エピローグ 報告書

 「とにかくひどい臭いだったんです」


 「最初は生ゴミでも溜めているんじゃないかと思ってて」


 「ずっと窓を閉め切っていたから、変だと思ったんです」


 「大学で、ずっと独り言を言ってましたね。皆、物珍しそうに見てました」


 「ずっと独り言を言っていたから、気になって、聞き耳を立てたら、まるで恋人同士の会話みたいでしたよ」



 

 東長崎警察署に努める魚谷幸樹うおや こうきは、警察署の裏手にある喫煙所で、タバコを吸っていた。茶色いレンガの装飾を施された建物を見上げ、大きく欠伸をする。


 昨夜から聴取が難航していた。被疑者である少女の供述が、極めて曖昧なのだ。


 いや、曖昧というよりも、もはや人間の言葉としての体を成していない。


 魚谷は、スタンド式の灰皿で、煙草をにじり消し、署内へと戻った。


 肩のコリをほぐすように、首を回しながら自分のデスクへ向かう。


 机の上には、同僚の手によって印字された報告書が載っていた。


 魚谷は、それを手に取り、目を通す。


 被疑者は、この近辺にある桑附大学に在籍中の少女だ。今年度入学した十八才の大学一年生である。


 大学生と記されてあるが、昨夜、魚谷自身が取調べを行った際、見た容姿からは、到底そうは映らなかった。せいぜい、高校一年生程度だ。


 それは、少女の華奢な体と、低い身長のせいでそう見えるのだろう。


 魚谷は、デスクの古びた椅子の上で、身動ぎした。古い椅子なので、、動く度に、油を差していない機械のような、不快な音が鳴る。


 しかし、その華奢な少女が、今現在、殺人と放火の罪で取調べを受けていた。


 事の経緯はこうだった。


 少女の住むアパートの住人から、通報があった。少女の部屋から異臭がするという内容だった。


 現場に到着した警察官は、すぐさま、その異臭に気が付いた。少女の部屋の前に行かなくとも、アパート周辺に、生ゴミのような腐敗臭が漂っていたのだ。


 警察官は、少女の部屋の前までやってきた。そして、チャイムを鳴らしても応答がなかったため、大家から預かったマスターキーで、少女の部屋を開けることにした。本来は礼状が必要だったが、疑いようがないほどの異臭である。部屋主を保護する目的での、緊急措置という名目だった。


 少女の部屋を見た警察官は、度肝を抜かれた。暗がりの中、少女は全裸で、腐敗した死体と抱き合っていたのだ。


 警察官は、その場で少女を保護した。少女は病院に搬送され、その後すぐに、本部に連絡が走った。そして、少女の部屋にあった死体の調査が行われた。


 驚くべきことに、死体の表面には、少女のものと思しき唾液や、愛液が付着していた。表面だけではなく、半ば溶解した口腔内や、膣口からも検出されている。


 そこから導き出された答えは、一つだ。


 のだ。正しくは『性交』ではなく『死姦』だが。


 病院にいた少女の口腔や膣口も調べられ、そこで、死体の細胞と一致する体液が検出された。そのため、少女が死体との性的行為に及んでいたのは、確実のものとなった。しかも、少女は、その死体の体液を相当量、摂取したようなのだ。


 つまり、少女は死体に何度も口づけや愛撫を行い、その度に、体液を取り込んでいたようである。おまけに、司法解剖の結果、膣口まで開き、そこから流れ出る腐敗した体液すらも、嘔吐することなく、飲み干していたことがわかった。


 魚谷は、少女の部屋に赴いた際の、耐え難い悪臭を思い出していた。


 すでに死体は運び出されていたものの、その残り香は凄まじいものだった。部屋に近付くだけで、鼻を手で覆わなければ呼吸すらままらないほどの腐敗臭であった。


 夏場の生ゴミに、腐った魚や、動物の内臓を放り込み、沸騰させたような臭いだ。


 その原因は、この熱さと、始まった梅雨の湿気のせいだ。それで、死体は急激に腐敗を始め、臭いが広がったのだ。


 その発生源となる死体と、少女は体を重ね、本物の恋人のように、キスと愛撫と繰り返したのだ。


 想像するだけで、胸が悪くなる。


 魚谷は、報告書を次々に読んでいく。


 死体との性交により、少女は死体損壊の容疑で緊急逮捕された。未成年だったが、極めて、甚大な余罪が秘められているとの判断だった。


 少女の近辺が徹底調査された。大学の学生から、親、近隣の住人に至る、大勢の人間の聞き込みから始まり、少女の部屋の捜査、スマートフォンの通話や通信履歴まで、ありとあらゆるものが、徹底的に調べ上げられた。


