書けない私と読めない彼女の、幸せに至る選択
冬寂ましろ
* * * * *
「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。
「そう書いてあるんですか?」
史緒さんが私達へたずねる。片手で黒いセルフレームのメガネを外すと、モニタに映された質問文をじっとにらむ。私にはそれを読めていた。「いまいるところはどこですか?」って。
「チャンスは残り二回です」
また機械の声が診察室に響く。私はすがるように脳神経外科の先生を見つめた。少しうなずくと、先生はモニタを指差した。
「この字は読めますか?」
「い、です」
「次の字は?」
「ま、ですね」
「続けて読むと?」
史緒さんは黙り込んでしまった。先生はキーボードをガチャガチャと打ち、診断用AIを止めた。机の端からから白い紙を1枚取ると、私達の前でひとつの病名を書く。
「『純粋失読』と言います。文を書くことはできるけれど、書いたものを読んで理解することができなくなります。認知症や脳梗塞などで見られる症状なのですが……。今回のMRI検査では病変が見つからず、明確な原因はまだわかりません」
外していたメガネをかけ直し、史緒さんは先生へたずねた。
「治りますか?」
「症状の進行具合は人によってまちまちで……」
「だから、治るんですか?」
史緒さんの鋭い声を聞いて、私は手をぎゅっと握り締める。先生の説明は、史緒さんにとっては死刑宣告と変わらない。先生は史緒さんが怒っていると思ったのだろう。なだめるようなことを言い出した。
「黒原史緒さん。あなたはまだ29歳です。年齢が若いほど、脳の自己修復性に期待できます。投薬で病気の進行を遅らせ、症状に合わせたリハビリをしていくことで、日常生活は……」
「はっきり言ってください。治らないんですね?」
「……はい。ですが……」
史緒さんが片手でこめかみを揉む。それは「もう話すことはない」というときにしている癖だった。私は史緒さんの代わりに先生へたずねた。
「文章を書けなくなる日は来ますか?」
「覚悟しておいたほうが良いとしか、いまは言えません」
「明確にわかりませんか? 3か月後とか6か月後とか」
「そこまでは……」
「教えてください。黒原は……作家なんです。『久遠のまなざし』の……」
「ああ、知ってます。今度映画化されるというベストセラーの……」
ようやく先生も深刻さに気づいたようだった。作家にとっては最悪の病気だということに。
「ご家族の方にも病状の説明できればと思うのですが、その……あなたは?」
言い淀む私に、史緒さんが何でもないように言う。
「彼女は、ただのアシスタントです」
◇
診察が終えると、病院の広い待合室で会計の順番を待っていた。隣には史緒さんが座っている。ぼんやりと番号が次々映るモニタを見上げていた。私は同じモニタを見ているふりをしながら、史緒さんへ聞いてみた。
「この景色も見たことがあるんですか?」
「ん? ああ、あるよ。こうして隣で紫乃が青い顔しているのも、すり切れたような病人達がじっと座ってる光景も」
なら、どうして……。行き場のない悔しい思いが私を震わせる。
「史緒さんは前に言ってましたよね。未来に起きる悪いことがわかるから、そうならないようにしてきたって。なぜ、こんなことになるんですか……」
「不完全なんだよ、私の未来視は。こうして紫乃と話している場面は夢で見た気がしている。このあと口論して、ふたりで黙ってラーメン食べて、私が癇癪起こして、紫乃が家を出ていくところまではフラッシュバックしている。だから、そんなことにならないように、お昼はカレー屋さんへ行こうと思ってて……」
「史緒さんにとって、この病気は良いことなんですか?」
「どうだろう……。わからないな」
「私は……」
機械の声で待っていた番号が告げられた。
「会計を済ましてきます」
「うん。紫乃、ごめんね」
史緒さんが何に対して謝っているのか、私にはわからなかった。
