落ちていくのはどこの誰?

 ゴンドラを降りると、冷たい風が二人の体を揺さぶった。

 莉花の瞳には、いくつものコテージが映った。しかし真一郎はそちらではなく、人工物が何もないほうへと歩いて行く。

「すみません、足元が濡れてしまいますね」

「ううん、大丈夫。それより懐かしいなぁ。ここで一緒に、遊んだよね?」

「ええ……」

 とっぷりと、世界は暗くなっていた。

 ゴンドラ乗り場の明かりも届かない薄暗い中を、二人は歩く。

 ひゅーひゅーと。ひゅーひゅーと。

 絶え間なく続く風の音に、鼓膜が支配されていく。それは死者の囁きのように聞こえた。

「僕が最後にここに訪れたのは、妹の葬儀が終わった後でした……父が、ここに妹を残してきたと言うので、僕は黙ってついていきました」

真一郎は一本の痩せた木の元で立ち止まった。

「母は一人で葬儀の片付けや、警察、報道の対応をしていたので、二人で出かけることは知らせませんでした。僕は……父に現実を受け入れてもらうために話す必要があった。妹が死んでしまったこと。妹を連れ去った人間を、この手で捕まえることを」

「うん……」

 あの、八年前の夜。

 妹の代わりを求めることの無意味さを、真一郎は切々と説いたのだった。

「でもね、父は納得しなかった。心が受け入れられなかった……とても、弱い人だったから」

「…………」

「僕を罵って罵って、怒鳴り散らして! その場に崩れて泣き続けて。そして言うんですよ……『真くん、ハーメルンの笛の音が聞こえるよ? あっちのほうから』って」

 真一郎は闇のほうを指差した。

 莉花は首を伸ばしてその先を見ようとするが、樹木もなにもない暗がりだった。

 そちらに歩き出そうとすると、真一郎に強く手を掴まれ、引き留められる。

「その先は崖です。深い深い、谷底です。父はそちらへ走っていき、消えました……あれじゃあ、どう見ても助からない」

 莉花は息を呑んで、唇を震わせた。

「……お父さんが、落ちていくのを見た、の?」

「……ええ」

「どうしてそんなに冷静に話せるの?」

 責めるような口調に、真一郎は薄ら笑った。

 あの日、幼い真一郎は深い谷底に向かって、父を呼び続けた。冷たい雪の上に這いつくばって、全てを呑み込むように暗い、絶望的なまでに暗い闇に手を伸ばし続けた。

 自分も闇に吸い込まれてしまいそうだと思った、あのとき。

 脳裏をよぎったのは父の絵本だった。


 落ちていく、落ちていく。

 落ちていくのはどこの誰?

 哀れな男、笛吹男。

 ハーメルンの笛吹男が落ちていく。

 己の罪をすすぐため。

 先に逝った子に寄り添うため。

 お人形の躯は雪に埋もれ、ハーメルンは消えた。


 自分も消えてしまえばいい、とあのとき真一郎は思った。

 むしろ、死は救いだった。

 妹との約束を破り、死なせてしまった罪。父を止めず、犯罪を許してしまった罪。警察の捜査を混乱させた罪。母になにも告げず、自ら父を説得しようとし、父を死なせてしまった罪。

 ……重い十字架で、十歳の少年は潰れてしまいそうだった。

 その、死の境目で踏みとどまれたのは……

「……真一郎くん?」

 莉花の声に、はっとする。真一郎はゆったりと首を振って呟く。

「莉花さんとの約束があったから、かもしれませんね」

「……何の話?」

「世迷いごとです。話を戻しましょう……父が亡くなったことは、母には話せませんでした。とても話せない。僕は一人何食わぬ顔で家に戻り、妹の葬儀の後、父は失踪したと処理されました。そして、現在に至ると言うわけですが……」

 小柄な少女を、真一郎は縋るように見下ろした。

「あなたは、僕をどうしたいですか?」

「どうって?」

「告発しますか? でも、僕の罪は、情状酌量で裁かれることはないでしょう。僕は妹との約束を破り、父の愚行を許し、あまつさえ誘拐に手を貸した。妹が死んだと分かった段階でも、小賢しいことに母に全てを打ち明けず、父を説得しようとし、死なせてしまった。それだけのことをしたというのにね?」

 僕は司法で裁かれることはないのです。

 語りが途絶え、再び風の音が耳に入る。

 ひゅーひゅーと。ひゅーひゅーと。

 莉花は人形のような目をした少年に腹が立ってきた。力いっぱい掴む。

「ねえ! 今の話って、真一郎くんは悪くないじゃない!? すべてすべて! みんな勝手に、好き勝手しただけじゃないっ。すべて、妹さんを連れ去った犯人が悪いんだよっ!」

「……いいえ? 妹の死因は不明です。妹は自らの意志で出て行ったのかもしれないのです。僕たちが声をかけた少女たちが、自らついてきたように」

 真一郎は星も瞬かない天を仰いだ。

 ああ、真っ暗だ。この世は、闇だ。

「……なにも、なにも分からないんですよ……でも、もし……」

 もしも、妹を無理やりにさらった人間がいたとしたら? のうのうと、今も生きているとしたら?

