マリス・ステラ -最後の審判-
リマリア
序章 -Code Stella Maris:■-Day 1034/12/25-
序節 -導きの星、偽りの光-
* 0-1-1 *
『レナト、見て。大きく輝いている星。あの星に名前はあるのかしら?』
千年も昔、私は彼にそう問いかけた。
冬の冷え込みが厳しさを増す最中にあって、私に優しさと温もりの全てを注いでくれた人の隣で。
そう問いかけたからといって、本当は星の名前が知りたかったわけではない。
ただ、彼と一緒に一番輝いている星を一緒に眺めたという事実。そして、同じ星を眺めて同じ時間を共有したという事実。
その中で、二人の記憶にしか残らない会話を交わす。
それだけで良かったのだ。
『どうだろう。星のひとつひとつ全部に名前が付いていたらきっと大変だと思うよ。こんなにたくさんの数があるのだからね』
彼は困ったように言い、言葉は途切れてしまった。
あぁ、違う、違うのよ。それは駄目、いけないわ。
ここで話が終わってしまっては味気ない。何より、私の欲望が満たされない。
私はただ、図々しくも彼という存在を独り占めしたかったのだ。
彼の視線、彼の言葉、彼の温かさ。それらの全てを私だけのものにしたい。
もっと欲しい―― 彼と二人だけの思い出が。他の誰も知らない、彼と二人だけの記憶が…… もっと。
だから彼の言葉を、声をもっと聴く為に、この耳に、脳に焼き付ける為に私は言った。
『そうかしら。でも、もし名前があったとしたら素敵なことだと思うわ。大きくても小さくても、輝く星々ひとつひとつに個性があって、それを表すものがあるとしたら私はとても素敵なことだと思うの』
優しい彼が、冷え込むから城内に戻ろうなどと言い始めたら大変だ。
彼と同じ星を眺めた時を、長く過ごし続ける為に私は嘘まで吐いて彼の善意が働くことを止めようとした。
本当は知っていた。
二人で目にした星は多くの人を惹きつけて止まない極上の輝きを放つ一等星。
遠い遠い昔であっても、学問を齧る者ならば一度は名を聞く星である。
特に、占星術に政治を託し、王家お抱えの占星術師まで雇用していたリナリアの貴族に至っては、あの星の名を知らぬ者などまずいない。
でも、私は知らない振りをした。自らの欲望を満たす為だけに、この口で嘘をついたのだ。
仕方ないじゃない?
ただ偏に、彼と一緒に話をしたかったのだから。
彼の視線と、声と、温もりと、優しさを独占したかったのだから。
彼はやはり困った風な顔を見せて考え込む。
そうして、やがて私の意地悪な問いに彼は真摯に向き合って答えてくれた。
『そうだね。――いや、待てよ。そういえば確か、先生が教えてくれたことの中にそんな話があったような』
『本当に? ということは名前がついているのね?』
『それぞれの詳しい名前までは憶えていないけど、君の言う通りだ』
『ひとつひとつが、どんな名前なのか気になるわ』
彼の顔には焦燥が浮かぶ。
きっと今頃、家庭教師に教えてもらったことを必死に思い出しているのだろう。
私の為に。私に良いところを見せたくて、必死に。
“私だけの、為に”
あぁ、なんて愛おしいのだろうか。
ついでに言ってしまえば、彼が最初から空に輝く星ではなく、私の横顔ばかりに見惚れていたことにも気付いていた。
でも、“それが良かった”のだ。
大空を埋め尽くす漆黒のキャンバス。
黒い帳に散らされた星々の輝きより、彼にとって私の方が輝く一等星になれるのなら。
これ以上に嬉しいことはない。
そうよ、レナト。貴方は私だけを見ていれば良いの。
他の何者にも目を向けず、生涯に渡って私だけを見てくれていれば、それだけで良いの。
邪な感情。
ドロドロとした想いを心に満たし、私は彼の言葉を待つ。
すると彼は言った。
『実はね、全部は覚えてないけど、今空に見える一番大きく輝いている星の名前だけは覚えているんだ』
『本当? 教えてくれるかしら?』
得意げな表情で言った彼の視線が再び私を捉える。
私の愛した、私だけの彼の視線。他の誰にも向けてほしくなかった、私だけの。
その瞳に見据えられるだけで、幸せだった。
彼が何を期待していたか知っていた私は、彼が堂々と答えられるように敢えてそのように言い、彼は満を持して“たった今”思い出したのだろう答えを私に教えてくれた。
『あそこに輝いている一番大きな星の名前。それが“シリウス”だ』
『シリウス―― とても良い名前ね』
その星の名は“焼き焦がす者”。
私の心を、尽きない熱量で焼き尽くそうとする星の名だ。
私にとってその星とは、空に浮かぶかの有名な一等星ではない。
いつだって目の前にある、すぐ傍にいる、将来は同じ道を歩むと定められた彼。
私は感情を抑えきれなくなって、彼の名を呼ぶ為に言った。
『物知りなのね、レナトは』
この言葉に、彼の顔が火照ったのが見て取れる。
