第11話

 夜更けになると、超越的次元にいる何者か――逆らおうとすれば運命の烙印を押してくる絶対者――が、かすかな足音とともに静寂を連れてきて、静けさと寂しさに耳を澄ますよう、鎌のようなものを首筋に突き付けて脅してくる。


 リクの吠える声が聞こえたかと思い、そっと台所の方へ行くと、すやすやと寝息をたてている。ふすまを叩く音がしたような気がして開けてみると、胸を手でおさえた祖母は、そこにはいない。家族の病状の悪化のしるしを見逃さないように気を張っていると、こうした錯覚に襲われることがある。


 何者かは言う。「夢を諦めれば、少しは楽になるぞ」――と。


 暗闇を外にも内にも感じベッドの上で眼をつむりながら、意識的にも、無意識的にも、些細な物音を拾おうとしていた。隣の家の軒下あたりで、猫が喧嘩をしているようだった。むかし、知り合いの「物書き」の方から、猫の喧嘩は両者が深い傷を負っても続く容赦のないものなのだと、聞いたことがあった。


 わたしは、世紀末の不安に抗えなかった或る作家のことを思い出し、彼はきっと、彼自身の家族というものを、猫の喧嘩のように見ていたのだろうと、ぼんやりと考えた。


 からすの鳴き声が、夢と現の間を稲妻のように走った。眼を開けると障子のおもては明るんでいて、破れたところから光の束が入りこみ、新生のよろこびが、古びた畳の上に落ちている。


 わたしは、どこか心地よい気分になっていた。それはきっと、抗うつ剤の力によるものではない。爽やかな朝のせせらぎに、胸がときめいているからでも決してない。


 昨晩遅くに、「先生」のホームページの活動日誌が更新されていた。その軽快な文章には、絵を描くことへの情熱と喜びが満面に踊っている。来月にも、発表できる仕事があると予告されている。


 わたしは、「先生」のイラストを偶然見つけたことで、人生が一変した。そして、「先生」の活動を追っていくうちに、その創作への真摯な姿勢と熱情に感化され、勝手に「師匠」として自分のこころの中に位置づけていった。


 わたしは……なにを迷っているのだ? どうせ、その野望を抱くことに羞恥のようなものを覚えていたのだろう?――身の程しらずである、と。


 わたしには才能がなければ、才能を涵養かんようするための入れ物もないのかもしれない。だとしたら、その入れ物から作ればいいじゃないか。一朝一夕で物事は進まない。うまくいくばかりのことなんて、決してない。


 絶え間のない苦しみと、血のにじむような努力とが、力強く織りなしていく軌跡のうちに形作られる夢というものを、抱くことは恥ずかしくない。夢を掲げておいて、なんの努力もせずに、「はすうてな」に坐りこけるのではなく、「針の山」を阿鼻叫喚しながら跋渉ばっしょうする覚悟があるのなら、恐れずに夢を抱けばいいのだ。


「わたしは、先生と一緒に仕事がしたい」――そう、大声で宣言すればいいじゃないか。


 朝陽は光の色を強めていき、鴉に代わりすずめの鳴く声が聞こえてきた。そよ風に眼を覚ました竹林の向こうに、照り返る太陽があり、光をまとった白雲があり、清らかな青空が夜をすっかりと隠してしまっている。

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