◇
史緒さんが前を歩く。私が後をついていく。病院から駅に続くなだらかな坂をふたりで降りていく。夏の強い日差しが私達をじりじりと照らし、熱い影をアスファルトに映し出す。
最初はTwitterで感想を言って、お礼を返される程度の仲だった。DMで悩みを告げられたときも、元気出せとか、ありきたりなアドバイスをしていた。それを半年も続けていたら、お互いのことをさらけ出し過ぎていた。リアルに会ったときも、初めてという気はしなかった。そのまま史緒さんが私をホテルへ誘っても、それが当然のように思った。
高校生のとき、私も小説を書いていた。だからわかる。彼女の苦悩も。作品の凄さも。人であることも。それは、女同士だから。作家同士だから。だから……。
「私は誰よりも黒原史緒のことがわかると思っていたのでした」
はっとして顔をあげる。いつのまにか史緒さんは立ち止まり、振り返って私に微笑んでいた。
「わかるよ、紫乃が考えていることぐらい。出会ったときからのことを思い返してるんでしょ? 忘れないようにって」
「ええ、まあ……」
「当たったね。そして、少しほっとしてる?」
「いますぐ死ぬというわけではなかったので……」
「そう? わりと残酷だと思うよ。紫乃があこがれてた人がじわじわと死んでいくんだから」
「そんなふうに言わないでください!」
張り上げた声といっしょに、汗が黒い影へしたたり落ちる。
「紫乃は置いていかれるの、いや?」
そう言ってこのままどこかに行ってしまいそうだった。私は史緒さんの手首を握って捕まえる。わかってはくれないのだろうとどこかで思いながら、私の想いを伝える。
「当たり前です! だって私は……史緒さんのことが大好きなんです」
「そっか。なら、書けるうちに書いときますか。私達のこと」
史緒さんがいたずらっ子のように笑う。私達の関係は「読者感情に配慮して」という理由で、誰にも知らせてはいなかった。
◇
溶けた氷のせいで、麦茶を入れたコップがカランと鳴った。その前には汗を垂らしたままにしている編集の鳴海さんがじっと座っていた。
史緒さんの症状について連絡をすると、彼女は大きなかばんを抱えて我が家まで訪ねてきてくれた。いつも私達が使う小さな食卓の椅子に座らせ、私は「暑かったでしょう」と気を遣っていた。
でも、差し出した麦茶は、こうして飲んではくれない。
「すみません、わざわざ来ていただいて。埃は大丈夫ですか? この家は本が多くて……。まるで動物の巣穴みたいですよね」
「資料だらけとは聞いてましたから」
「片づけたいんですが、掃除を始めると史緒さんが怒るんです」
「愛の巣、なんですね。育まれているのは卵ではなく、先生の作品なんでしょうけど。卵でなくて本当に良かった」
言い方にトゲがあった。史緒さんとの関係は彼女にも知らせていなかったから、怒っているのかもしれない。彼女は編集者として、黒原史緒の作品を初出版したときから担当している。だからきっと嫉妬に近いものだと、私にはわかっていた。
「いま黒原先生は?」
「書いてます。一度そういう気になると、何を言っても生返事になってしまうので、ほっといています」
「そうですか。なら、都合が良いですね」
彼女は足元のかばんを開けるとたくさんの紙束を取り出した。食卓の上にどさりと置く。紙束にはあちこち付箋が張ってある。
「これは……校正用のゲラ刷りですか?」
「そうです。映画の公開に合わせて先生の新作を出したいんですが、著者校がまだ半分しか来ていなくて困っているんです」
「すみません。お伝えしたように、史緒さんは病気で文章を読むことがむずかしいんです。鳴海さんに一任するというわけにはいかないでしょうか?」
「黒原先生は以前から著書校で文章を多く直されています。完成させるためには、どうしても校正していただきたいのです」
「ですが……」
「あなたが著者校正をしてくれませんか?」
