察した。肝心の指紋の隆線は、くっきりと浮き出ており、本物の指に存在する指紋よりも、高くなっていることが見て取れた。


 試しに、指紋テープに朱肉を付け、白紙へ押し付けてみる。


 そこには、はっきりとした、赤い指紋が印された。渦状紋であることが、容易に確認できる。


 次に僕は、自分の人指し指に朱肉を付け、その隣に直接、拇印してみる。


 そして、双方を見比べてみた。


 肉眼で見ても、ルーペで見ても、両方の指紋は、まさにコピーを取ったかのように、瓜二つだった。


 自分のスマートフォンが、指紋認証付きの機種ならば、それでさらに、再現度を確認できるのだが、違う機種なので、そこは諦めるしかない。だが、見る限り、極めて精巧であり、ほぼ確実に、指紋認証を突破できるほどの再現度には達しているはずだ。自画自賛するわけではないが、本物の指紋と同レベルの域まで、達しているのではと思う。


 僕は、予想以上の大成果に、大きく心を躍らせた。受験に合格した時以上の喜びだ。達成感と期待で、僕の胸は風船のように、張り裂けそうになった。


 しかし、まだ油断してはならない。本番が控えている。それを成功させなければ、全てが水の泡だ。


 僕は、浮き足立っている自分に、そう戒めの言葉をかけた。


 それでも、千尋の期待に応えられそうな予感は、喜びを生んでいた。鼻歌交じりに片付けに入る。


 片付けの最中、再び、誰かの視線を感じた。あの、湿った視線だ。僕は鼻歌を止めた。頭の中が、スッと冷静になるのを覚える。


 先ほどは、部屋の外からだと思ったが、それは勘違いで、どうも部屋の中からのような気がした。


 僕は部屋の中を見渡す。もちろん、部屋にいるのは、僕だけなので、視線を向ける人間は他に見当たらない。念のため、ベッドの下などの死角を覗いてみるが、もちろん、ネズミ一匹いない。この部屋には、僕に視線を投げかける生物など存在しないのだ。


 神経が昂ぶっているため、錯覚を受けているのだろうか。


 僕はそう解釈した。


 しかし、その粘りつくような、湿った視線は、片付けを終え、ベッドへ入ってからも、消えることはなかった。




 

 三日後、僕は、小山田のアパートへ行くことになった。驚いたことに、小山田自身からの招待だった。いずれは、彼の部屋へ行く必要があったため、渡りに船である。


 僕は二つ返事で招待を受け入れた。招待があったのは、前日の夜だったので、僕は朝、用意していた道具を大き目のデイバッグに入れ、部屋を出た。


 小山田と僕のカリキュラムは、おおよそ似通っているため、二人共に、午前の講義でその日は終わりを迎えた。


 大学が終わると僕達は、芒塚地区にある、小山田のアパートへ向かった。芒塚地区は、大学からやや遠くにあり、バスに乗らなければならない。


 僕が住む田中町とは正反対の方角へ、およそ、停留三つ分ほど進んだ先が、芒塚地区だった。


 僕と小山田は、十五分ほどバスに揺られた後、芒塚入り口の停留所へと降りた。頭の上には、長崎自動車道が走っている。時折、車が通過する、風鳴りのような低い共鳴音が、耳に届いた。


 僕達は、バスの停留所から、県道百十六号線を小山田のアパートへ向かって歩く。小山田曰く、十分もあれば着くらしい。


 少し進むと、県道百十六号線から逸れ、住宅街へと入った。


 そこから周囲の街並みに、少し変化があった。


 目に入る家々は、人が住んでいるのかと疑わしくなるほどの、古い民家が軒を連ねるようになった。雰囲気も暗い気がする。空き家も多いようで、雑草が伸び放題の庭を抱えた家も、所々に見える。


 それら家屋の奥まった所に、小山田が住むアパートはあった。築四十年は経っているのであろうか、古びた木造のアパートである。幽霊でも出そうな雰囲気だ。


 「少し汚いアパートだけど、中は綺麗だよ」


 小山田は、僕の表情が意味する所を察したのか、取り繕うようにそう言った。


 小山田の部屋は二階らしい。僕は、デイパックを抱えたまま、小山田の後に続き、不気味に軋む階段を登る。小山田が太っているせいなのか、段差を踏む度に、階段が揺れていた。


