第五章 あなたは僕のもの

 千尋と日見公園で逢瀬を行ってから、三日が過ぎた。あれからというもの、僕と千尋の中は急接近していた。


 急接近したとは言っても、これまでとは違い、大学の構内で、会話を行う頻度が増えただけではあった。しかし、それでも僕にとっては、奇跡のような展開だった。


 今まで眺めるだけの存在だった千尋が、僅かばかり近くなった――僕は、桃源郷に迷い込んだかのような、非現実感を伴う喜びと陶酔感に包まれていた。


 千尋と会話が増えたことで、周りの見る目も少しばかり変化を見せた。


 千尋は同学年では人気があるため、事あるごとに、注目されがちだ。関わる人間が増えると、自ずとその人間は目立ってしまう。僕もその範疇に含まれたらしく、大学構内で、千尋と会話を行う度に、周りにいる人間が、物珍しそうに目を向けて来ていた。


 僕は居心地の悪さを覚えたが、それでも悪い気分ではなかった。少しだけ、周りの人間に対し、優越感を感じることができた。


 これも、犯人探しを誓い、千尋の信頼を勝ち得たお陰なのだろう。


 だが、そのせいで、難題が出来していた。


 あの時、千尋を抱きしめることに成功した後、僕は喜び勇んで部屋へと帰った。


 そのせいで、汗だくになったが、シャワーを浴びている最中、はたと疑問が頭をよぎった。


 これからどうするべきか。


 犯人探しを誓った以上、それを遵守するべきだが、難関がいくつもあった。それらをクリアしなければ、千尋とのこれ以上の進展はないし、下手をすると、千尋が離れていってしまう。


 まず第一に必要なのは、濡れ衣を着せる相手の選定だった。犯人が誰なのかは僕が一番よく知っているので、これからその罪を被ってくれる人間を探さなければならない。


 そのことに、逢瀬からのこの三日間、頭を悩ませていた。


 誰でもいいわけではない。『それらしい』人間を選出することが肝心だった。


 ポイントとして、千尋と接点がある人間が望ましい。しかし、あまりにも近過ぎる人間もアウトだ。近しい人間は、千尋がストーカー被害にあっている件を聞き及んでいる可能性がある。そのような人間達に濡れ衣を着せようとしたら、かえって、こちらに疑いが向く危険性があった。


 千尋と接点があり、なおかつ、近過ぎない人間。


 接点がある人間にこだわる理由としては、合鍵の件があった。千尋は合鍵を盗まれたことを疑っていた。それが可能なのは、日頃千尋に接近出来る人間に限られてしまう。もしこれが、見ず知らずの部外者を選出するならば、後々、鍵窃盗の件がネックに成りかねない。千尋の周囲の人間も疑問に思うはずだ。どうやって盗んだのだと。


 そして何より、千尋との接点があるのならば、僕にも接点があるか、近しいはずなのだ。それは、工作がしやすいというメリットを意味していた。


 すなわち、濡れ衣を着せる相手は、大学の人間がベストだということだ。鍵を盗むチャンスは幾らでもあり、千尋に一方的な恋愛感情を抱いたという『動機』も作り出せる。ストーカーの加害者の過半数は、知人らしいので、信憑性も生まれる。


 では、その対象は誰なのか。絶妙な位置にいる人間はどこにいる。


 僕は、ずっと考えていた。講義の間中も、内容そっちのけで、そのことばかりに思考を取られていた。


 さらに数日が経過した。なかなか該当者が見つからず、焦りが生まれ始めた僕の目に、ある人物が候補として挙がった。


 小山田幸二おやまだ こうじ。不思議に、僕と講義の種類が被っている男子学生だ。小山田は、小太りで、髪も脂ぎったような不潔な容姿をしている。まさにオタクのモデルのような人物だ。


 差別的な物の見方だが、小山田が『犯人』だと言われても、納得させられるイメージを持っているように思う。それは他の人間も同様のはずで、悲しいことに、人間は偏見かつ差別的な生き物なのだ。第一印象だけで犯罪者に仕立て上げてしまう。


 立ち位置や、印象、機会等を考慮に入れると、小山田が『犯人』に相応しかった。


 僕は小山田に標準を絞った。


 『標的』は見付かった。後は最も肝心な『方法』だった。


 僕は、普段目にする、小山田の姿を頭に思い浮かべた。


 小山田は人付き合いが苦手なのか、いつも一人だった。誰かと一緒に居る所を見たことがない。しかし、友達ないしは、知り合いが欲しい気持ちはあるようで、同じように一人ぼっちで席に座っている僕が気になるのか、時折、物欲しそうな視線を向けてくることがあった。


