第8話

 漫然と改札の向こうに目を向けていると、王くんの姿が見えた。人込みのなかにいる自分に気づいてもらおうと、手を振ってアピールをすると、王くんも手を振り返してくれた。今度は南口の方へと王くんと横並びになって歩いていった。


 王くんは、明日には下宿を引き払い、四日後には帰国するとのことだった。そのため、都合のつく日が今日しかなかったのだ。新鮮な魚料理を売りにしているという居酒屋さんの前で、帰国後の予定について聴いていると、スーツ姿の仁科にしな先生がこちらに向かってくるのが見えた。


 わたしたちは、卒業式以来の久闊きゅうかつじょすと、店内に入った。道路側のテーブルに案内されて、烏龍茶とワインのグラスで乾杯をした。


 仁科先生は、王くんの修士論文の指導教員であり、わたしの研究指導も引き受けてくれていた。研究科のなかで一番面倒見のいい先生で、忙しい中でも、院生の相談に乗ってくれる方だった。


 風が凪いで蒸し暑くなりはじめた店内は、輝かしい人工のライトで隅々まで照らされており、グラスのなかの氷にまで喧騒を与えていた。


 場の話題は、次第に、わたしたちのいままでの研究のことに移っていった。王くんとわたしは、一緒に授業を受けていたということもあり、お互いの研究について知悉ちしつしていた。しかし、修士論文はまだ読めずにいた。今年度の研究科の紀要に一部掲載されるとのことだったが、来年の三月刊行の紀要がわたしの手に渡ることはないかもしれない。


「荻山さんは、なんというかな……残念なことになってしまったけど、勉強は続けてほしいと思うんだ。大変かもしれないけれど」

「その気持ちはあるのですが……」

「気持ちがあるのなら、を止めないでほしい。今回は途中で終わってしまったけど、荻山さんのような研究は、いまこそ必要とされているというか、ほんとうにおもしろいと思う。十二月の研究報告会で、まったくと言っていいほど理解されてなかったけど、それは、荻山さんだけの問題ではないと思った。自分たち教員の方にも、学生の研究を一つの方向に縛ろうとする力が働いている気がする」


 仁科先生は、上品に赤ワインを飲みながらこのようなことを言ってくれた。わたしの研究に理解を示し、根気強く指導してくれたのは、先生だけだった。


 毎回のように同じ質問が飛んできて、どれだけ説明をしても暖簾に腕押しで、意味がない、そんなものは研究ではないと言われても、わたしが「自分のスタイル」を貫くことができたのは、先生のおかげだった。


     *     *     *


 わたしと王くんは、夜十時前に最寄りの駅に着いて、ほとんど無言のまま横並びで歩いた。今日で王くんと別れてしまうのだという事実が、いまになって感傷をともないながら胸を痛めつけてきた。


 無言のまま遠回りをし、のんびりと歩いた。しかし、別れのときは訪れる。

 王くんが差し出した右手を、わたしは握った。雨曇りの夜は、ついに雨足を走らせはじめた。交差点を走り抜けていく車のヘッドライトが、わたしたちを暗くさせたり明るくさせたりしている。

 どちらが先に、背を向ければいいのだろうか?

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