水曜日

西影

ある日の放課後

 いつからだろう。水曜日が疎ましくなったのは。


「よ、美羽みわ。自習してるのか?」


 外の雨音と少し生徒の雑談が耳に入る図書室の一角。数カ月ぶりに聞いた低い声で私の集中が途切れた。


「はい。もう中間試験が近くなってきたので」

「真面目だな。まだ二週間前だぞ」

「今日は部活もありませんし、文化祭用の作品も書き終わったので」

「そっか。なら勉強に専念できるな」


 黒木くろき先輩が私の隣に座り、教材とノートを取り出して問題を解き始める。私のことなんて一切気にする素振りを見せない。久々に後輩と会ったのだから積もる話はないのだろうか。


黒木くろき先輩は受験勉強捗ってますか?」

「聞いて驚け。あの俺が勉強の習慣化に成功した」

「意外ですね。テスト前の深夜も漫画を読んでた黒木くろき先輩が」

「だろ。塾も通うようになったせいで大変なんだよ。課題も多いし」


 私に見せびらかすように教材をペラペラとめくる。こうしてみると学校から出された課題が少なく思えてきた。あの漫画中毒だった先輩に勉強習慣が付くのも納得だ。


「そりゃあ漫研も引退しないといけませんね」

「運動部は夏休み中に引退したらしいけどな。あいつらはやべえよ」


 しみじみと黒木くろき先輩が呟く。それだけ受験が大変なのだろう。例年は夏休みの合宿で引退するのだが、黒木くろき先輩は夏休み前に引退した。早くなった引退理由の説明はされなかったけど……部員全員、なんとなく察している。


「おし、今回は迷える後輩のために勉強教えてやるか」

「……黒木くろき先輩、人に教えられるんですか?」

「流石に俺を舐めすぎだ。一年前に習ったんだぞ」


 私の問題集を黒木くろき先輩が奪い取る。しかし中身を見てすぐに元の場所へ戻した。


「すまん、俺は文系なんだ」

「知ってます。理系の授業に耐えられなくて三年に文転したということも」

「ぐぬぬ、後輩が厳しい。部活帰りはよく一緒に帰ってたじゃん」

「……そうですね」


 やっと忘れかけていた記憶が蘇り、そっぽを向いてしまう。最近は一人で帰ることが多かったので余計に虚しくなった。こうなるのは部活がない水曜日だけだったのに。


「冷やかしに来たなら帰ってくれませんか?」

「なんだよぉ。美羽みわから始めた雑談じゃないか」

「そうでしたね。失礼しました」


 落ち着きを取り戻すために一つ息を吐く。ついきつく当たってしまった。黒木くろき先輩は何も悪くないのに。部活がある日は部員と帰り、部活がない日は学年の仲がいい人と帰る。これが普通なのだ。わざわざ部活のない日、そして引退後に私と帰るわけがない。分かっている。


 もう何度自分に言い聞かせただろう。わざわざこんなことを考える自分が情けない。


 シャーペンを走らせ、ひたすら問題を解き続ける。しかし一向に集中できない。黒木くろき先輩が隣にいる。それだけのことで胸が騒めいた。意識しないようにしても、いつの間にか黒木くろき先輩の横顏が見てしまう。先輩は集中しているのか、ずっと塾の課題をこなしていた。その瞳は漫画を制作している時と変わらない。


 そうだ、私はこの姿に惹かれたんだった。


 体験で漫研に寄ったあの日、一人で漫画を作っていた黒木くろき先輩の瞳も今みたいに真剣だった。私が部室に入っても漫画を描き続けていた時は無視されてると思ってたけど、声をかけたらビクッと肩を震わせたんだよね。懐かしい。


 つい笑みをこぼしてしまう。またあの日々に戻りたいな。今の後輩がいる生活も悪くないけど、あの子たちは用事がないと部室に来てくれないから暇なんだよね。対して先輩は毎日部室にいて、漫画を描いたり読んだりしていたし。


 先輩がいた時は水曜日と土日祝が部活の休みだった。だけど今じゃ作業がない日は全部休み。ほぼ帰宅部みたいなものである。顧問の先生に相談しても「去年度が異常だった」と相手にされなかったし。それでも私は先輩がいた時のような漫研を忘れられない。どうにかして、後輩を部室へ連れてきて雑談できないだろうか。


 必死に思考を巡らせる。


『下校時刻の五分前となりました。まだ校内にいる生徒は帰宅してください』


 そこで放送が流れてきた。結局、先輩が来てから一問も解いていない。途中から勉強に関係ないことばかり頭に浮かべていたし。せっかく自習してるのにな……。


 静かに荷物をカバンに入れていく。


「あ、そうだ。今日は一緒に帰らないか?」

黒木くろき先輩の友達は?」

「先に帰ってる。あいつらは水曜は用事あるらしくて、俺の自習に付き合ってくれないんだよな」

「そうなんですね」

「あぁ。だからこれからの水曜日は美羽みわが付き合ってくれないか?」

「――!」


 黒木くろき先輩の言葉に反応してしまう。まったく、この先輩はわざと言ってるんじゃないだろうか。私の心を弄ぶなんて性格が悪い。


「し、仕方ないですね」

「助かるよ。俺一人だと怠けそうだし」

黒木くろき先輩のために付き合ってあげます」


 二人で昇降口に向かう。こうやって帰るのはいつぶりだろうか。今日の自習がこのためだけにあったんじゃないかとすら思えてしまう。


 私が先に靴を履き替えて待っていると先輩が大きな傘を持ってやってきた。


「あれ、美羽みわの傘は?」

「私は……」


 カバンに手をかけて、やめる。


「今日忘れちゃいまして、よければ入れてくれませんか?」

美羽みわもドジを踏むことあるんだな」


 黒木くろき先輩が珍しそうに私を見て、傘を広げる。その中に私も入ると並んで歩き出した。


 いつの日か疎ましく思うようになっていた水曜日。それがこれからは楽しみになりそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水曜日 西影 @Nishikage

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