卒業
卒業式が終わり、生徒たちは三年間過ごした教室を名残惜しげに後にした。
真一郎は最後の一人になるまで、教室で本を読んでいた。学校一の秀才だが深く人と関わらなかった彼に、いっしょに帰ろうと誘う者はいなかった。
莉花は友人に囲まれて、やれ記念の色紙やら、やれ記念の写真やらと引っ張りだことなっていた。愛想の良い彼女は、それらを適当につきあい、適当にかわし、さっさと逃げてしまった。
真一郎が話しかける隙もない。
もう少し、なにかあってもいいと思うんだけど。
教室を出るときに目配せなり何なり。あっさりとした彼女の後ろ姿を思い出しながら、真一郎はようやく重い腰をあげた。
まあ、僕に声をかけて帰る必要なんてないか。
読み終わった哲学書を図書室に返却すると、昇降口へと向かう。
凍りつくような廊下だった。
薄い上履きから冷気が這い上がり、真一郎は首をすくめて歩く。しかし、これでこの学校に来るのも最後だと思うと、妙に、ゆっくりと歩いてしまう。
四月から、真一郎は都内の法学部に進む。国家公務員試験をパスし、キャリア組の警察官となって、妹の死の真相を追うつもりだった。
……卒業か。子供からの卒業なんだろうな、きっと。
ずいぶん長いこと、親に縛られていた。真一郎も、莉花も。
親の感情に振り回されて、自分を見失いそうになりながら、綱渡りのように生きてきた。
死の誘惑を振り払いながら、一人で生きてきたけれど、これからは、自分の意思で自分の道を歩もう。
真一郎は、なんとなく感傷に浸りながら下駄箱で靴を履きかえる。そこへ不満げな声が響いた。
「おそーい!」
「……す、すみませんっ」
視線をあげると、玄関の傘立てに小柄な少女が座っていた。
大きな瞳、薔薇色の頬。
唇を尖らせて、莉花はふくれっ面をしていた。
「その、ここで待っていたんですか? 今日は、十五時に駅前で待ち合わせというお約束だったかと記憶しているのですが……」
「えー、なにか問題ある~?」
「……いえ」
いささか、ご機嫌がよろしくないようだった。
引き下がった真一郎の前で、莉花はふっと遠くを見た。
「思いのほか、母との面会が早く終わったの」
莉花は今朝、倉科刑事立ち会いのもと、母親と会ってくると言っていた。別れの挨拶ということだった。
真一郎は、莉花が両手にもった大きな荷物に視線をやる。
「莉花さんも、この街を去るんですね」
莉花の荷物を一つ持とうとすると、彼女は無言のまま従う。
「お母様は、なにか仰ってましたか?」
「……っ。いろいろ。三日に一度は電話しなさい。ご飯は三食ちゃんと食べなさい。怪我したり、無理をするな、と」
莉花は苛立たしげに舌打ちをする。以前の彼女が決して見せなかった、感情的な態度。
「ねえ! 都内で一人暮らしするって、そんなに心配するもの? 私、あの人より、料理も掃除もできるんで・す・け・ど~!!」
「………………」
莉花さんは向こう見ずなところがあるから、お母さんが心配するのも少しわかる気がする。
恐ろしいので、真一郎は愛想笑いを返した。まあまあ、と曖昧に言葉を濁していると、莉花はどこか寂しげに微笑んでいた。
「……卒業、ですね」
「うん……卒業だね」
笑みを口元に宿し、二人は歩き出す。
「真一郎くんは、警察官僚。私は、空手で世界一でも目指そうかな~」
「それはいい! ぜひ、そうしてください」
二人は学校を後にする。
卒業だ。
子供である最後の日だ。
「莉花さん、手を繋ぎませんか?」
「えー! やだー」
拒絶されたけれど、莉花は嬉しそうに笑うから。
真一郎は無理やり、さっきまで荷物でふさがっていた少女の手を握る。
ゆっくりと握り返されて、その温もりに涙がこぼれそうになった。
寒々しい灰色の空を仰いで、高らかに宣言する。
「二人一緒に、それぞれの道を歩いていきましょう」
エピローグ
この世は闇だ。
ある日突然、幸せはシャボン玉のように弾け、想像もできない出来事が襲い掛かる。
僕はこれから、どう生きていけばいいのだろう。
……生きていかなければならないのだろうか。
『ユキちゃん、どこー!』
びくりと、少年は体を小さく小さく縮める。涙を拭った。
『いたー!! そんな隅っこにいないで、いっしょに遊ぼうよ!』
無遠慮に、少女はコテージの中に入って、近づいてくる。
『……外に出るのが、恐いんだ』
『どうして? お外は晴れてて、気持ちがいいよ?』
彼女は何もわかっていない。この世界は悲しみで満ちているのに。
しかし抵抗むなしく、少年はコテージから無理やりに引っ張り出される。
日差しが眩しい。
しかしすぐそばには、満面の笑顔がある。
『大丈夫だよっ、私がいるから! いっしょなら、大丈夫!!』
手を握りしめられて、少年もようやく笑った。
『……ありがとう』
『うん!』
きらきらと。
優しい陽光が、雪の粒を反射させている。
世界はこんなにも明るく、美しかった。
了
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