第三章 もっとあなたに近付きたい

 千尋に、生理用ナプキンをプレゼントしてから、五日が経った。


 プレゼントとは言っても、もちろん、直接ではなく、千尋の部屋のドアノブに提げてきただけだったが、確実に受け取ったはずだ。


 その後の千尋の行動に変化はない。すでに千尋は生理が始まっているはずだが、喜んでくれているのだろうか。喜んでくれているなら、僕はとても嬉しい。


 そして、僕は、さらに千尋に近付くため行動を取る。


 そのために、今日、僕は午後の講義を欠席するつもりだった。千尋が講義に出席している間、その千尋の部屋に侵入する計画を立てていた。


 僥倖だったと思う。実に偶然、千尋の部屋の鍵を入手する機会が訪れた。


 あれは、十日ほど前のことだった。


 僕は普段通り、千尋に合わせて、講義のある教室へ入った。その講義はマイナーな選択科目で、教室は狭く、人数も小規模のものだった。


 僕が席に着いた時、僕と千尋達のグループを除く、他の生徒達はまだいなかった。

 千尋の姿が目に入る席をキープしていた僕は、講義が始まるまで、いつものように、千尋の背中を眺めていた。


 すると、奇跡が起きた。


 千尋達がまとめて席を立ったのだ。会話の内容から、一人がトイレに行こうと皆を誘い、他の全員が同意したのだとわかった。


 ワイワイと楽しそうに会話をしながら、千尋達は教室を出て行った。


 荷物を残したまま。


 それまで教室内に響いていた千尋達の声がなくなり、押し潰されそうなほどの重い静寂が唐突に訪れた。だが、僕の心は躍っていた。


 これは天が与えてくれたチャンスだった。


 僕は教室の扉に注意を払いつつ、すぐさま千尋のバッグに飛び付いた。千尋が愛用しているバッグはすでに把握しているので、間違うことはない。


 僕は千尋の黒いトートバッグのファスナーを開けた。そして、手を突っ込む。


 心臓が早鐘のように鳴っていた。この姿を目撃されたら、一発でアウトになるだろう。もう他の生徒達がやってくる頃だ。今にでも、入り口の扉を誰かが開けそうだ。


 入り口に少しでも、人の気配がしたら、即座にこの場を離れる。そう心掛け、千尋のバッグを物色した。


 財布、ハンカチ、ティッシュ、化粧ポーチ、サブバッグ。出来るだけ荒らさないよう、慎重に中身を確認していく。そのため、少し手間がかかる。


 教室の扉に目を走らせた。まだ、人の気配はない。千尋達がトイレから帰って来るのにも、もう少し間があるはずだ。


 心臓の鼓動は相変わらず早い。口から飛び出しそうだ。


 再びバッグに目を落とす。ペンケース、メモ帳、文庫本、スマートフォン。スマートフォンの中身も気になるが、きっとロックが掛かっているに違いない。だから、今は触らないでおこう。


 あった。


 僕の心は歓喜に震えた。目当てのキーケースだ。ダコタの皮製のものだ。これで間違いないはず。


 キーケースの留め具を外し、中を見る。以外にも、複数の鍵がホルダーに掛かっていた。実家のものだろうか。


 予想外に、似た鍵が多いため、混乱する。しかし、すぐにでも決断しなければならない。もう人がやってくる。


 いっそ、キーケースごと、という考えが頭をよぎる。しかし、このキーケースはそれなりの大きさなので、戻ってきた千尋がバッグの中身を確認した場合、即座に気が付かれる恐れがあった。


