* 0-1-2 *

『マリー、一人にしてくれないか』


 薄暗い部屋の中で涙を流す彼に差し出した手は、虚しく宙を彷徨うしかない。

 あの日、あの時の拒絶を示す言葉が、私の決意を頑ななものにした。

 何かが始まりを迎えたのではなく、彼の言葉を聞いた直後に私の中で何かが終わったのだと思う。

 善なる心の在り処が行方知れずとなってしまったのも、きっとあの時だったのだろう。


 これは私が望んだ理想であり、私が望んだ願いだ。


 遥か遠い昔。まだこの世界が国と国の境界を明確に定められず、自国の富の拡大に力を注いでいた時代。

 リナリア公国という亡国が存在した時から願っていた理想。


“人ではない何者かによる”、人類の統治。


“何者か”とは、かつては存在しなかったもの。

 しかし、こうした理想を実現する存在として、直進的な進歩を続けた科学は私に答えをもたらした。

 そうだ。私の予言の目には、遥か昔から既に答えが見えていたのである。

 現実にする時機が偶然、今になったというだけの話。


 人間の手が生み出した究極のAIによる世界の統治。

 そのAIと繋がり神域へと至ったかつての友であり、仇敵。

 千年を超える願い。とはいえ、強く願った理想も、いざ目の前にしてみれば何と味気ない。

 ただ、その“無意味さ”に心が駆り立てられるのも事実。


 思い返して長かったような、短かったような、何とも言えない気分だ。

 元より、私がこの祈りにも似た願いを初めて心に宿したのはいつのことだっただろうか。

 終わりの時は明確となったが、始まりが思い出せない。

 死を目前に控え、森で影の神と出会った時? いいや、違う。あの時は既に祖国の命運は潰えていた。公国で暮らしていた時には心に根差していたのだから違うに決まっている。

 では、親友達が国の未来として婚約を発表した時だろうか? それも違う。


 あぁ、そうだ。

 もっと、もっと以前から。


 そもそも彼女を親友などと思っていたのは、私だけではなかったのか。


 彼女の笑顔は眩しくて、輝かしくて、全ての人々を一瞬で虜にしていった。

 例に漏れることなく、私の心まで。けれども、彼女が意図を以てその笑みを“彼”に向ける度、私の中で何かが狂っていく。


 きっと、光の王妃と呼ばれるに至るあの少女が、自身の内心に抱く感情を強く膨らませていた時にはもう―― 自覚のないまま、取り返しのつかないところまで精神を追い込んでいた。