 それにより、判明した事実は、あまりにも異常で奇妙なものだった。


 少女はまず始めに入学式で、後に被害者Aとなる官越千尋と出会う。そこで少女は同性ながら被害者Aに一方的な好意を抱き、ストーカー行為へと走る。


 それがエスカレートし、耐え切れなくなった被害者Aは、直談判するために、少女を夜の公園へと呼び出した。


 そして、そこで被害者Aは少女に刺殺される。


 ここまでだったら、よくある痴情の縺れによる殺人だ。だが、他に類を見ないことがこのあと起こる。


 被害者Aを刺殺した少女は、被害者Aの死体を担いで、自分の部屋まで戻ったのだ、あの近辺は、夜になると人通りが極端に少なくなる。そのため、目撃者はいないという話だ。


 だが、それは少女の幸運によるものが大きいという見解だった。いくら人通りが少なくても、住宅街の中、死体を担いで歩く人間が、目撃されないわけがない。おそらく、奇跡のような、それこそ女神にでも愛されているような幸運が、少女に訪れたのだ。


 そのお陰で、少女は無事、被害者Aの死体を自室へと運び入れることに成功する。


 そして、その時から少女と被害者Aとの、奇妙な共同生活が開始された。


 が、それでも不可解な点があった。


 始めの内は、少女は被害者Aを認識していなかったようなのだ。当初から『愛し合って』いたわけではない。


 事が進むことにより、少女は次第に、被害者Aを認識し始めたということだった。しかも生きている状態として。


 報告書を何度も読んでも、まだ理解が追いつかなかった。もうこの辺りは、精神科医の見解待ちだ。


 被害者Aとの同居が開始されたのと同時期に、少女は同大学に通う同級生、小山田幸二に接触を試みる。


 理由は罪を着せるためだ。それも、自身の殺人ではなく、ストーカーの罪の方でだった。


 その手口はそれなりに巧妙で、小山田は逮捕されている。被害者Aは、行方不明であるために、捜索願いが出されていた。それに引っ掛かったのだ。


 当時、逮捕した警察官の脳内の図式には、小山田がストーカーを行い、その後、被害者Aの失踪に関与した、という流れができていた。


 それは一見、少女の目論見通りのように思えたが、正確には違っていた。あくまで少女は、ストーカー犯として、小山田をはめたのだ。


 おそらく、少女は根本的に、被害者Aが失踪していることに気が付いていない可能性があった。


 これも理解不能だった。


 ちなみに小山田は証拠不十分で不起訴、釈放されている。そして、この件があり、逮捕は完全に誤りだったと、警察署から謝罪があった。


 そして、小山田逮捕の辺りから、少女の『独り言』が多くなる。大学構内でも、一人なのに、頻繁に誰かと会話をしているような姿が目撃されていた。


 そのような中、第二の殺人事件が起きる。


 被害者Bは、これも他被害者と同じく、同大学の同級生である島野梓である。


 被害者Bは、少女が一連の犯人であるとの証拠を掴み、少女へ接触を試みた。自首を勧め、その猶予期間中に、被害者Bは殺害されている。


 その時の殺害方法は、テルミット反応を利用した遠隔による放火だった。


 これで被害者Bの殺害は成功したが、火災鑑識による現場分析により、他殺との見方が強かった。やがて、いくつもの証拠も見付かっている。


 被害者Bの殺害後、ようやく少女は、被害者Aの死体との性交を試みたようだ。その時には、すでに凄まじい腐敗が進んでいるはずなのだが、少女は構わず行っている。


 魚谷は、報告書をデスクの上へ放り投げ、自身の目頭を揉んだ。あまりにも理解不能な内容ばかりで、頭痛がひどい。


 しかし、これから、いくつか判明していくはずだ。それまで待つしかない。


 そう言えば、と魚谷は思い出した。逮捕されてから、少女はうわ言のように同じ言葉をしきりに呟いていた。


 そのフレーズは、確かこうだった。

 

 『僕を裏切ったら必ずあなたを刺し殺します』

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