 そして、二階へ登り、一番奥にある小山田の部屋の前へと辿り着く。玄関に取り付けられている木製の扉は、非常に色褪せており、長い年月をかけて、劣化したことを表していた。


 「さあ、入って」


 小山田は、扉を開け、緊張した表情でそう促す。もしかすると、部屋に誰かを招いたのは、初めてなのかもしれない。


 「ありがとう」


 僕は、小山田が開けている扉を通り、先に部屋へと入る。


 小山田の部屋は、玄関がある一室が台所になっており、その奥に、ガラス戸を隔てて、畳張りの部屋があった。1Kの単純な作りである。


 小山田が弁明した通り、アパートの外観に比べれば、部屋の中は比較的綺麗だった。しかし、床や壁をよく見ると、相応の経年劣化を示す、汚れた色合いを見せていた。


 背後で小山田が、扉を閉めた。痛んだ建物特有の、乱雑な音が響き渡る。壁も薄いようで、隣の部屋にまで、生活音が聞こえているようだった。


 「お邪魔します」


 僕は、靴を脱ぎ、色褪せたフローリングへ足を踏み入れた。


 部屋の中へ入ると同時に、汗とイグサが混ざったような、饐えた臭いがした。他人の家や部屋は、それ特有の臭いが染み付いているが、小山田の部屋の臭いは、僕の胸を悪くさせるものだった。これは、小山田自身の体臭に依るものなのか、それとも部屋そのもののせいか。いずれにしろ、僕の鼻との相性は悪いようで、無性にマスクを付けたくなった。


 「奥の部屋へどうぞ」


 主である小山田は、この臭いを気にも留めていない様子だ。平気な顔で、奥の部屋を指し示す。動きが若干ぎこちないのは、ただ、慣れていない状況下のせいだろう。


 僕は、奥の畳張りの部屋へと進み、そこに座った。


 畳の部屋は、八畳ほど。左手奥にパソコンが載った机が置いてあり、その反対側に、畳まれた布団が積まれている。今時珍しい、ブラウン管テレビが、机横の壁際に設置されていた。


 「お待たせ」


 小山田は、部屋の隅に立てかけてあった折りたたみ式のテーブルを、部屋の中央に組立てた。その上に、お茶が入ったペットボトルとコップを置く。


 コップにお茶を注ぎ終えた小山田は、テーブルを挟んで、向かい側に座った。テーブルが小さいので、小山田との距離が近い。圧迫感があった。


 少しの間、僕らは無言だった。窓の外から、長崎自動車道を走る車のエンジン音が、微かに聞こえてくる。


 僕は、気を紛らわすため、コップのお茶を一口飲み、口を開いた。


 「綺麗にしているんだね。小山田君の部屋」


 「う、うん、まあね。汚い部屋は嫌いだから」


 小山田は、オドオドした様子で、もっともらしく言う。だが、それはただ単に、見栄を張っただけで、実際の理由は、部屋に物を置いていないだけだろうと僕は受け取った。それが、物資を買う余裕がないためか、あるいは、それ以外の理由があるためなのかは、判断付かないが。


 それにしても、と僕は思った。小山田を一瞥する。小山田は、戸惑ったように、目を逸らした。どうしてこの人は、ここまで挙動不審なのだろう。何か、腹に一物抱えているのか。


 小山田が人見知りなのは知っていたが、これまでに僕に対して心は開いてくれており、話も弾むことが多かった。なのに、今日はやたらと緊張しているようだ。自ら招待しておきながら、自分のテリトリーに、他者が入り込んだ違和感が強いのだろうか。