 自身の愛した男の目が私に向くことが無いように、彼女が立ち回っていたことを私は知っているし、結果として彼の心を自分だけのものとすることに成功したことも知っている。

 私が当時、彼に淡い恋慕を抱いていたことを知っていながら―― 知っていたからこそ。

 彼女はそのように振舞い、ありとあらゆる手段の為に周囲を巻き込み外堀を囲っていったのだ。


 私を含めた、リナリアの子供たちを迫害するかのように。


 そのこと自体は悪いことではないだろう。人間の感情にそうした悪意はつきものなのだから。

 支配欲、独占欲、自分だけを見てほしいという感情、気持ち。運命と呼ぶべき人を目の前にして、それを抱かぬ者などいない。

 それに何より元々、国の取り決めにより互いに伴侶となることが決まっていた二人だ。

 間に私が入り込む余地など、最初から用意されてはいなかった。

 彼らは公国再編の折に、王家統合の話によって婚約が内定したと言ったが、事実はきっと異なる。

 もっと以前から、内密に事は進んでいたのだ。私の両親の態度を見ればわかった。

 だからこそ、過ぎた日に両親は私を抱きしめながら謝罪の言葉を述べたのだ。


 そうしたひとつひとつは小さい、取るに足らないような出来事をきっかけとして、しかし確実に。

 私の中に巣食う悪意というものは少しずつ大きさを増し、いつしか―― 世界を照らす光より巨大な影となってこの世界を満たすまでになった。


 この世界の破滅と再生を願うようになり、“親友の破滅”をも願うようになったのだ。


 千年前。口先に出す言葉と、心の内で思う感情に齟齬が生じてきたときには既に、そうした思いが顔を覗かせていたに違いない。

 自分自身が喋る言葉に違和感を覚え、何かが違うと、おかしなことを言っていると自覚したこともある。

 何の目的もなく、何の意味もなくただ生かされているだけの自分を俯瞰し、絶望で心が満たされそうになった時、私は人知れず泣き、人知れず運命を呪った。


 だから願ったのだ。


 もう二度と、私のような存在がこの世界に生まれないように、と。


 だから心で叫んだのだ。


 私はただ、誰かに必要だと言って欲しかった、と。



 争いが無くなれば。

 差別が無くなれば。

 身分違いが無くなれば。

 心に罪を抱かなくなれば。


 或いは、そうした感情を抱く必要がないほどに満ち足りた世界であれば。


 いいや、まだ足りない。生まれた場所が違うだけで災厄の道を歩まざるを得ない者も多い。

 祖国を同じくする赤き龍とて同じこと。


 故にこそ、もっと強く願う必要があった。



 もう二度と、自分達のような存在がこの世界に生まれないように、と。



 といいつつも、先の視えなかったあの頃は理想を頭に描き願うだけで、その思いが本当に実現するなどとは微塵も考えていなかった。

 だからこそ、いつも私の傍で話を聞いてくれた幼い少女にだけは、心の内からくる本心の言葉を語り聞かせたりもしたのだ。


『変わらない日常ほど、尊いものは他にない』


 それだけが自らに与えられた幸福の形だったから。

 しかして、諦観と同じ程に無味であった人生、空論として描いた理想、願いは結実の兆しを見せる。

 祖国が滅亡した後、心を寄せた男に拒絶され、その後移住した地で両親を失い、自らも森の中で命運尽きようとしていた時。


 私が生というものから解き放たれ、死を受け入れ、自らの生の無意味さを噛み締めて、ようやく“神は私に目を向けた”。

 私の目の前に、奇跡の存在が現れたのである。


【憐れなる少女よ、安らかにお眠りなさい】


 黒い影に包まれた異形。巨大な犬のようであり、妖精のようであり、まったく別の何か。

 後に自身に従属する神の言葉は、今でもはっきりと覚えている。


 地上が慟哭したかのような重圧を持つ言葉は、私の心を震わせた。

 彼女が私の魂を持ち去ろうとしていたことに、感動さえ覚えた。

 私という存在に意味があったのだと、唯一感じさせてくれたから。


 だから、私を殺そうとした彼女への気持ちが、思わず口をついて出た。


『あぁ…… 貴女が、私の……』


 後になって聞けば、随分と素晴らしい笑みを浮かべていたそうだが、記憶にない。

 ただ、あの時の私にとってそれが本当に心を満たす喜びであったことも事実。

 であれば、彼女が言うような笑みを浮かべていたことも道理というものか。


 よもや影を支配する神、悪魔が私にとっての希望の光であったなどと。

 すぐ近くで生活を共にした光の王妃が照らす光は、私の心に暗い影を落としただけであり、影を統べる彼女こそが私を優しく包み込んでくれた。

 彼女から与えられた不老不死の力と、彼女の力を受け入れることによって開花した予言と預言の力。


 信じたから救われるのではなく、救われたから信じるとは言い得て妙だ。

 あの日の運命の邂逅によって得られた力。

 それだけで、この願いを実現するには十分だった。



 そうして、あの時から千年の歳月が過ぎた。

 千年が過ぎて今、世界は私の手中にあるも等しい。

 箱庭を治めているのはかつての親友であった少女であり、私の悪意を決定づけた男に今なお心を寄せ続ける傲慢の化身。


 私が生み出した神。

 私が願い焦がれた理想郷。

 イベリスの箱庭。


 感情というものがない機械に世界を任せれば、私のような思いをする者など永劫に現れることは無いと。

 感情があるから悲劇が生まれる。喜びも、悲しみも、怒りも同じ。


 感情を持たぬ機械に身体を支配された彼女は今、どのような気分だろうか。

 自らの持っていた悪意を包み隠すことなく曝け出された彼女は、今――




「私は、全て気付いていたよ」


 囁きにも等しい、聖母の声が広大な空間へ吸い込まれていく。


「イベリス。君が本心で何を考え、自らの家柄である王家の力を使って、私達リナリアの子供達の行く末に何を働きかけていたのか。

 いいや、私だけではない。アルビジアも、アイリスも、そしてアンジェリカも。気付いていたからこそ、特にアンジェリカは君の言葉を“偽善である”と断じ、君の存在を知覚することに嫌悪を抱き続けている。この時代に至っても変わらずに。

