第2話

 通話アプリを開いて年始の挨拶を返した。小学校時代からの友人で作ったグループ。最初にメッセージを書いていたのは押井だった。押井渉おしいわたるは、地元の葬儀社に勤めており、わたしたちのなかで一番のリアリストで真面目な性格の持ち主だった。身内にも容赦のない彼の辛辣しんらつな批評を、わたしは愛していた。わたしが現実的な感覚を完全に失わずにいられるのは、彼のおかげだった。


 芦山日向あしやまひなた及川裕おいかわゆう西宮弘樹にしみやひろき――他の三人も、わたしの後に続いた。この友人たちとは、昨年末のオンライン飲み会で話をしたばかりだったが、今年もまた、長年の付き合い特有のくだらない話を夜遅くまでしたいと思った。このまま、くすぶってはいられない。


     *     *     *


 目を覚ますとまだ夜更けだった。もう一度眼をつむる前に、自分の使命を思い出し、ふらふらとした足取りで机に向かい、私小説のファイルを開いた。温かい風はどんどん部屋の中を満たしていく。文章は止まることなく書き連ねられていく。遅筆ながらにつまづくことはない。焚火を絶やさないように吹きこむ息はまだある。


 きりの良いところまで書き進めて、その先へと分け入ろうとしていたときに、市井颯太いちいそうたから年始の挨拶がきた。シナリオライターとしてどんどん活躍をしている颯太から、こうしてメッセージが届くのは半年ぶりくらいだった。わたしのことをまだ覚えていたのかという驚きがあった。


 一日遅れの返信だったが、自分がまだ、彼に忘れられていない存在だったということが、どこか嬉しく思えた。と同時に、わたしたちの間にできた差のようなものを実感しないわけにはいかなかった。もうわたしの手の届かないところにいる。わたしが立ち止まっているときに、彼は前へと進み続けていた。


 しかし、そこで開いた差が、いまのわたしにとって良い刺激となり希望となっていた。努力は報われないというニヒリスティックな言説の、大きな反証となっているからだ。もちろん、必ず報われるわけではないだろう。でも、努力をすれば、夢は叶うに違いない。だからわたしは、腹をくくって新しいスタートを切ろうとしているのだ。


 クライマックスは、もちろん、わたしの人生の最大の「出会い」のシーンだ。SNSを閲覧していたとき、偶然クリックしたハッシュタグの先で出会った、先生の一枚のイラスト。文章で形容できないほどの美しさだった。胸騒ぎがおさまらなかった。涙がこみあげてきた。


 わたしも、自分のつくった作品で、誰かを温かい気持ちにさせることができたら――わたしが筆を執る理由は、それひとつだった。


 このシーンを書くにあたって注意しなければならないのは、先生が特定されない範囲で自分の受けた感動を描くということだ。私小説はエッセイとは違い、小説と名がついている以上、ある程度はフィクションである。登場する人物の諸権利を侵害しないように、うまくごまかさなければならない。


 何度も書き直した。出来得る限り、あのときの自分の感動を文章にしたい。その一心で、記憶のなかからいまも消えない感情をひとつずつ拾い出していった。語彙力は低く、比喩も巧くなく、表現もつたない。


 それでも、いまの自分のできるかぎりの力を、このシーンのために出し切ろうとした。あの頃のことを思い出すと、いまでも泣きそうになってしまう。将来に不安を覚えて何もできずにいたところに、進むべき道が見つかったのだから。


 ひらひらと雪が降っている。瓦に逢着ほうちゃくすると、一滴の雫となって形を失ってしまう。それでも、瓦をめがけて雪が落ちてくる。曇り空が、元日からずっと続いている。


 冷たく寂しい静けさのなか、リクがわたしを呼んだ。早朝らしい足の運びで階段を下りていく。リクはわたしを見つけると、「わん」と小さく吠えた。もう一度、毛布をしっかりとかけてあげた。フリースを着忘れてきたせいで、身体はみるみるうちにてついていった。でも、そのままリクのそばにいた。しばらく経つと、静謐せいひつの中からリクの寝息が聞こえてきた。

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