 小山田の心情などどうでもいいが、あまりに緊張されると、これからの計画に支障をきたす可能性があった。それは、僕にとって、望ましくない。


 「……」


 再び、静寂が訪れた。ここは上手く、場を盛り上げたほうがいいだろう。


 「小山田君、好きなテレビ番組とかあるの?」


 僕は、小山田の背後にあるブラウン管テレビに、視線を向けながら、そう訊いた。


 小山田は、少しの間、手入れをしていない眉根を寄せて、悩む仕草をする。演技かかった様子だったので、緊張を紛らわすためのものに違いない。


 そして、小山田は、いくつかテレビ番組の名前を上げた。その内の一つが、僕も好きな番組だったので、それを口に出す。そして、それから話を合わせていく。


 小山田もこれまでと同じく、僕との会話は望んでいるようで、次第に受け答えは、普段通りの打ち解けたものになっていった。


 当たり障りのない会話を続けた後、僕は小山田の様子を伺う。すっかり緊張が氷解したらしく、楽しそうに、趣味であるアニメの話題を夢中で行っている。警戒心は微塵も感じられない。


 小山田愛用の指紋認証付きスマートフォンが、テーブル横の畳の上に、置かれていることを確認する。


 そろそろ頃合だろう。僕は、話を切り出した。


 「そうだ! 差し入れを持ってきたんだった」


 唐突に思い出したように、僕は声を上げた。不自然さを与えてはいけないので、猿芝居にならないよう、心掛ける。


 「差し入れ?」


 「うん」


 僕は、デイパックから、袋に入ったフルーツロールケーキを取り出した。市内の弁天町にあるケーキ屋から取り寄せたものだ。長崎では有名な店で、人気が高い。


 僕は、袋ごと小山田に渡した。小山田は、嬉しそうにそれを受け取る。


 僕は言った。


 「これは、有名なお店のケーキだから美味しいよ。僕も食べたいくらい」


 少しあからさまな催促だったが、小山田は簡単に乗ってくれた。


 「そう。じゃあ一緒に食べる?」


 「それは悪いよ。差し入れなんだし」


 「いいよ。気にしなくて。切って来るね。後、コーヒーも淹れて来るよ」


 小山田は、ロールケーキが入った袋を持ち、立ち上がった。そして、畳の部屋を出て行く。


 小山田が、台所に立ったことを僕は確認する。ガラス戸は開けたままだったが、上手く僕の体を隠していた。台所にいる小山田の姿が、すりガラス越しに、ぼんやりと見える。そのシルエットは、モザイクがかかったような形なので、何をしているのかは、はっきりとはわからない。それは向こうから見ても、同じだろう。


 僕は、デイパックから、静かに道具を取り出す。小型のプラスチックケースに移し変えた、指紋採取道具だ。


 蓋をゆっくり開け、タンポと、混合アルミパウダーが入った小型容器を手に取る。


 僕は、畳の上に置いたままであった、小山田のスマートフォンを引き寄せた。小山田の姿をガラス戸越しに伺う。小山田のシルエットは、右腕を忙しなく動かしていた。ケーキを切っているようだ。


 フルーツロールケーキは、極めて切り分け難い。特に僕が購入したものは、果実が大きいことが特徴で、しかも、それが大量にミックスされている。おそらく、一つ二つ切り取るだけで、四苦八苦するはずだ。一本全て切り終わるのに、それなりの時間はかかる。その上、コーヒーも淹れると言っていた。


 つまり、今回のコーヒー付きフルーツロールケーキの『注文』は、充分、時間稼ぎの役を果たしてくれるはずなのだ。


 僕は、タンポに混合アルミパウダーを付着させ、小山田のスマートフォンへと、先端を接触させた。そして、混合アルミパウダーを広げていく。


 僕の心臓は高鳴っていた。今のこの怪しい姿を見られたら、言い訳のしようがない。一撃でクリティカルだろう。


 台所とこの畳の部屋は、極めて近く、小山田のちょっとした気紛れで、この部屋を覗かれる恐れがあった。それは防ぎようがなく、また、取り繕うこともできない。こればかりは、覗かれないように、運を天に任せる他なかった。