それは天才作家である史緒さんの代わりを私がやれ、ということだった。そんなことはしたくない。史緒さんは史緒さんだけだ。その代わりなんて、私にはできない。
「すみません、鳴海さん。私は素人も良いところで……」
「だいぶ前ですが、うちの編集部に原稿をお送りいただいてましたよね。蒔田紫乃さん」
「……それは若気の至りです」
「こんなこと、頼みたくはないんです。でも、編集者としては、どうしてもこの本は世に出したい。だから、お願いしているんです」
「ですが……」
「こうしていちばん近くにあなたがいるんでしょ? なら、黒原先生が考えていることぐらい、わかりますよね!」
怒声で空気が震えた。きっとわかる。けれどわかりたくはないのに……。私はうつむいたまま、何も言い返すことができなかった。
奥の部屋の扉が開いた。捨てられた子猫のような姿の史緒さんが出てきた。史緒さんは命を削りながら書いている。食事も取らずずっとこもって一心に書いている。執筆中にこうしてやってくることは、ほとんどない。声が聴こえてしまったのだろうか。そばに来た史緒さんが、心配している私を見下ろしながら言う。
「やりなよ、紫乃」
「史緒さん……」
「だってさ、もうほとんど読めないんだ。人助けだと思っといてよ。死にかけた作家を救う正義のヒーローとでもさ」
「私は史緒さんにはなれないんです」
「全部じゃない。読むだけだよ。それならできるさ」
氷が溶け切った麦茶を手にすると、史緒さんはごくりと飲み干した。
「鳴海さん、これでいい? わがままな作家がようやく編集の願いを聞いたんだ。満足して欲しいな」
「……はい」
「じゃ、あとのやりとりは任せるよ。最後の一章は今晩……いや2日後には送るからさ」
目をそらして、鳴海さんはつらそうにうなずく。
納得がいかない私は、史緒さんの袖をつかんでいた。それに気づくと史緒さんはやさしく私に言った。
「これも夢で見た光景だよ、紫乃」
◇
自分で言った締め切りを過ぎてから、初めて史緒さんが弱音を吐いた。それは夕飯で、彼女が好きな唐揚げをつついているときだった。
「書けるのに書いたものの意味がわからないんだ。キーボードのキーの位置はわかるし、形で認識しているから文としては合っていると思うけど……。不安になるよ。ちゃんと書けてるのかって」
「ゆっくり書いたらいいと思います。どうにもならなくなったら私が口述筆記しますから」
ふいに史緒さんが箸を置く。唐揚げの山を見つめながら、吐き出すように言う。
「伝えたいことを伝えられない作家ってなんだろうね」
「……どうしたんですか?」
「たとえばさ。子供ができた人は、それを世界に残せたことになるでしょ? 私には、何を残せるのかなって」
「これまでたくさんの作品を世界に残してきましたよね?」
「それなら私は子殺しばっかりしている悪い母親だよ。みんなに気に入られそうなネタだけ残して間引いて……」
「私にはうらやましいです」
「そうなの?」
「ええ。私には売れる小説は書けないですから。でも、小説に書かれたことが誰かの心に残ることはわかっています」
「そう?」
「『久遠のまなざし』で主人公のアルフレドが『みんな熱に浮かれてやがる。俺を置いてヴァルハラへ行きたがる』と泣いたシーンは、大好きでずっと覚えてます」
「そんなふうに言われると、ちょっと恥ずかしいな」
「伝わっていますよ。そして読んだ人の心の中にそれは残っています。きっと大丈夫です」
史緒さんが私を見ずに言う。
「これも夢で見たよ」
「選んだんですか?」
「うん。箸を置いたところが分岐点だった。私はちゃんと幸せになるほうを選んでるよ」
◇
電話を受けたとき、すすり泣く声が初めに聴こえた。
「鳴海さんですよね? どうしたんですか? こんな夜中に……」
『……すみません。先ほど黒原先生から原稿が送られてきまして……』
「史緒さんが何か……」
『ほとんど読めないんです。もう跡形も……』
「そう……でしたか……」
そのときが来てしまった。私は目をぎゅっとつむる。電話の声は続く。
