* 1-2-2*

 自身が握った手は、神のものだったのか、一人の少女のものだったのか。

 化物の手だったのか、人間の手だったのか。


『遠い昔にはこういうものは無かったから、凄く新鮮ね。爪を可愛く飾ろうと考えた人は素敵だと思うわ』


 自分より遥かに長い時間を生き、それでいて自分より年若いのに大人びて見える少女はそう言ってから、こう続けた。


『これを見たら、玲那斗は“可愛いね”って言ってくれるかしら』


 屈託のない笑顔で。

 悪意のない笑顔で。

 ただ、ひとりの愛に生きる女性としての顔を見せながら、確かに彼女は言ったのだ。



 自室のベッドに座るホルテンシスは、先ほどのイベリスとのやり取りを思い出しながら考えた。


 彼女の心の中に見えたもの、感じたものの中に悪意など微塵も存在しなかったというのに。

 大聖堂で見た、恐怖で全てを支配する彼女とはまるで違う姿を見て“わからなくなってしまった”。


 遠い目をして塞ぐホルテンシスを見て、彼女の部屋に足を運んでいたシルベストリスが隣に腰を下ろして言う。

「ホルス、深く考えてはならないと思うわ。あの御方は人であって人ではない。マリア様のおっしゃる通り、私達とはまるで異なる存在。今という理想世界の頂点に立つ、神様と呼ぶべき御方なのだから」

 すると、ホルテンシスが反応を示すよりも先に彼女の反対側で膝を抱えて座るブランダが続けた。

「私も、そう、思う。イベリス様は、何もかもが特別な、御方で…… その、私達があの御方のことについて、どう考えるかなんて、あまり、意味は無いんだって」


 しかし、彼女達の言葉に珍しく反対するようにホルテンシスは言った。

「分からないよ。私には分からない。玉座の大聖堂で私達を押さえつけた凄い力。あんな恐ろしい力を持つ御方が、私の目の前に座られた時にはまるで違う方であるかのように振舞われて…… どちらが本当のイベリス様なのか。どちらも違う、偽りであるのか。それとも」

「そのいずれもが本当にあの方自身なのか」

 言葉を引き取ってシルベストリスが言う。

「不遜を承知で言えば、嘘が得意な方では決してないと思うわ。いつだって真面目で、真剣で」

「でもね? 私にはイベリス様の心を少し感じ取ることが出来た。私の心に、感応した。その時の感覚が、凄く温かくて。それが、その……」

 ホルテンシスは言葉を言い淀みながら、自身も両膝を抱え込むように抱いてその中に顔を沈めた。


 感じ取った心が、マリアのものより温かく感じられた。

 もしかすると、そんな風に言いたかったのではないか。


 これは姉妹としての勘だ。シルベストリスとブランダは互いがそのように、結局紡がれなかった言葉の先を汲み取った。


「ねぇ、ホルス」


 慰める為、気を鎮める為。

 そういった意味を込めてシルベストリスは彼女に言葉を掛けようとしたが、その言葉に被せるようにホルテンシスが先に言う。

「正しさって、何だろうね?」


 言葉が、重たく部屋に満ちた。

 善と悪の考え方など、立つべき立場によって如何様にもなる。

 ずっと昔からマリアに言われてきた言葉で、その時何が正しいのかは自らの心で判断するようにと教えられてきた。

 まだ、片手で自分の歳を数えられる時分だったときの話だ。


「私には、分からない。マリア様が正しいと信じているけど、さっきお相手をしたイベリス様が悪意だなんて風には見えなかった。何を正しいと思って、何を悪いと思えば良いのか。

 ねぇ、トリッシュ。私達はマリア様とイベリス様と同じ立場に立っているのに、こうも違うものを目の前にして―― 私達はどうしたら良い? 誰の言葉を信じたら良いの?」

「ホルス……」


 シルベストリスは言葉を言えずに呑み込んだ。


 大聖堂に初めて彼女が姿を顕したあの日以来、アネモネア姉妹達は一人の女性としての相談をイベリスからそれぞれされる立場になった。

 時にはお洒落について語り合ったり、女性同士の会話に花を咲かせたり、彼女の恋心について話を聞いたり、反対に姉妹達の恋愛について尋ねられたり。

 そうした日常を過ごす中で、イベリスに対する恐怖心や感情は日に日に変化を遂げていった。


 ただ一人の女性として見ると、彼女は正しく“愛の為に生きる女性”そのものだ。


 同性として理解が及ぶ。気持ちが分かる。

 だからこそ、マリアが彼女への復讐心から“愛する人と殺し合いをさせようとしている”ことについて猜疑心が生まれてしまう。

 反対の立場に立てば、マリアの言うこと、やろうとしていることも分かる。

 怒りを持ち、いつかは恨みを晴らそうという気持ちも理解できる。それがマリアにとって単純な怒りや恨みという感情なのかは知れないが、そういうものが沸きあがるというのは理解が及ぶ。


 迷ってしまうのは、きっと。

 二人のことについて、知ってしまったから……


 ふいに、ブランダが言う。

「もしかすると、アイリスもずっと、こんな気持ちだったのかも、しれないね」

「アイリスが?」

 不思議そうな表情でシルベストリスが言うと、ブランダは深く頷いて言った。

「アイリスもアヤメも、マリア様に、敬意を以て接していることは、分かるけど、あの子が、同じようにフロリアンに、特別な感情を持っていることだって、よく分かる。

 二人とも、気付いているんでしょう? 私だけじゃ、ない。特に、ホルスは、もっと深く。アイリスの考えていること、知っていたはず。気付いていたはず」


 彼女の言葉を受け、ホルテンシスは身を縮ませながら言った。

「卑怯だって、思ってた。自分のこと。知っているのに、知らない振りをしてさ。ブランダの言う通り。私はアイリスの想いをずっと知ってた。でも、どうやったらそのことを誰かに言えるっていうの? 想いを寄せた相手がフロリアンで、彼の相手はマリア様。絶対に、絶対に叶わないと分かってる想いでもあり、決して口に出すことすら許されないもの。知らない振りをするしか…… ないじゃない」