 それを利用しない手はなかった。


 僕は、小山田に接触を試みることにした。



 

 必修科目の講義が終わり、生徒達が続々と部屋から吐き出されて行く。


 僕は、帰り支度を整え、席を立つ。教室の隅の席へ向かおうとした時、背後から、千尋が声を掛けてきた。


 それは、単純に「さよなら」の短い一言だった。だが、それだけでも僕は、天に昇るような晴れ渡った気持ちになった。それまで帰りの挨拶で声を掛けられることなどなかったのだ。どれほどの大きな前進か。


 僕は、これをさらに発展させたかった。


 ちなみに、千尋といつも一緒にいるアズミは、千尋が僕に話し掛ける時に限って、必ず側にいなかった。相変わらず徹底的に僕と距離を置きたいのだろう。まあ、そこは構わない。僕が必要としているのは、千尋のみだからだ。


 千尋に挨拶を返し、別れた後、僕は、教室の隅に向かった。


 教室の隅の席に、ポツンと一人だけ、小太りの学生が座っていた。小山田は、自らの体格に相応しい大きなリュックを机に載せ、帰り支度をしている。


 小山田は、僕が声を掛けるまで、僕の接近には気が付かなかった。


 「小山田君、こんにちわ。ちょっといい?」


 僕も人見知りであるため、自分から声を掛けることは慣れておらず、緊張しながらの発声だった。


 リュックをまさぐっていた小山田は、弾かれたように顔を上げた。そして、僕の顔をまじまじと見つめる。


 「こ、こんにちわ。な、何?」


 小山田も緊張しているらしく、どもりながら返事をした。目も泳いでいる。


 小山田は緊張を紛らわすためか、リュックのバックル部分を指先でいじっていた。ふと、こんなに大きなリュックに、何が入っているのだろうと疑問がよぎる。


 僕は内心の思惑が表に出ないように、可能な限り、自然な物言いを心掛けて言った。


 「今日一緒に帰らない?」


 僕の突然の誘いに、小山田は、線を引いたような細い目を丸くした。


 「え? う。うん。いいけど」


 ひどくおどおどした様子で、小山田は了承する。これまでの挙動不審振りを見る限り、もしかすると、誰かから積極的に声を掛けられた経験が皆無なのかもしれない。それほど強い緊張を小山田から感じた。そして、僕以上に、人見知りなのだという事実が、はっきりとわかった。


 僕は、それを思うと、幾分か、心に余裕が生まれた。人は、自分よりも下を見ると、優位性を持つ心理が働く。下方比較というやつだ。


 僕は、さらにアプローチを掛けた。


 「帰る前に、どこかに寄って行かない?」


 「う、うん」


 小山田は戸惑いながら、頷いた。尻込みしているようだが、内心喜んでいることが目の輝きでわかった。相手が誰であれ、誘われると嬉しいものなのだ。


 その後、僕らは揃って教室を出た。普段、孤独に過ごしている者達が、行動を共にしている姿が奇異に映るらしく、教室に居残っていた他の学生達が、ジロジロと視線を投げ掛けてくるのを肌で感じた。


 僕達二人は、大学を後にし、坂を下る。県道に出る間も、僕らはほとんど口を開かなかった。


 県道に出た僕らは、ファミレスへと入った。以前、千尋達を尾行していた時、入った店だ。


 案内に来たウェイトレスに伝え、奥の席を選ぶ。僕らは共に、ドリンクバーを注文した。


 お互いに、好みの飲み物をドリンクコーナーから注いで来る。小山田は、エスプレッソコーヒーを選んでいた。子供のように、シュガースティックを何本も投入していた。


 僕は、レモンジュースを飲みながら、正面にいる小山田の様子を伺った。


 席に着いてからも、小山田は、落ち着きがなかった。常にそわそわと、体のどこかを動かしている。始めは、僕と一緒にいることが不快なのかと勘繰ったが、どうも違うようだ。そこに、居心地の悪さは感じ取れない。純粋に、人と行動を共にすることに、慣れていないのだろう。


 僕は、挙動不審な小山田に対し、いくつか質問をした。本当は、小山田のことなど、興味がなかったが、これから『利用』するのだ。彼の情報は、いくつか知っておくべきだった。


 小山田は、隣の佐賀県出身らしい。今は、大学近くのアパートで、一人暮らしをしており、慣れない家事に四苦八苦しているようだ。現在、彼女はおらず、親しい友達もいない。


 小山田は、コーヒーをティースプーンで、しきりにかき混ぜながら、質問に答えてくれる。相変わらず、落ち着きがないが、こうして、自らのプライベートを話してくれるのであれば、幾分か、心を開いてくれたのかもしれない。


