第4話

 教員の研究室が並んだ廊下の突き当たりにあるラウンジに、修了生とその指導教員が集まった。わたしもそこに加わることになったが、自分から催促したかのように思われてしまうのではないかと、少し不安になった。


 わたしの横に並んでいる4人の修了生は、対面にずらりと座っている教員たちと楽しそうに話をしている。そして、これからの進路のことについて――将来のヴィジョンについての話題がこの場にうまれた。


「××のところにあるワインの専門店で働きながら、研究を続けるつもりでいるんですよね。アルバイトっていうわけじゃないんですけど、○○先生からも、研究を続けた方がいいと言っていただけたので、そっちもちゃんとできるようにと思いまして」

「うん、それはその通り。きみは、優秀だからね。どうせなら、学会に入るといいんじゃないか。△△学会とか。うちの教員も多く所属しているし、なにかと…………」


 こういう話を耳にしながら、わたしは黙々と弁当を食べた。しかし、食べ終わってしまうと手持ち無沙汰になってしまうので、適当に調整しながら一品ずつ減らしていった。


「荻山さんは、これからどうするんですか?」

「わたしですか」

 不意な問いかけにきょかれてしまった。そうか、全員にいているのだから、わたしにも同じ質問をするのは自然なことだ。

「病気になった家族の面倒をみながら、地元で働くつもりです」


 地元で働くつもりです――だけで、よかったのではないか。言ってしまってから、そう後悔した。二秒ほどの沈黙のあと、「あっ、そうですか……」という呟きが、どこからか聞こえてきた。わたしの指導教員は、腕をくんでなにかを考えていた。だれも目を合わせようとしなかった。そして、来年度に入学する大学院生のことへと話題は移っていった。


 わたしは蚊帳の外で弁当を食べ続けた。だれもわたしに話を振ろうとしなかった。ありがたかった。この数年間で、この研究科に携わる数人からこうむった屈辱を思い出した。あの人たちは、わたしがいなくなった後も、いままで通り仕事をしていくのだろう。


     *     *     *


 不破ふわさんが幹事となり、院生間の飲み会が開かれるとのことだったが、途方もない疲れを感じていたため、断ることにした。「人数とか、ざっくりと伝えてあるので大丈夫ですよ」とのことだった。時計を観ると、3時になろうとしていた。カップ麺を食べて寝ることに決めた。皆に別れを告げ、5号棟を出てバス停へと向かった。その途中に、雨がふりはじめた。


「地元で働くつもりです」――これも、確定した未来ではなかった。どこからも、内定をもらえていなかった。のみならず、昨年から立て続けに起こった家庭の悲劇は、わたしの心身の健康を蝕み、精神科から処方されている薬への依存度を深めさせていた。


 あの私小説を書いていたころは、病苦にさいなまれ、お互いに憎しみ合っている家族を見ながらも、希望を持つことができていた。


 しかし、下宿へ戻ったあと、痛み止めを飲まなければ生活できない母の病気がやや昂進こうしんし、祖母に奇行が見え始めたことを、父の妹の千代さんから聞かされた。わたしは、こころが落ち着かない日々を送らざるをえなかった。のみならず、リクも――かぶりを振り、家に着くまではこうしたことを考えてはならないと自分に言い聞かせた。


 悲劇の主人公ぶるな――自分へと、強い言葉を投げつけた。バスに乗らずに、よれよれの傘をさして、歩いて帰った。玄関にうずくまり泣いてしまった。


 それは、奇蹟かなにかだったのだろうか。短い廊下の先のワンルーム。机の上から一冊の本が落ちた。本?――それは、わたしの過去の同人誌だった。

 次の同人誌即売会のために、中篇小説を書こう。もし書くことができなかったら、そのときは、小説を書くのも夢を見るのも止めよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る