「そう。知らない、振りをするしかない。でも、今は違う。私達だって、向き合わないといけない。自分で、選ばないといけない。アイリスとアヤメが、自分の命を、助けてくれたフロリアンとマリア様の間で、考え込んでいるように。私達にとっての、正しさというものを」


 彼女の声はいつになく力強かった。

 これまで、シルベストリスやホルテンシスの影に隠れて、守られてばかりだったブランダが自分の口で二人に強く意見することは珍しい。

 ある特定の考えを共有する時、常に二人の意見に追随して同意するのが常だった彼女が、こうも自らの言葉で決意を促してくるなんて。


「私達にとっての正しさ、か」


 ホルテンシスが呟くと、シルベストリスが彼女の肩に頭をもたれながら言った。

「私が素直に本心を言うなら、今悪意を持っているのはマリア様だと思う。今は黒い王妃、影の王妃と呼ばれてしまうイベリス様だけれど、ホルスと話をするあの方を見ていた時も、私に語り掛けてくるあの方を見た時も、本当に優しくて。心の迷いを話したくなってしまうような、縋りたくなってしまうような、そんな風に感じていたの。だから……」

「それでも、玉座の大聖堂で私達を地に平伏させて、屑物と呼んだのもあの御方。本心でないなんて思えない」

「そうね。分かっているわ」


 そうだとしても。

 二人の話を聞き、ブランダが言う。

「どっちの、味方をするなんて、話ではなくて、お二人とも、仲良くしてもらう方法が、私は良いと思う」

「理想ではあるけど、きっと無理。顔を合わせれば、お二人がいつ目の前で酷い争いを始めたって不思議ではないくらいだというのに」

「そう、だけど」


 そこで一旦言葉を区切ったブランダは、静かな口調で言う。

「ヴァチカンの、機密文書館で、私、見たんだ。リナリア公国のこと。マリア様に、言いつけられた黙示録の内容を、全部覚えた後で、少し、気になって」

「リナリアの歴史を?」

「そう。昔在ったあの国が、滅びてしまう、間際のことだけだけど」

「何て書いてあったの?」

 シルベストリスが言うと、ブランダはほんの少し迷いを見せつつも、はっきりと言った。

「詳しいことが、たくさん書かれていたけれど、書かれていなかったことの方が、目立っていた」

「書かれていなかったこと?」

「うん。マリア様の、ご実家である“オルティス”の家系については、ほとんど内容が無かったの。まるで、意図的に消されたように」

「それだけが?」

「それだけじゃなくて、アンジェリカの家、インファンタのこともほとんど記載は無かった。けど、彼女の家は、公国の闇を担う家だって、聞いたから、当然かなと思う」

「でも、マリア様のご実家は違う」

「そう。書いていなければ、おかしいことが書いて無かったり、前と後ろの辻褄が合わない記載があったり。とにかく、変だった。サンタクルスや、ガルシアのことについては、凄く詳しかったのに」


 神妙な面持ちで話すブランダの言葉を聞いて、シルベストリスとホルテンシスは思う。

 過去の清算。きっと、それがマリアという少女の悪意の始まりだったのだと。


 尊ぶべき人、敬愛すべき人の悪意の始まりはおよそ千年前の文献にまで及び、自らの存在そのものが悪であると最初から認めていた。


 言い換えて【悪を演じることを決めたマリア】と【善を演じることを決めたイベリス】の二人の関係は遠い昔から始まっていて、その終点が今という時代に訪れた。

 しかし、だからといって互いの全てが真逆であるとも言えず、マリアの善性もイベリスの悪性も、今の世界には同じように存在し続けている。


 何が正しくて何が間違っているのか。


 こうした中で物事を判断するのは非常に難しい。

 ブランダの言おうとしていることを汲んで、ホルテンシスが言う。


「私達は、私達で見つけるしかないんだ。どちらが正しいかではなくて、自分達にとっての正しさを。凄く困難なことであっても、その答えがお二人の仲を元に戻すということであるのなら」

「私達はそれを叶える為に日々を過ごすようにする」


 呼応してシルベストリスが言った。

 叶わぬ理想でしかないのだろう。しかも、これを元々は完全な部外者である自分達が成し遂げようなどと。


 それでも――


「信じたなら、やるしかないんだ」

 ホルテンシスは言うと同時に、ある人物の顔を頭に思い浮かべた。


 ヴァチカンで総大司教の地位を戴く、一人の修道女の姿を。

 彼女が天空城塞側に寝返った理由。心を読むことが叶わないから、ずっと疑問に思いながらも謎でしかなかった問いが、今ならなんとなく理解できる。


 一度瞳を閉じ、再び前を見据えたホルテンシスは二人の姉妹に言う。

「トリッシュ、ブランダ。私達は自分達で決めて、選ばないといけない。もうすぐ訪れる、クリスマスの日までに、自分達の心を」


 盲目のまま、ただマリアの意思に付き従うだけが彼女の為になるわけではない。

 彼女を心から愛しているのなら、来たるべき日に伝えるべきことがあるはず。

 今まで心で、頭で考えていたこととはまったく別のことが。



 イデア・エテルナに在る、神とはまったく異なる“もう一つの三位一体”の意思は、岐路に立たされた自分達の道筋を決めて再び歩き出そうとしている。

 その先にある結末が、望んだものではなかったとしても。



 何もせずに、後悔することだけはしないようにと。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る