 それは、『計画』を推し進めるに至って、大事な要素だった。


 そして、次は、小山田が僕のプライベートについて、たどたどしく質問を行った。どこに住んでいるのか、趣味や恋人の有無など。


 僕は、それらに対し、無難な答えで返す。小山田に『事実』を悟られるわけにはいかないので、少し気を使った。幸い、質問自体は、当たり障りのないものだったので、上手くあしらうことが出来た。そのお陰か、小山田は疑う素振りすら見せなかった。


 人見知り同士の会話がある程度終わり、最後に僕らは、連絡先を交換した。そこで、僕は、小山田のスマートフォンが、指紋認証付きの機種であることも確認する。


 ファミレスを出た僕らは、そこで別れることにした。小山田は、まだ名残惜しそうだったが、結局、何も言うことなく、僕に背を向けた。




 

 それから、僕は、小山田と親睦を深めることに尽力した。小山田は、僕以上に人見知りであるものの、友人や知人は欲しているらしく、容易く受け入れてくれた。スマートフォンのSNSチャットも頻繁に送って来るようになり、僕は、嫌気が差しながらも丁寧に付き合った。これも『計画』のためであり、引いては、千尋と結ばれるためでもある。僕は我慢した。キャバクラ嬢や、ホストは、直接的なコミュニケーション以外でも、メールやチャットでお客と交流するという。もしかすると、こんな気分なのかもしれない。


 小山田と親密になったことを契機に、次の段階へと駒を進めることにする。


 僕は、大学が休みである土曜日、『準備』のため、長崎市内にあるショッピングセンターへと赴いた。国道三十四号線から県営バスに乗り、長崎駅前で降りる。


 そして、長崎駅に直結している、大型商業施設のアミュプラザへと入った。


 休日のためか、店内は人が多く、まるで祭りのように混雑していた。特にカップルや家族連れが多い。


 僕はエスカレーターで四階まで登り、そこにある東急ハンズへと足を踏み入れた。


 東急ハンズは、全国に展開されているホームセンターだ。取り扱う商品は多岐に渡り、本格的な工具や素材、工作材料が揃えられている。中には、変り種として、バラエティグッズなども置かれてあった。


 アミュプラザ四階のほとんど全ての面積を、東急ハンズが占めているため、その品揃えは相当なものだった。


 僕は、家族連れで賑わう店内を、縫うようにして進む。店内は広いが、客も多いため、息苦しさを覚えた。


 そして僕は、子供達でごった返す、知育玩具のコーナーの前へと辿り着いた。そこには、子供向けの学習用玩具が多数置いてあった。子供向けとは言え、相当本格的なものがあり、実物並みの精度を誇る顕微鏡や、高機能のプラネタリウムなどがある。


 僕は、物珍しげに知育道具を弄る周囲の子供達に混じり、目当ての物を探した。以前、当てもなく店内を物色した際に、偶然発見したものだ。面白そうだったので、記憶に残っていた。


 それは、海外製の指紋採取キットだ。指紋をルーペで拡大しているデザインが施された、黒い外装の商品である。英和辞典ほどの大きさを持つ。


 これは、子供用の学習用具だが、かなり本格的であり、指紋採取に必要とする道具が、ほとんど揃えられていた。


 ただ、採取に必要な粉末は、ベビーパウダーになっており、実際の鑑識で使用されるアルミパウダーではなかった。


 単純に指紋を採取するだけならば、ベビーパウダーのみで充分だろうが、僕が求める結果を出すには、それに加えて、アルミパウダーが必要だった。


 それは、後で取り揃える必要がある。


 僕は、指紋採取キットを、買い物籠へと入れた。


 そして、次のコーナーへと向かう。


 僕が向かった先は、ホビー用品のコーナーだ。塗料や、溶剤などが揃えられている。


 そこから、造型村の『透明シリコン』を手に取った。硬化剤がセットになった円筒形のプラスチックケース本体に、黄色のラベリングが施されている。そのラベルにいくつか、商品の概要が記載されていた。この透明シリコンは、型取りに最適な性能を示し、硬化の早さや、硬化後の引き裂き強度が抜群に高いようだ。また、透明なため、攪拌の度合いがわかりやすいらしい。


 シリコン用品を購入するのは初めてだが、昨夜、インターネットで調べた結果、この製品がベストだと判断した。実際に店舗に置かれているか不安だったが、リーピーターも多い人気商品であったためか、問題なく販売されていた。