 スマートフォンのモニター上に広がった混合アルミパウダーを、タンポで叩いて、指紋を浮き上がらせる。


 本番である今回は、一つだけではなく、複数、指紋を採取したかった。そのため、広範囲へ、混合アルミパウダーを押し広げ、検出範囲を拡大させた。


 ある程度、はっきり指紋が現れた所で、『試作』時と同じように、ルーペでそれぞれの隆線をチェックする。


 どれも隆線の高さは申し分ない。溝もくっきりと現れていた。


 再び、小山田の様子を確認する。はっきりと姿が見えないせいで、何をしているのか把握が難しい。どうやら、コーヒーに使う湯を沸かしているようだった。


 「あ、そうだ。暇だったら、テレビ点けていいよ」


 ふいに、小山田が声をかけて来る。僕の心臓は跳ね上がった。思わず、小山田のスマートフォンを落としそうになる。


 「うん、ありがとう」


 僕は、内心の動揺が出ないように、極力気持ちを落ち着かせ、返答した。そして、小山田の勧めに従い、テーブルの上に置いてあった、リモコンを手に取る。


 最初は、そのままテレビを点けずに作業を続けようと思ったが、音声により、こちらの音をカムフラージュしてくれるかもしれない。僕はそう考え、テレビを点けることにした。


 昼のワイドショーの音声が、部屋へと広がる。たちまち騒がしくなった。


 テレビの喧騒を背景に、僕は、作業に戻る。


 隆線が高い指紋は検出できたので、後は型取りだった。再びデイパックに手を入れ、小型の魔法瓶を取り出す。


 魔法瓶の中身は溶かした『介護用ゼラチン寒天』だった。朝、お湯で溶解させて入れてきたのだ。温度はやや高めの七十度ほどにした。魔法瓶内での温度低下を考慮すると、使う頃には、ちょうど適正温度の六十度まで、下がると踏んでのことだった。


 本来なら、温度計でそれをチェックしたかったのだが、時間が惜しい。ここはこのまま使うしかなかった。


 僕は、魔法瓶の蓋を開け、中のゼラチン寒天を、小山田のスマートフォンのモニター上へ、慎重に注ぐ。以前と同じように、三倍以上の濃度だが、粘度はほとんどなく、温泉の湯のように、さらさらとしている。


 そのため、広がりやすく、モニター外へ零したり、マイクや受話口へ入り込んでしまう危険性があった。そうなると、非常に面倒なことになる。ここは、重々、注意しなければならない。


 モニター上に、くっきりと現れている白い遺留指紋全てに、ゼラチン寒天を掛ける。幸い、ミスを犯すことなく、完遂した。


 後は、固まるのを待つだけだが、その時間はあるのか。


 僕は唾を飲み込み、台所に目を向けた。


 すりガラス越しに、小山田の大きな体が見える。そして、陶器が触れ合う音が聞こえた。もうケーキを切り終わり、皿に乗せているのだろう。


 残り時間は、少ない。


 僕は、モニターに掛かっているゼラチン寒天をチェックした。まだまだ液体状で、凝固にしばらく時間が必要だ。


 心臓が大きく波打っている。ここからが正念場だ。失敗は許されない。


 ガスコンロの火を止める音がした。そして、再び食器が触れ合う音。


 僕は、小山田に声を掛けた。


 「ロールケーキはちゃんと切れた?」


 「あ、う、うん。 手間取ったけど、何とか切れたよ」


 話し掛けられると思っていなかったのか、小山田は、弾かれたように答えた。元々男にしては、高めの声が、さらに1オクターブほど上がっていた。


 「僕は一切れでいいから、残りは冷蔵庫に入れておけば?」


 「うん。じゃあ、そうする」


 小山田は、僕のアドバイスを素直に受け入れた。そもそも、実際、二人で食べるには量が多かった。しかし、小山田はその全部を持ってくるつもりだったようだ。


 冷蔵庫を開ける音がし、中を弄る気配がする。多少はこれで時間を稼げるはずだ。


 それから二分ほど経過し、僕は、ゼラチン寒天を再度、確かめる。凝固が進んでおり、ほとんど固形化していた。しかし、まだ内部は柔らかく、この状態では使い物にならない。もう少し時間が必要だ。


