第3話

 完成した私小説を投稿した。まったくと言っていいほど知られていない存在だし、SNSをしていないがゆえにアピールをすることもできない――そんな状況でも、読んでもらえた。一月の中旬。わたしの人生は次の段階へと入った。


 しかし、寂しさを覚えるのも確かだった。後悔がないといえばウソになる。まだ、したいことはあった。しなければならない「仕事」があった。でも、あの夢は潰えてしまった。


     *     *     *


 ざわめき立つバスの車内。この中の卒業生たちとは違い、わたしはスーツを着ていなかった。えりの付いた服にさえすれば、わたしの立場上、問題はないことだろう。


 冴木さえきは新しく仕立てたスーツで、わたしの前に現れた。そのしっかりとした服装には、敬服するしかなかった。わたしは、「おめでとう」と素直に言うことができた。それだけで、わたしは満足した。そして、悲しくなった。


 博士課程のカン先輩だけが、わたしに話しかけてくれた。先輩は、わたしの今後のことを、だれよりも気にかけてくれていた。わたしの所属する研究科の院生の中で、一番付き合いの長い仲間だった。もっと一緒にいたかった。


 冴木は、他の修了生たちと言葉を交わしていた。そして、挨拶にくる学部生や、研究室の前を通りかかった教員たちと楽しそうに笑いあっていた。


 冴木は、だれからも愛されるひとだった。認められるひとだった。一方のわたしは、何人かの人々に過度に嫌われていた。私小説の性格ゆえに、詳細は省かざるをえないが、辛い思いもたくさんした。休学もした。しかしそれは、小学一年生のときにパニックを起して以来、様々な症状を併発しながら生きてきたわたしの、ひとつの宿命でもあったと思う。


 そんなわたしは、大学のある機関を頼りにしていた。そこで、病院を紹介してもらったり、心理的なケアを受けたりしていた。そこに携わる人たちには感謝しかなく、卒業式が営まれているあいだに別れの挨拶にいった。


 菊池さんは、笑顔でそれにこたえてくれた。涙がでそうになった。「本当にお世話になりました」という心からの言葉を残して、研究室へと戻った。


 今年度、研究科を「卒業」する院生は、指導教員たちと昼食をともにするとのことだった。わたしは修士号を取得した後、少し特殊な立ち位置で研究科に残っていたということもあり、「卒業」という資格のなかに含まれているのかどうか分からなかった。


「先輩、行きましょうよ。先輩だって、もちろん卒業の身ですから」

 冴木にそう言われて、食事会が開かれる教室へと向かった。わたしが姿を現すと、研究科の――先生は(名前はもちろん役職も伏せるしかない)、まず冴木に「おめでとう」といい、次にわたしに、ここにきた要件をいてきた。

 やっぱりわたしは、条件を満たしていないのだと思い、カン先輩がいる研究室へと戻った。


 途中、鳴海響なるみひびきに会った。鳴海と知り合ったのは、去年の春。大学の総務課で募集していたアルバイトで、一カ月ほど一緒に仕事をしたのだ。

「今年の春も、あのバイトに申し込みますか?」

 わたしは、今日で研究室を去るとは言わなかった。

 彼は来年度で4年生になるとのことで、就活と卒論の二足の草鞋わらじを履くことに不安を抱いていた。


 無責任なことはなにも言えない。「大丈夫」という言葉さえ、わたしには投じられなかった。具体的なアドバイスなんて、もってのほかだった。彼の人生に対して、わたしはなにも働きかけるべきではない。これは卑屈になっているからだろうか。それとも、わたしが「成熟」してきたからだろうか。


 彼と別れたあと、わたしは、自分の人生に思いをせた。あの私小説を書いてから三カ月が経った。五月には同人誌即売会が控えている。しかし、創作をのぞく実生活は暗澹あんたんたるものだ。わたしは、わたしの家族に立て続けに襲いかかった不幸に、もはや笑うしかなくなっていた。


 カン先輩はもう他の誰かと食事に行ったらしい。そしてそのまま図書館で論文の執筆をするとのことだった。


 コンビニに昼ごはんを買いに行こうと、エレベーターがくるの待っていたとき、冴木が階段の上からわたしを呼んだ。

「先輩! 急遽きゅうきょですが、昼食を用意してもらったそうですよ」

 わたしは、何者かによる悪意を感じてしまった。運命というものを操る、何者かの。…………

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