第6話

 どこかじめじめとした冷たい曇りの日だった。去年の五月もこれくらい寒かっただろうか。リュックの中に羽織るための服を突っ込んできた。九時頃には解散になるだろう。きっとその頃には肌寒くなっているに違いない。


 薬局で薬を受けとると、いつもの帰り道を右手にしたまま、商店街の方へと歩いていった。コンビニに始まり、豚カツ、カレーライス、ラーメンと食事処が続き、貴金属、麻雀、マッサージの文字の入った看板が目につく。


 しばらく進んでいくと、四階建ての本屋がある。いつもなら二階の文庫コーナーを見て回るのだが、今日は三階にあるライトノベルを揃えているエリアで、色鮮やかな背表紙のひとつひとつに目を通した。


 目当ての本があるわけではない。かといって、暇つぶしというわけでもない。ライトノベルを一冊買おうと思っているものの、どのシリーズの第一巻にするか迷っているのだ。最近のライトノベルの事情に詳しくないだけに、それぞれが、どのようなお話なのか全くと言っていいほど知らない。だから、タイトルに現れる単語を参考に、一冊を選ぶことにしていた。


 昨日、五月の下旬に開催される同人誌即売会に持って行く新刊を入稿した。肩の荷が下りた。間に合った、自信にもなった。


 途中、今年に入り悩みの種となっていた、突発的な嘔吐と頭痛に見舞われることはあったが、無事に「中篇」小説を書ききった。いままで純文学ばかり書いてきた自分にとって、初めての「ライト」な作品に仕上がった。


 が、今回の執筆で分かったのは、純文学ばかり読んできた自分にとって、純文学的ではない小説を作ることは、困難を極めるということだ。


 だからこうして、一冊のライトノベルを購入するために、悪くなってばかりの眼を走らせている。近頃、この眼のことに関しても不安な兆候があった。疲労がたまってくると、遠くのものがかすんだり二重に見えたりする。もう、――さいになろうとしている。どんどん身体に「ガタ」がきているのを実感する。


 青春小説を連想させるタイトルの本を買うと、近くのカフェに入った。Mサイズのアイスコーヒーを注文した。そして窓際の少しうす暗い席に腰をおろした。両隣は空いていた。が、わたしの背後は賑わっていた。いまのわたしにとって、これほど痛烈な目に見える比喩はなかった。


 テンポよく紡がれていく物語を追っていると、何ごとも一朝一夕にはいかないのだということを痛感する。当たり前のことだ。わたしはもう、無謀な挑戦を頭に描き、小生意気な言辞を弄する青春時代を、とっくの昔へと押しこんでいる。


 だからこそ、焦ってしまう。わたしにには、猶予となる時間がそれほど残されていない。


 設定した目標を達成できなかったら、小説の執筆からも退しりぞくというおきてめいたものは、自分勝手に決めたことでしかない。現実には、一日のすべてを家族のために捧げなければならない境遇に、いつなってもおかしくはない。通院のために、定期的にこちらへ戻ってくるなどということも、できなくなるかもしれない。


 どんなに辛いことを言われ苦しい思いをすることになっても、家族を愛しているという気持ちは変わらない――というより、強まっていく一方だ。しかし不孝なことに、どうにかして少しは自由になりたいと考えてしまうことがある。自分の将来設計が、どんどん埋没し消え失せていくのを感じてしまうと、恐ろしさのあまり眠れなくなる。


 が、睡眠薬に頼ることはできない。深夜、家族の容体が急変したらと思うと、小さな物音にでも気づくことのできるような、浅い眠りの方が相応しい。


 しかし……せめて、家族どうしお互いを憎しみ合うのを止めてくれれば、どれだけ楽なことだろう。身体的な疲労より、精神的な痛苦つうくの方が、いまは上回っている。ここにきて、家族の紐帯ちゅうたいが崩れていくことは避けたい。それなのに、なぜ、母と祖母、母と父は心の底で憎しみあい、父と祖母は忌憚きたんなく笑い合っているのだ。


 この三人の本音が建前を侵食したとき、わたしたちはもう、むかしの想い出を捨て去り、家族一緒にフレームに写る無邪気な関係は消え失せ、別々の写真を飾って去っていくしかないのだ。


 座っているのがつらかった。約束の時間まで、まだまだである。が、もう待ち合わせの場所に行ってしまおうと決めて、生ぬるいなかに氷のつぶてのような固いものを含ませている風の吹く往来を、駅の方へと歩いていった。

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