永い夜になる前に

紫鳥コウ

第1話

 畳がみしりと音を立てた。薬が一錠落ちた。弧を描いていきふすまの手前で倒れた。それを拾い上げて蛍光灯にかしてみる。表を裏にし、裏を表にする。月蝕のようだった。すっかりぬるくなった白湯さゆで、冷えた胃の中へと流し込んだ。


 体重をすべて預けるには心もとない椅子に座り、いままで書いたところをざっと見返してみる。下宿の窓から見える大学寮の光景から始まり、大学時代に知り合った友人との想い出で終わる。いまや、遠い過去のことのように思える。しかしその遠くにあるものを近くに手繰たぐり寄せる作業を、いまのわたしは必要としている。


 障子を開けてみる。夜更けの中ではなにも見えない。家の裏の畑とその向こうの竹林は、そこにはない。障子を閉めると、エアコンが温かい風を吐き出しはじめた。水を一口飲んだ。しばらくして、突然襲ってきた猛烈な不安感が、退いていくのを感じだした。頓服が効いてきたのだ。


 平生なら――昨年なら、このまま眠ってしまっていた。無論、その方が健康的だし理想的な生活習慣に違いない。が、この私小説を書ききるまでは、多少の無理をしなくてはならない。この、わたしが小説を書き始めたきっかけを描いた私小説を書き上げ、その出来に満足を覚えることが、わたしの人生の新しいスタートの合図となる。


 大学のときに知り合った友人がシナリオライターとして活躍している一方で、わたしは修士論文の執筆をしながら、将来に不安を感じてばかりの生活を送っている。そうした日々の中、あるイラストレーターの方の――勝手に「師匠」として敬愛している先生の――作品に心を打たれて、創作を通して誰かに温かい気持ちを届けたいと思うようになる、という筋書きの私小説。


 研究と創作の両立は難しく、あれだけ愛した創作を封印した。それでも、小説を書くことを止められなかった。そしていま、小説を書くことに一生を捧げるときがきている。


 副作用による眠気を押しのけて、きりの良いところまで書き終えてしまうと、障子の向こうに外を感じた。半分ほど開けてみると、明けきらない暗がりのなかに、雪をかぶった隣の家の瓦が見えた。畑一面が雪で覆われていることも分かった。自分の人生が一段落したのだということを実感させるに足りる光景だった。いままで元日は、すっかり明るくなった朝から始まるのが常だったから。


 手帳を開いて、コンテストの締切りを確認した。そして、それぞれに応募する小説の案を練り直した。この私小説もコンテストに応募するためのものだ。しかしそれ以上に、わたしの物書きとしての人生の再出発のための一作だ。書きたいことはたくさんある。それでも、文字数の関係上、すべてを小説のなかに落とし込むわけにはいかない。


 コーヒーを飲みたくなった。ふすまを開けると、一気に冷気が押し寄せてきた。静かな朝。窓の向こうでは、うす曇りのなかを雪がちらちらと舞っている。白い息が寂しい。しばらく立ち止まっていると、静謐せいひつの中、リクの吠える声が遠くから聞こえてきた。

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