『代わりに書いていただけませんか?』
「え……?」
『それしか方法がないんです』
「ですが……」
『責任を取ってください! 黒原先生の作家寿命を縮めたのは、あなたなんです!』
違う……と、すぐには言いきれなかった。そうかもしれない。未来が見えるのだから、史緒さんは選択できたはずだ。こうならないように。でも、それをしなかったのは……。
ふいに後ろから抱き付かれた。史緒さんが私の耳元でくすぐるようにささやく。
「いいよ、全部書いて。私はもうダメだから」
心臓でももらった気がした。譲ることができないもの、それがなくては生きてはいけないものなのに。
「史緒さん、それはダメです。絶対にダメです……」
「私が紫乃に渡せるものは、もうこれぐらいしか残っていないから」
「これもわかっていたことなんですか?」
「違うけど、次に言う紫乃の言葉はわかっているつもり」
史緒さんが私に力なく体を預ける。温かさが背中に伝わる。こんなふうに甘えられたことはいままでなかった。私はあきらめたように鳴海さんへ告げた。
「わかりました。最終章は私が書きます……」
より大きな涙声が、私と史緒さんの耳に届いた。
◇
フォンブラウン・リッペンドール病。診察室で先生が紙に書いた病名がそれだった。脳に小さな腫瘍がたくさん散らばる遺伝性の病気だと教えられた。腫瘍が細かすぎて最初の検査ではわからなかったらしい。先生はモニタに史緒さんの脳内画像を映す。腫瘍を示す小さな白い点が、コップに浮かぶサイダーの泡のように見えた。説明を終えると、先生は苦しそうに言った。
「たいへんむずかしい状態です。小さな腫瘍が広範囲にあるため外科的に取ることができず、抗がん剤も効きにくく……」
史緒さんは無表情にたずねた。
「どれぐらいまで生きられんですか?」
「このままでは余命は3か月ほどです」
「いまより悪くなりますか?」
「はい……。せん妄、人格の変化、そして身体にも影響が出ます。四肢の麻痺、自発呼吸の停止……」
「そっか。もっと書きたかったな」
遠くを見ながら、史緒さんはぽつりとそれだけつぶやいた。
そのあと先生から治療方針について、家族とよく話し合って欲しいと言われた。望みの薄い抗がん剤治療を始めるか、それともホスピスに入り、痛みだけを取り除いて最期を迎えるのか……。
すっかり色づいた街の木々を眺めながら、私と史緒さんは手をつないで駅までの道を歩いていた。体が震えているのを少しでも軽くできればと願いながらそうしていた。途中で気を引くように史緒さんへ声をかけた。
「旅行に行きませんか? 京都へ行きたいって言ってましたよね? いまの季節なら……」
「紫乃。もう私との思い出を作らなくていいよ」
私達は歩くのを止める。
「何を言って……」
「こうさせてしまってずっと後悔していたんだ。紫乃が私といっしょにならなければ、やさしいお母さんになれたんじゃないか、とかさ。普通の幸せを選んで欲しかったなって」
手を強く握り返すと、私は瞬時に沸いた怒りを吐き出す。
「違う! 私は史緒さんといっしょにいることを自分で選びました!」
「私はさ、悪くなる未来を排除しながら、自分の幸せばかり考えていた。作家が想いを綴り、読者に読まれること以上の幸せなんて、他にはないよ。そうするための選択を続けた。でも、紫乃と出会ってから、そうじゃない方法もあるなって気づいたんだ」
「だからって、自分が死ぬほうを選んだのですか?」
「違うけど……。まあ、そうだね。もうすぐ私は死ぬ。書くことも話すことも、何もできなくなって、紫乃に迷惑をかけながら死んでいく。だからさ、わかってよ」
わかりたくなかった。別れ話を切り出されているなんて。冷静になれと自分に言い聞かせる。それから前から決めていたことを告げる。
「私はずっとそばにいます。最後まで」
「紫乃の頑固者」
「それはお互い様です。わかってますよね?」
ぷふと史緒さんは噴き出した。
「あはは。こんなとこだけお互い似てて困るね。仕方ないな。ほかの方法を考えるよ」