 父のように、むざむざと死ぬわけにはいかなかった。

 真一郎は全ての罪を背負い、全てを秘した。いるか分からぬ妹を連れ去った犯人を、この手で捕まえることを心に誓った。それだけを目的に、光が差さない世界を生きてきたのに。


「それなのに、僕は莉花さんに再び出会ってしまった……」


 ぼつりと、呟く。

「僕はあなたと再会したとき、運命は、本当にあるのだと、神に感謝しました」

 無感動に生きてきた真一郎にとって、莉花は希望だった。

「あの日、流されるまま罪を重ねていた僕に、莉花さんは立ち向かう勇気をくれた。司法でさえ、僕を裁くことはできないけれど、あなただけは、莉花さんだけは、僕を断罪できるように思いました」

「……私は、真一郎くんを裁かないよ」

「それでいい」

「……え?」

 彼にとっては、断罪を望むことすらも罪だった。罰せられないことこそが償いだと、真一郎は心に決めていた。

 だから、彼女にも胸の内を明かすことはなかったのである。

「あと少しで……逃げ切れたのになぁ」

 真一郎は俯いて、自分の手の平を見つめた。

 びゅーびゅーと。びゅーびゅーと。

 強くなった風の音が、耳朶を揺さぶっている。

「莉花さん。父がハーメルンの笛吹き男なら、僕はハーメルンの笛のようです。なにもできないくせに、ただただ災厄を広げてしまった愚か者。僕は一人で罪を背負い、生きていこうと思っています」

 全てを告げ終わり一息つく。次の瞬間、絹を裂くような悲鳴が聞こえた。

『見捨てたなぁ、真一郎。妹を殺し、僕までも僕までも!』

 それは父の声だった。心臓が凍り付き、その場に崩れ落ちそうになるのを、真一郎は踏みとどまった。

 幻聴だ! 落ち着けっ……あの声は、僕の弱い心が生んだ幻聴だ。

『人殺しめ! お前が全ての元凶だと知ったら、母さんはどうするんだろうなぁぁ。罪を背負って生きてきただと? ははははは、なんて都合のいい言い訳をっ。お前はあのとき死ねばよかったんだ。なぜ死なないなぜ死なななな』

「うるさい!」

 虚空に怒鳴る。

 風がびゅーびゅーと、びゅーびゅーと唸っている。

「うるさいうるさいうるさい! 僕は生きるっ。どんなに苦しくても、たった一人で、この重い重い十字架を背負ってっ」

『はははは、お前は潰れてしまうよ。だって、お前は僕の子だ。弱くてどうしようもない出来損ないがっ。苦しみの中で足掻いて何になる? 犯人を捕まえるなんて、そんなことができるわけもないだろう? お前は一人惨めに死ぬしかないんだ。死ね死ね死ね!』 

 ああ……つらい苦しい。

「黙れ! 一人さっさと死んだお前と一緒にするな! 僕は誰にも許されないまま、妹を連れ去った犯人を血祭りにするっ。そのためにこれからの人生の全てをかけていくんだ! そして、僕は!」

 もう嫌だ。誰か誰か、僕を……

 誰か、僕を……!

「僕は! 犯人を殺してから、ちゃんと死んでやるよ!」

「そんなのやめて!!」

 頬を叩かれて、真一郎は我に返る。間近に、涙ぐんだ少女の必死な顔があった。

「死ぬなんて言うのやめてよっ!」

「莉花さん、どうして……」

 真一郎は呆気にとられる。雪の上に座り込んだ彼の頬に、暖かな涙がはたはたと落ちてくるから。

 莉花さんが泣いている。あの、強い莉花さんが。ど、どうして?

「私は! あのときのことがあったから、生きてこられたのっ! 真一郎くんがいたから、『自分』になれたんだよ!!」

「一体、なにを……」

 次の瞬間、がむしゃらに抱きしめられる。暖かい。けれど、真一郎には少女の言っていることも、行動の意味も、なにも分からなかった。

「……莉花、さん?」

「いっしょに生きていこうよ」

 それは、希望。

 それこそが、希望。

 絶望の底で一人罪を背負って生きてきた真一郎が、想像すらしなかった言葉。だからこそ、その意味が分からない。

「これからは、私も背負うから」

「……本当に、言っていることが分からない」

「真一郎くんは、これからは私といっしょに生きていくの!」

「……なんでっ、なんで、僕のことなんか」

 分からない。分からない。

 分からない、と。

 困惑で瞳を揺らす真一郎の前で、少女は色鮮やかに笑った。

「私は、杉崎真一郎くんが好きです」

「っ……!」

 大きな瞳から、また涙がぽろぽろと零れ出す。

「私は、一人で背負いこんで、戦ってきたあなたのことが、大好きです……」

 柔らかく、優しい眼差しで。

 莉花は真一郎の頬に触れる。

「なにを……」

 小さな両手の平が、ゆっくりと、真一郎にぬくもりを伝える。

 一瞬、ふわりと。

 唇が触れた。

 ……涙の、味がした。

「ああ……私は泣いているんだ。人形だった私が、誰かのために泣くことができたんだぁ」

 嬉しそうに少女は笑み崩れる。真一郎はただひたすら、少女の微笑みを見つめていた。

 見ていると、心の内の闇が薄らいでいくようだった。

「真一郎くん」

「……は、い」

 莉花は真一郎から離れると、小首を傾げた。

 以前から時折見せる、女の子らしい仕草。でも、何かが明らかに違っていた。

「私も昔話をする、ね。長くなってしまうけれど……その、聞いてくれる?」

 頭がうまく動かない。

 真一郎は、しばらくしてから小さくうなずいた。

「なにから、話そうかなぁ。ああ、私はココアが好きなんだけど、その理由はね」

 少女は少年に向かって、ゆるやかに話し出す。

 八年前の、あの日のことを。


 そして……

 その話が終わったとき、二人はそれぞれの道を歩むこととなるのである。


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