あとがき

 この度は私の書いた物語にお付き合いしていただきまして、誠にありがとうございます。


 この物語は「放課後対話篇」という少年少女が放課後に雑談を交わしながら、身の回りの問題や理不尽に向き合い、解決する物語の六作目になります。


 カテゴリーはミステリとしておりますが、同時に私自身が日常の中で「こういう問題ってよく見かけるなあ」「こういう考え方は面白いな」と感じたトピックを主軸に話を展開して、物語を通じて何らかの結論を出すとともに、読者の方にも共感しつつ楽しんでいただくことを目的として描いております。

 現代を舞台にしたある種の寓話を目指したものともいえるかもしれません。


 今回は三つの物語にテーマを込めてみましたので、解説していこうと思います。蛇足になるかもしれませんが、おまけだと思ってお付き合いください。


<盗まれた壺と「バランスブレイカー」について> 


 テーマは「一部の極端な行動が集団に与える影響」です。


 転売目的で買占めをする人間が現れたために、品物が販売制限をされたという事例を数年前から何度か見かけるようになりました。


 いわゆる暗黙の了解や善意で成り立っていた空間が一部の度を越した行動をとる人間のためにルールを厳しくすることになった典型例といえます。


 既存の規範を無視する行動がすべて悪というわけでもないですが、何にせよ「集団に影響を与える極端な行動をとる人間」は時に世の中に出現するもので、作中では「バランスブレイカー」という俗語を借りて表現しております。


 しかしこういった極端な行動をとる人間のエピソードを調べている中で、私はある都市伝説に出会いました。


 それは「ディズニーランドに出禁になった学校」というもので「修学旅行でディズニーランドに行っていた学校かあったが、やんちゃな生徒が某マスコットキャラを池に落としたために出入り禁止になった」という話です。


 ところがこの話について、そもそもそういった事件があったことははっきり確認できなかったのです。そのため「実はそんな事件自体が起こっておらず、学校の先生がディズニーランドに行きたがる生徒を『うちの学校は出入り禁止なんだ』と丸め込むために作った嘘ではないか」という考察もされておりました。


 都市伝説なので本当に「出禁になった学校がある」のかも「教師が出禁の原因となる事件をでっちあげた」のかもわかりません。ただ、集団に影響を与えるような行動をとった人間や事件がそもそも存在しなかったかもしれないという事象は、私には興味深く映りました。


 現代社会ではネットが発達してインフルエンサーと言われる人たちが「こういうものが流行っている」「こういう行動をとる人間はダサい」とご意見番か大衆の代弁者のように情報を発信して、それを正しいと思う人も一定数存在します。


 実際に事実を発信している場合もあるのでしょうが、最初から存在しなかった概念や事件をあったかのようにでっちあげて集団を誘導することもできるのではないかと思案して、謎解きを絡めて物語にしたのがこのお話です。



<レトロニムと幻の広場について>


 テーマは「名称と実体の乖離」です。


 言葉や呼び名にはイメージが伴うものです。しかし言葉に付与されたイメージの方が先行してしまって、本来の意味を置いてきぼりにしてしまうことがたまに起こります。


 例えば日本では「マグロ」といえば「鮪」という漢字で書いていますが、実は中国では「チョウザメ」を意味する漢字だそうです。中国からこの漢字が伝来したときに、大きい魚を意味するものだと説明されて「きっとマグロのことだろう」と当時の日本人があてはめたもののようです。


 つまり本来は「チョウザメ」を意味する漢字が「大きい魚」というイメージだけが独り歩きして、別の魚を意味するようになったということなのでしょう。


 この手の言葉のイメージが歪んだために元の意味を表さなくなった典型例が「レトロニム」つまり再命名と呼ばれるもので、一つの概念から新しい概念が派生したときに古い方を区別するための呼び名です。


 例としては電子書籍が生まれたために、普通の書籍を「紙書籍」と呼ぶものがあります。私はあまり電子書籍を利用しないので、「紙書籍も何も、書籍はそもそも紙だろう」と言いたい気持があります。


 いずれ電子書籍の方がメジャーになれば「書籍」と言えば電子媒体が当たり前になって、「書籍なのに紙なの?」と言われる日が来るのかもしれません。


 しかし呼び名はどうあれ、紙の書籍には紙の書籍の良さがあります。場所は取りますが電力は使いませんし、漫画の見開きやページをめくる感覚。サービスが終了したら読めなくなる電子とは違って、所持していれば読み直せるのも長所です。


 何にせよ、仮にいつか古い方の概念が使われなくなるにしても、かつてどういう経緯で過去にその言葉が存在したのかを忘れないでおくのは文化を正しく引き継ぐために大事ではないかなと思いながら執筆しておりました。


<騙られたエースと欲求の二重性について>


 テーマは「表面的な要求とその先にある本当の欲求」です。


 飢えている人に必要なことは「魚を分けること」ではなく、「魚の釣り方を教えること」だという諺が海外にありますが、「本人が求めているもの」と「実際に必要だったもの」がずれているということはあるのかもしれません。


 ITビジネスの世界でも「顧客が説明した要件」「プロジェクトリーダの理解」「営業の約束」「顧客が本当に必要だったもの」などが全て微妙にずれていた、というネットミームになっている画像があります。

 

 人間が表向きに「これが欲しい」と要求しているものは、過去に得た限られた知識と経験の中から選択したものでしかないため、実際に要求していたものが手に入ってから「なんか違う」「これではなかった」と気が付くこともあるのでしょう。


 作中でも本当の欲求に気が付かずに、そこから派生した二次的な欲求や表面的な手段しか目に入らない状況が描かれます。


 人は自分のことは意外に見えないものなので、自分の本当の欲求を自覚することは時に難しいですが、外部からの刺激や新しい経験を積むことにより自分の中の既存の枠を広げることで、それを知ることに近づくのかもしれません。



 次回作がどれくらい先になるかわかりませんが、また書きたいと思う話があれば掲載していきたいと思っておりますのでその時もお付き合いいただけたら幸いです。


 この物語を読むことで、貴方が少しでも肯定的な気持ちになっていただけたら本当に嬉しく思います。


 また、もし楽しんでいただけましたら、星の評価をしていただけますと創作の励みになりますので何卒よろしくお願いいたします。


 それでは、さようなら。どうかお元気で。 

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放課後対話篇6 雪世 明楽 @JIN-H

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