◇
鳴海さんからスケジュールについて電話をもらっている最中だった。奥の部屋から壁に物を叩きつける音が何度もした。私は鳴海さんに詫びてすぐ電話を切り、急いで向かう。扉を開けると、積まれていた本や紙の束が床に散乱していた。その奥には、一冊の厚い本を片手に握り締め、荒い息をした史緒さんが立っていた。
「どうしたんですか?」
「書きたいことがたくさんあるのに書けないんだ! 伝えたいことがまだたくさんあるのに……。私どうしたらいいんだろ。こんなに伝えたいのに!」
史緒さんが持っていた本を広げ、パラパラとページをめくる。
「もう何もわからなくなっちゃった」
その本を投げつけた。壁に穴を開け、本は床にどさりと落ちた。
「こうなるのも夢で見ていた。楽しいと思ったことも、つらいと思ったことも。もう何も……伝えらない」
憔悴しきった史緒さんを見ていたら、そうすることが自然に思った。
私はカーディガンを脱ぎ、ワンピースを肩から脱ぐ。すとんと足元にそれが落ちるのを見届けると、ブラのホックを外した。
「体でなら……。きっと体でなら伝わります」
裸のまま慎重に近づく。史緒さんの手を取り、私の胸に触らせる。
「史緒さん。私に伝えてください。いまの気持ちを。思っていることを」
「伝わるといいな。そうだったらいいな……」
史緒さんは泣いていた。それから私達はお互いの想いを裸で伝え合った。
疲労感がふたりの体に満ちると、ベッドの中からぼんやりと窓の外を眺めていた。夜が朝に変わるところはずっと好きだった。この窓で、黒い夜空が紫色に変わっていくのを、こうして何度もふたりで見ていたから。
「紫乃、知ってた? 私の幸せは、紫乃が幸せになることなんだ。だからずっと選んできた」
「未来を、ですか?」
「そうだよ」
「史緒さんが死ぬ未来が、私の幸せなんですか?」
「それはね……。その先にもっと大きな幸せがあるからだよ」
「史緒さん以外の人といっしょになるとかですか? そんなことはありえませんから」
史緒さんが寝返り、私の鼻をつまんでぷいっと引っ張る。それから困ったように私へたずねた。
「ねえ、紫乃はなんでこんなわがままな奴を好きになったの? 私なんて人として最低だよ。ずっと女の子しか好きになれなかったし、そのことで親から絶縁されたし、友達も離れたし。普通の人に擬態することばかり得意になって……」
「一言では言えないです。でも、人を好きになるのってそういうことなんだと思います」
「……そっか。そうかもしれない。ありがとう、紫乃。やっとわかったよ。私も紫乃のことが大好きなんだ。だから……」
◇
あっけない最後だった。いつのまに薬を買ったのだろうと思った。ずっとそばにいたのに、それを知らずにいた自分の間抜けさに腹が立った。
ベッドの横に白い便箋が置かれていた。必死に書いたものであることはわかった。でも、内容はわからなかった。「愛」という漢字に山という字が混じっている。「して」というひらがなには3本の曲線が入っている。ほかは文字としては読めない。歯がゆい思いをする。悔しさがあふれだす。この手紙には私への想いを確かに綴っているのに、私にはそれがわからない。
史緒さんはそうまでしてこの結末を選んだ。それはずっと選び続けてきた「私が幸せになること」だった。いまようやくそれが私に伝わった。
寝ているように死んでしまった史緒さんを、ずっと見つめていた。
「お疲れ様」
そうつぶやいたら、ようやく涙が出てきた。
◇
ずっと断っていたけれど、鳴海さんが土下座までして映画の完成披露パーティーへ出席をお願いしてきた。史緒さんはもともと天才作家だったのに「夭折の」という肩書がついて、スケジュールぎりぎりで刊行できた新作は、出版社始まって以来の大ヒットになったらしい。鳴海さんは、そばにいたのに史緒さんを死なせてしまった私を心底嫌っていた。けれど、会社からの圧力には逆らえないようだった。