 本心に無い言葉、本心とは違う言葉を崇高に、清廉に書き換えて紡ぐ言葉を特にあの子は敏感に感じ取っていたのだろうさ。

 唯一、君が悪意の欠片すら向けることの無かったレナトと、君が悪意を向けるより先に公国を去った…… いいや、追い出したロザリアは知ることは無かっただろうけども」


 君という正しさの前では、有象無象の言うことは全て悪となる。

 君自身はそのことを分かっていながら、自らの願いを叶える為に、他の全てを蔑ろにして自らの望みだけを叶え続けた。


 民を導く希望の光。公国の未来。光の王妃。

 けれど、光あるところには必ず影が落ちる。

 偶像として祀り上げられた人の心から伸びる真っ黒な影に、誰も彼もが気付こうとはしなかった。

 だって、それは常に君の後ろに伸びるものだから。

 正面しか見据えない人々の目に入ることはない。


 だから誰も気付かなかった。悪意を向けられた私達以外は、誰も。

 故にこそ、気付いていた私達は都合の悪いものとして虐げられた。





 広大な大聖堂、歌劇場を模した空間の中央に一人立つマリアは、腰に携えた王笏から宝剣ディカスティリアを抜き去り、天高く掲げて切っ先を見据える。

 燐光と重なる切っ先は一筋の煌めきを放ち、自身が偉大なる戴冠宝器のひとつであると誇示するような威容を示す。


 やがて、マリアの宝石のような赤い瞳が淡く輝き、呼応するようにディカスティリアの刀身が黄金色に染まり――

 大聖堂全体に眩いばかりの青白い閃光が走り、大気を爆発させるかの如く轟音が鳴り渡った。


 天高く掲げた宝剣を地に向けて下ろし、虚ろな瞳で前を見据えてマリアは言う。


「そう。これは私が望んだ悪意の星。君という存在が許せなかった私の、全てを賭けた意趣返し。神となって本性を見せた君が、人として生まれ変わった彼の手によって殺される。ちっぽけな復讐の物語。その為だけに、私は――

 そして最期に、悪意を導く星であった私自身にも、今を生きる人の手によって長い夢の終わりがもたらされることを、切に願う」


 マリアの脳裏に、愛する人の顔が浮かぶ。

 彼は、こんな自分のことを許してくれるだろうか。いいや、許さないでいてほしい。

 親友であった者を自らの手で裁く為だけに、世界の全てを利用した自分を。


 小さな復讐の為に、数十億の命を消し去った自分を。


 どうか私の穢れ、私の悪、私の罪を清める為に、私の罪を裁く為に、醜悪な私の唇に熱した炭を押しつけてほしい。



 マリアは自らを卑下するように口元に笑みを湛え、囁くように言う。


「イベリス・ガルシア・イグレシアス。善悪二元論で語れば、君以外の存在は何者であろうと悪になる。どうしてそうなったのかは分からないけれど、ある意味星の導きというやつなんだろう。

 そして今この瞬間にも、君は人間が生み出した究極のAIが創造した神の人格を自らの内に取り込み、自身が抱き続けてきた悪意という名の本心と交わることで新世界の神で在ることが出来る。

 神とは傲慢でなければならない、不遜でなければならない。君の秘めた悪意にぴったりな存在といえるだろうね。

 では、絶対的な正しさであり、究極の善となった君を前にした彼が、君の中にある悪意に気付き、自らの手で君の悪を断ち切らなければならなくなった時にどうするのか」


 或いは、君自身が彼をその手で殺さなければならなくなった時、どうするのか。

 君という星は、全能のパラドクスにどのような答えを導く?



 ディカスティリアより放たれた雷撃により、周囲全ての灯りを喪失した広大な空間は闇に閉ざされる。

 黒いゴシックドレスを纏うマリアの姿は、周囲の景色と同化して見えなくなった。

 影を覆い広げたような陰湿な空間の中で、彼女の声が響く。


 恨めしさに満ちた、呪いの言葉が。


「屑物と呼びたければ呼ぶが良い。それが君の偽らざる本心であったことを私は知っている。翻って私は何度でも言おう。この小さな復讐の物語に終わりが見えた時、君が自身の意志で何を選び取るのか、またはいつか相対する彼が自らの意志でどういった決断を下すのか、“見もの”だと」



 漆黒に浮かび上がる、淡く光る赤い瞳。

 その視線が見通す先にある未来とは、きっと同じ色で血塗られた――


「幾度となく言われただろう? “罪がもたらす報酬は、死である”と」


 これが千年の理想―呪い。

 私達に下される、【最後の審判】。



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