 僕は直感に任せ、一つの鍵をホルダーから取り外した。そして、キーケースをトートバッグの中に戻し、ファスナーを閉じた。


 急いで自分の席へ戻る。それと同時に、男子学生が教室へと入ってきた。僕と良く講義が被っている、オタク風の学生だ。


 その学生は、怪しむ素振りも見せず、チラリと僕に視線を送った後、隅の方の席に着いた。


 僕は、千尋から盗んだ鍵を自分の財布へ入れながら、ホッと胸を撫で下ろした。


 その後、教室へ戻ってきた千尋は、鍵が一つなくなっていることに気が付かないまま、講義を受けた。


 僕は、その講義が終わると、残りの講義は全て欠席し、近くのホームセンターへ赴いた。そこで合鍵を作る。


 本体の鍵の方は、拾得物として、学生課へ届けた。無くなったのは短時間な上に、一つだけなので、怪しまれることはないはずだった。


 問題は、これが本当に千尋の部屋の鍵としてヒットしているかどうかだ。おそらく実家のものであろう鍵もあったので、それを手に取った可能性もある。


 これは僕の運次第だ。もうあのようなチャンスは訪れないだろう。


 これは、ものにしたい。


 僕は大学を出て、すぐに千尋のアパートへ向かう。平日の昼過ぎなので、人通りは少ない。すれ違うのは、小さい子供を連れた母親くらいだ。


 やがてすぐに、千尋の住むアパートに到着した。千尋のアパートは、二階建てのシンプルな構造の建物だった。


 二階にある千尋の部屋の前まで来た僕は、辺りを警戒する。縁があるとはいえ、僕の上半身は外から丸見えなのだ。


 辺りを見回し、僕に視線が向けられていないか注意する。時間帯のお陰で、人気が少なく、そのような視線はなかった。


 僕は安心し、千尋の部屋の合鍵を取り出す。そして、祈るような気持ちで、ドアノブの鍵穴へとあてがった。


 そっと、差し込む。


 合鍵は、何の抵抗もなく、鍵穴へと入り込んだ。回すと、銃の撃鉄を起こしたかのような硬質な音がして、シリンダー錠が下りた手応えがあった。


 ビンゴだった。


 僕の心は、宝くじで大当たりを出したかのように、強い喜びに包まれた。運良く当たりを引いたのだ。天は僕に味方をしてくれている。僕は、そう確信した。ありがとう。神様。


 僕は、再度、周囲を確認し、ドアを開けて中へと入った。


 ワンルームの部屋の中は、薄暗かった。カーテンを開け放ってはいるが、部屋中を明るく照らすのには、不十分な光量だった。


 念のため、玄関を施錠した後、靴を脱ぐ。そしてそれを手に持ったまま、部屋へと上がる。


 千尋の部屋は、甘い匂いがした。それは、色気があるような下品な匂いではなく、包み込むような優しい匂いだった。


 僕は、部屋を仔細に観察した。左手側にピンク色のカバーがされたベッドが置いてあり、右手側の壁際に、机やキャビネット、本棚等が配置されている。中央には可愛らしい小さなテーブルが置かれ、右手隅に液晶テレビが備え付けられていた。


 千尋らしく、整理整頓が行き届いた部屋だった。テーブルの上も綺麗に片付けられており、ベッドの下にすら、物が置いていなかった。


 僕は、靴を床に置き、その部屋を隅々まで調べた。キャビネットを開けて、中に収納されているもの全てを検分する。本棚も、全て一冊一冊チェックした。本棚のラインナップは、ファッション雑誌や、流行った恋愛小説が多かった。


 次に、タンスの中身も確かめる。千尋らしいフェミニンなデザインの洋服が、所狭しと並んでいた。そして、一番下の段に、下着が収納されていることを発見する。下着の種類は豊富で、リサマリやチュチュアンナといった、パステルカラーの可愛らしいブラとショーツが多く見受けられた。


 千尋愛用の下着を前にして、僕は、「欲しい」という欲求に駆られた。これは、千尋を思いながら、自身を慰める格好の材料になる。


 しかし、数が豊富とはいえ、毎日目にしている下着類なのだ。一つでも無くなれば、気が付く恐れがある。今は、自重するより他はないだろう。


 僕は、泣く泣く下着を諦める。


 気を取り直し、続いて、机の中を調べた。大抵は教科書や筆記用具などの学習関係のものばかりだった。だが、一つだけ、鍵付きの引き出しがあり、ロックされていたため、開くことが出来なかった。鍵自体も見当たらない。もしかすると、あのキーケースの中に入っていたのかもしれない。


 僕は訝しむ。千尋は一人暮らしだ。どうして鍵を掛ける必要があるのだろう。その上、鍵すら持ち歩くなんて、よほど見られたくないものでも入っているのだろうか。


 僕はひどく中身が気になった。しかし、まだ調べるべき所が残っている。


 ひとまず、引き出しは後回しにし、次はトイレに向かう。


 簡素なトイレの隅に、汚物入れを見つける。


 蓋を取り、中を覗き込んだ。


 そこにやはり、使用済みのナプキンが入っていた。いくつかあり、一つを掴み出す。


 種類を確認すると、僕が千尋にプレゼントしたナプキンと同じものだった。とは言え、それは同時に千尋が愛用しているナプキンであるため、僕のプレゼントを直接使っているという確証にはならない。


 しかし、これ自体は間違いなく、千尋が使ったものだ。愛する千尋の経血が染み込んだ代物だ。


 僕にとって、それは、崇高かつ、希少なレッド・ダイヤモンドのように思えた。


 僕は汚物入れを再び覗き込む。まだ他にもナプキンはある。下着と違い、一つくらい盗んでも、わかりはしないはずだ。


 僕は手に持ったナプキンをポケットに入れた。


 そして、トイレを出て、再度、机に近付いた。


 やはり、どうしても、鍵が掛かった引き出しが気になった。一体、何が入っているのだろう。


 僕は、机の上にクリップが置いてあるのを発見し、それを手に取る。そして、針金のように伸ばすと、引き出しの鍵穴へと入れた。


 ピッキングはやったことがないが、中身を確認しないことには、帰ることが出来なかった。


 しばらくピッキングに奮闘する。机に備え付けられた鍵など、チープなおもちゃみたいなものだ。難なく解錠することが可能なはず。僕はそう考えていた。


 だが、十分以上時間が経っても、一向に鍵が回る様子はなかった。見通しが甘かった。


 千尋が帰ってくるまで、まだまだ時間がある。とは言え、可能な限り、迅速に事を運びたかった。ここはめげずに集中だ。


 その後、二十分ほど時間を費やし、やがて、薄い金属板を擦り合わせるような音と共に、鍵が回った。


 ようやく、解錠出来たのだ。


 僕は安堵に包まれ、小さく息を吐いた。やっと、中身を確認することが出来る。同時に、喜びと興奮が生まれた。


 僕は引き出しに手を掛けた。


 その時だった。


 玄関で物音がした。咄嗟に玄関を見る。起こるはずのないことが起こった。硬質な音と共に、ドアノブのサムターンが回転したのだ。つまり、誰かがこの部屋の鍵を解錠したのだ。