 後、一分ほどか。


 「どれくらいで終わる?」


 僕はズバリ、小山田に質問した。


 「後、コーヒーを淹れるだけだから、一、二分かな」


 小山田はそう答えた。微妙な時間だ。


 焦燥感で、僕の肌が粟立つ。心臓が激しく鳴っていた。早く固まってくれ。ゼラチン寒天に対し、必死に願う。


 この一分が、相当長く感じた。


 やがて、コーヒーの香ばしい匂いが、辺りに漂い始めた。コーヒーを淹れ終わったのだ。


 僕は、ゼラチン寒天を素早く確認した。ゼラチン寒天は、乾いた接着剤のように、凝固している。


 僕はそれを一気に引き剥がした。チェックする時間もないので、引き剥がしたゼラチンテープを、すぐさまケースの中へ収める。そして、アルコールティッシュで、素早くモニターを拭い、痕跡を消した。モニターが綺麗になってしまうが、悟られる恐れはないはずだ。


 食器同士が、大きく触れ合う音がした。食器を載せたトレイを、小山田が持ち上げたのだとわかる。


 僕は、小山田のスマートフォンを元の位置に急いで戻す。そして、使用した道具類を全てデイパックの中へと突っ込んだ。


 姿勢を正す。


 それと、ほぼ同時だった。


 「お待たせ」


 小山田が、トレイを抱え、部屋の中へ入ってきた。


 「わざわざごめんね。ありがとう」


 僕は、高鳴った心臓をなだめながら、さり気なく礼を言った。同時に、間一髪で間に合ったことに、安堵する。気が付かれないように、小さく吐息を漏らした。


 小山田は、僕のそのような心情を悟ることなく、テーブルの上に、トレイを置いた。


 トレイには、皿に盛り付けられたフルーツロールケーキと、コーヒーが載っていた。フルーツロールケーキの方は、切り分けるのに、随分と苦戦した痕跡が多々見受けられた。クリームは大きくはみ出し、中のフルーツは、中から生えてきたかのように、外へと突き出ていた。まるで、出来損ないの粘土細工のような外観だ。


 僕は心の中でほくそ笑んだ。ロールケーキは、僕の意図通りの働きをしてくれたようだ。


 僕が、前衛オブジェクトのようなロールケーキを凝視していると、小山田は、恥ずかしそうに言う。


 「切るのがなかなか難しくってさ。手間が掛かった割りに、上手くいかなかったよ。汚くてごめんね」


 僕の思考を誤解した小山田は、謝罪した。


 僕は心の中で思う。それでいいんだよ。小山田君。


 僕も、小山田へ謝罪をする。


 「僕が考えなしに買ってきたせいだよ。ごめんね。無理にお願いして」


 「うん。まあ、大丈夫だよ。とにかく食べよう」


 小山田は促した。


 「そうだね」


 僕はフォークを手に取り、崩れたロールケーキを口に運んだ。口の中に、甘ったるいクリームの味が広がる。たちまち味覚が刺激され、口元が緩くなった。


 自分が買ってきたため、よくわかっているのだが、このロールケーキはとてもおいしい。


 特に今は、格別の味がした。





 その後、ケーキを食べ終え、僕らは談笑に花を咲かせた。


 今に始まったことではないが、小山田の会話のほとんどは、アニメや漫画などの趣味の話で占められている。僕は嫌気が差しながらも、聞き役に徹していた。


 小山田は、今まで話し相手がいなかったせいか、語り好きだ。僕はそれに合わせるのに、いつも苦労を覚えていた。今日は殊更、小山田はお喋りで、先ほどの工作の時よりも、心労が重なってしまう。


 さすがに限界で、僕は程よいタイミングまで堪えた後、帰宅する旨を告げた。


 それを聞いた小山田の顔は、非常に寂しそうに歪んだ。夕食を一緒に食べようと誘われたが、僕は、やることがあるからと断った。それは事実であり、もうこれ以上、小山田の無駄話に付き合っている時間はない。


 なおも、名残惜しそうにしている小山田に、僕はまた来ると約束をした。これから『計画』のために、何度か通う必要があるため、事実であった。


 晴れ渡った顔の小山田に別れを告げ、僕は古びた木造アパートを後にした。

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