 僕は、それも買い物カゴへ放り込んだ。


 後は、『作業』に必要な道具をいくつか揃え、会計を済ませる。


 東急ハンズを出た僕が、次に目指したのは、地下一階にある大型のドラッグストアだった。目当ての物は、比較的大型のドラッグストアならば、どこにでも置いてある代物だったが、ちょうど同じ施設内にあるのだ。ついでに購入しようと考えた。


 再びエスカレーターを使い、一階へと降りる。一階は、ステーションパークとなっており、スーパーマーケットや、多数のお土産店舗が軒を連ねている。このアミュプラザ内において、もっとも人が多い区域だ。


 僕は人混みに酔いそうになりながら、奥にあるドラッグストアへ向かう。


 ドラッグストアの中へと入り、僕は、介護用品が置いてある一角に近付いた。そこで、経口補水液や、レトルト食品の中に混ざって、介護用の『ゼラチン寒天』が置かれているのを発見する。


 これが、ここでの目的だった。本来は、食事の際、嚥下がし難い老人のために、ゼリーのようにして食べ物を固めるものだ。顆粒状で、溶かして使うタイプである。


 もちろん、今回の購入目的は、介護とは関係なく、『計画』のためのチョイスだった。


 この製品を選んだのには、いくつか理由があった。それは、ゼラチンと寒天の性質の違いから来るものだった。


 通常のゼラチンは、固まる温度が十五度から二十度以下と低く、固めるためには、冷蔵庫で冷やす必要があった。反対に寒天は、三十度以下の常温でも問題なく固まってくれる。『計画』においては、この常温下での固形化は、必須条件であった。


 しかし、今度は溶け出す温度がネックだった。ゼラチンは五十度前後での溶解に対し、寒天は、八十度から百度と、沸騰に近い温度を必要とした。この温度は非常にまずく、他の物体に触れた場合、損傷を引き起こす危険があった。『計画』において、それは避けなければならない問題点だった。


 そこで、ゼラチンと寒天のハイブリッドである、この製品に注目したのだ。


 この『ゼラチン寒天』は、まさにベストな条件を兼ね揃えていた。『ゼラチン寒天』が溶け出す温度は、六十度ほどであり、沸騰する温度と比べると遥かに低い。何か別の物体に触れても、損傷を与えるほどの熱ではないのだ。そして、肝心の固形化は、常温下でも問題なく行われる。


 溶けやすく、固まりやすい。さすが介護用というべきか、まるで、僕の『計画』のために開発されたのかと思うほど、適正を見出せる製品だった。おまけに、粒が小さく、使い勝手が良いというメリットもある。


 僕は、介護用の『ゼラチン寒天』をレジへと持って行き、購入した。


 そして、ドラッグストアを後にする。ここまでで、既に大幅な出費になっていたが、これも千尋のためだ。少しも痛くはない。


 最後に僕は、アミュプラザを出て、近くにあるゴルフ用品専門店へと入った。


 レジにいた中年の女性店員が、いらっしゃいませと声をかけて来るが、怪訝そうに、一瞬、僕を上から下へと嘗め回すように、視線を投げかけたのを見逃さなかった。


 商品を探している最中も、刺すような視線をうなじに感じていた。どうやら、よほど、僕はゴルフとは縁遠い存在に映るらしく、奇異なものを見る目は、ずっと続いていた。


 僕が求める商品は、ゴルフ工具のコーナーに置いてあった。


 プラスチックの容器に入った、アルミパウダーだ。


 これは本来、ゴルフクラブのヘッドに、シャフトを組み付ける際に使われる接着強化剤だった。従来使用されるグラスビーズでは得られることが出来ない、粒子の細やかさと、強度を保持している。


 僕は、そのアルミパウダーをレジへと持って行く。会計の際も、店員の女性は、僕に対する不審者を見るような視線は崩さなかった。僕は、自分の顔が、血塗れであるかのような気分に陥った。


 会計を済ませ、ゴルフ用品店を出る。僕は、ホッと一息ついた。


 これで、今日の目的は完遂した。後一つ、必要な物が残っているのだが、それはさすがに長崎では売っていないので、今度、福岡に出向いて、購入するつもりだった。インターネットでも取り寄せが可能だったが、どうしても証拠が残ってしまうため、直接購入以外の選択肢はなかった。


 僕は、再びアミュプラザ前のバスステーションへと戻った。そして、帰りのバスを待つ。日はすでに傾き、血のように赤い夕焼け空が広がっていた。


 僕は荷物を抱え、バスステーションの椅子に座ったまま、一人でにこやかに笑った。目的のものを揃えられた達成感と、これから起こる出来事による笑顔だった。これでまた、千尋に一歩、近付くことが出来る。僕は、嬉しくて堪らなかった。

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