 そして、すぐに勢い良く玄関の扉が開かれた。




 

 僕の目の前を、ピンク色の靴下に包まれた細い足が、部屋の中を行ったり来たりしている。


 僕は、それを見ながら、床に頬を付けて、息を殺していた。


 玄関の扉が開かれる瞬間、反射的に靴を手に取り、ベッドの下へ潜り込むことに成功した。幸いなことに、ベッドの下には何も置かれていないことを事前に確認していたので、咄嗟に行動に移す事が可能だった。


 ただ、ベッドの下は、さすがに手入れが行き届いておらず、埃が堆積し、思わず閉口してしまう。しかし、我慢しなければならない。ここで、下手を打てば、全てが露呈する。そうなれば終わりだ。


 僕は、靴を抱いたまま、目の前で動いている足の持ち主のことを考えた。


 これは千尋に間違いないが、こうして入ってきたということは、まだ侵入は悟られていないことの証でもあった。出来うる限り、侵入した痕跡は残さないように心掛けていたので、この後も、即、気が付かれる恐れは少ないはずだ。


 ベッドの下を覗かれない限りは。


 僕の心臓は、緊張で大きく高鳴っている。その心音が接している床へと伝わり、殊更大きな音に聞こえる。ベッドの外にまで、響いているのではと勘ぐるほどだ。


 乾いた口の中で、何とか唾を飲み込む。それですら、千尋に聞こえたのではないのかと思い、ヒヤリとした。


 千尋は相変わらず、忙しなく動き回っている。何か準備でもしているようだ。


 しかし、なぜこの時間に帰ってきたのだろうか。


 僕は先ほどから抱いていた疑問を、心の中で呈した。


 今日の千尋は、夕方まで講義があるはずだ。それは間違いなかった。千尋の時間割は完全に把握している。確実に、この時間帯に部屋に戻ってくることはなかったはずだ。


 何か大学側の都合で、休講にでもなったのか。それとも、具合でも悪くなったのか。しかし、千尋の様子を見る限り、そのどちらでもないような気がする。つまり、千尋は目的があって、意図的に講義を欠席したのだ。


 僕は千尋の姿を確かめたくなった。何かしらの準備を行っているようだが、それを知りたくなった。


 そっとベッドから外を覗き、確認しよう。


 僕は、意を決して、ベッドの下から、少しだけ顔を出そうとする。


 その瞬間、部屋中に軽快なメロディーが響き渡った。今流行の男性アイドルグループの音楽だ。


 それが、スマートフォンの着信音だと気が付くのに、少しだけ時間を要した。


 唐突にその音楽が止み、千尋が応答する声が聞こえてきた。


 僕は顔を出すのを止め、息を飲んで、千尋の声に耳を傾ける。


 千尋は、明朗快活に電話の相手とやり取りをしていた。内容は断片的で、いまいち把握が難しかったが、誰かと遊びに行く予定でも立てているような印象を受けた。


 しかし、と思う。千尋は、普段も明るく他者と接しているが、こんなに楽しそうな声を出している千尋の声を聞くのは、初めてかもしれない。


 電話の相手は、アズミや、普段千尋と仲が良い学生達ではないように思える。千尋の声の質が明らかに違うからだ。


 僕は、千尋の電話の相手に強い嫉妬を覚えた。千尋に、これほど楽しそうな声を発せさせるとは。


 やがて、千尋は電話でお喋りをしたまま、部屋を出て行った。玄関が閉じられ、鍵を回す金属音が響く。


 再び、部屋の中に、冷たい静寂が訪れた。


 僕は小さく息を吐いた。結局、千尋の姿は拝めず、なぜこの時間に部屋に戻ってきたのかも、電話の相手が誰なのかもわからないままだった。だが、とりあえず、危機は脱した。


 僕は、それでも用心を重ね、しばらくベッドの下へ留まった。再び、千尋が戻ってくる可能性があったからだ。空き巣の被害において、家主との鉢合わせのパターンが一番多いと聞く。


 僕は、数分間、猫のように、ベッド下に潜み続けた。


 そして、期を計らい、ベッドの下から這い出る。


 立ち上がり、体を見下ろすと、服は埃まみれだった。


 僕は舌打ちしつつ、ポケットの中のハンカチで、埃を拭う。そして、ベッド周辺の床に付けてしまった汚れも同時に取り去った。これらは、僕が侵入した痕跡になってしまう。


 証拠隠滅を終えた僕は、やり残したことに再び着手しようとした。すなわち、千尋の鍵付きの引き出しを開けること。


 僕は、解錠していた例の引き出しに手を掛けた。


 だが、開かなかった。机は再び、施錠されていたのだ。

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