私は自分がやるべきことを選んだ。最初のあいさつとしてスピーチすることを条件に、パーティーへ出席することを鳴海さんに約束した。
その日、貸切られたホテルの会場に入ると、反響しあう大勢の人々の声に顔をしかめた。何人来ているのだろう。私ですら知っている芸能人が来ている。カメラマン、背広の人、ドレスの人……。そして、本当の史緒さんも知らない幸せな人たち。
会場の真ん中に置かれた立派な舞台へと歩いていく。係りの人が、私に手振りで「あがって」と示してくれた。脱いだコートをその人に渡して小さな階段を上がる。照明が当たるマイクの前に立つと、私は深々とおじぎしてから話し始めた。
「お招きいただき、皆様に深く感謝いたします。私は蒔田紫乃と申します。『久遠のまなざし』の原作者、黒原史緒の恋人として、仕事のパートナーとして彼女を支えていました。驚かれましたよね。こんな骨太の作品を書く作家が同性愛者だったなんて」
近くで見ていた鳴海さんが目を丸くしている。えらそうな男の人がそこへ足早に近づいてくる。会場がざわつき始めた。私はそれを全部無視して話を続ける。
「ずっと伏せるつもりでいましたが、この場で皆様にお伝えすることにしました。私はそうすることを選びました。彼女が私の幸せを選んだように、私も彼女の幸せを選びたかったのです」
深く息を吸い込む。それから一気に話し出した。
「黒原史緒の最後の作品は遺言状でした。
ひとつは病院で『純粋失読』を告げられた日に書かれていました。法的な婚姻関係を結べない私に、財産、著作権のすべてを相続させるという内容でした。それは私がこの先暮らしていくには、じゅうぶんすぎるものでした。その遺言状の最後には『愛している。こんなものしか残せなくてごめんなさい。いつまでもずっと幸せに』と書かれていました。
もうひとつは死ぬ間際に書かれたものでした。病状が進み、書かれている文字は文字として読めないものでした。それでも『愛している。幸せになってほしい』と必死に伝えようとしていたのはわかりました。いっしょにいたのですから。愛していたのですから。読むことはできなくても伝えたいことはわかりました」
いつのまにか声が止んでいた。静まり返った会場で、私の声だけが流れていく。
「史緒さんには何度もチャンスがありました。私と出会わなくてもよかった。私といっしょに暮さなくてもよかった。もしかしたら病気を回避することすら、できたかもしれません。でも、史緒さんはそれをしませんでした。
もし未来が見られるとしたら、あなたは自分の幸せを選びますか? それとも大好きな人の幸せを選びますか? どうか考えてみてください。チャンスはたくさんあります。史緒さんと違い、あなたたちはまだ生きているのです」
ふっと史緒さんが横にいる気がした。だからその先も話すことができた。
「この場で話すことではないかもしれませんが、私が幸せになるように選び続けた彼女のために、私に愛していると伝えてくれた彼女のために、このことをお話しさせていただきました。
作家というのは、自分の想いを誰かへ伝えることが幸せだと感じる生き物です。私は史緒さんのそばにいたので、それを良くわかっています。史緒さんが選び、伝えようとしていたことを、どうか皆様の心の中に残してください。それが作家『黒原史緒』の幸せであり、そのことが私の幸せでもあると思っています」
話が終わったことを知らせるように、私は頭を下げた。そうしないと涙がこぼれそうだった。
顔をあげる。みんな黙って私を見ていた。鳴海さんが初めに手を叩いてくれた。ぽつりぽつりと同じ音がした。やがて拍手が反響しあい、大きな会場に鳴り響いた。
史緒さん。これも夢で見ていたことなんですか? 私は選んだよ。自分の幸せを。そして、あなたの幸せを。
書けない私と読めない彼女の、幸せに至る選択 冬寂ましろ @toujakumasiro
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