何を言えばいいのか分からないという風に、困った顔を見せる。
彼の機微は分かりやすい。分かりやすいからこそ、こうして困らせてみたくなる。
その反応が可愛らしくて、愛おしくて――
私だけのものにしてしまいたい。
いつだって、そう思っていた。
だが、この時既にその願いは、ある意味では叶っていた。
王家の密約と共に、私達は両家の間で婚約を決めていたのだから。
でも、彼を国の象徴に据え、国民のものとして戴冠させるだなんて絶対に嫌。
私だけのものでなければ嫌なの。
どれほど強く望んでも、その願いだけは叶うことはなかったが、それは仕方ないことなのだろう。
今目の前にある幸福を噛み締め、享受できることに満足すべきなのだ。
なぜなら私はこの幸福を手に入れる為に、多くの者を生贄として差し出したのだから。
そう。彼を手に入れる為に目の前にあった者を…… ありとあらゆるものを私は、利用した。
彼が素敵な笑みを向け、それに応えて微笑む私。
傍から見られることがあれば、さぞ幸せそうに見えただろう。
しかし、多くの人々は気付いていない。気付かない。
私という女の暗闇に。光と呼ばれる私の笑みの後ろに大きく伸びた、影に。
私は卑しい女である。
彼の誕生日、12月25日の夜に星の塔の屋上へ二人で上がり、星を眺めたいというのは私の希望であった。
当時、王家の居城である星の城を我が家としていた私は、星の塔から見える素晴らしい星空がどの頃合いに最大の輝きをもたらすのかを熟知していたから、その星空という景色を彼にプレゼントするという名目でそんなことを提案したのだ。
でも、本音は違う。
私が彼にプレゼントしたかったもの、贈りたかったものは無い。
私は彼から欲しがったのだ。私が求めていたもの、私が欲しいと思ったものを彼にねだり、彼に叶えさせようとした。
唯一、私が彼に与えたとすればただひとつ。私が彼を求めるのと同じように、彼が私の視線と声を欲しがっていることを知っていたから、そんな希望に沿って“私”を与えたということ。
穢れた内心を隠し、見えないように取り繕い、理想の仮面を被る“偽りの光”を。
いつだってそう。どんな時だってそうだった。
『知識はいくらあっても足りない。しっかり全部覚えないといけないって先生がうるさいんだ』
『うふふ、毎日険しい顔をしながら机に向かっている貴方の顔が浮かぶようだわ。でも、大切なことよ』
『いつも授業を抜け出して遊びに来る君に言われると、少し何とも言えない気分だ』
『私は良いのよ。私の知らないことを、貴方はたくさん知っていて、“いざという時はきっと私のことを助けてくれる”のだから。そうでしょう?』
照れ隠しのように、天邪鬼な言葉を言う彼を見て愛しさが心に込み上げ、胸がいっぱいになる。
本当は私が嘘をついていることなんて知らずに、一生懸命に私の為に尽くしてくれる彼。
あぁ、駄目よ。そんなに私の心を刺激したら駄目。でも……
ねぇ? こんな時間が“永遠”に続くのなら、それはとっても幸せなことだと思わないかしら?
その果てに、何があろうと貴方はきっと。
“いざという時はきっと私のことを助けてくれる”
たとえこの先百年、二百年、千年の時が過ぎ去ろうとも。永劫に。
私の為だけに。
私は彼がどんな反応をするのか知っていて、敢えてしなだれかかるように熱っぽく彼の名を呼ぶ。
『レナト』
冷え込む日に、身を寄せ合って囁き声で語らう。
この特別な一瞬の1秒1秒が私にとっては何物にも代えがたい幸福な時間。
国の為、国民の為、王家の為、貴族の為、未来の為――
そんなこと、本当はどうだっていいと思っていた。
この身に背負うにはあまりにも重く、私の願う自由を束縛するものでしかないと。
けれど、運命というものはその定めから逃げることを許さない。
であるならば、こうした我儘のひとつやふたつ、叶えられて然るべきだろう。
たとえそれが無二の親友の心を踏みにじり、裏切りの果てに手に入れた幸福であったとしてもだ。
月を惑わす星の行方を知る者は、もう誰もいない。
彼の心が手に入るのなら、他に何もいらない。
世界の全てが無くなってしまったとしても、彼さえ傍に居てくれればいい。
同じように、彼には私だけがあれば良い。
ただし――
そんな日常を続ける為に、リナリア公国の未来が存続する為には条件があった。
私の願いを実現する為には世界というものが争いを止め、互いに手を取り合って歴史を紡いでいくしかない。
それが叶わぬなら、滅びの道を辿るしかないところまで、もう引き返せないところまで公国が追い詰められていることも実のところ知っていた。
だから願ったのだ。
世界の全ての人々が、己の持つ力でより良き未来を紡ぐことができるようになってほしいと。
“人の持つ可能性”を信じて。
全ては、自分の焦がれた願いだけの為に。
私の為だけに。
これが、光の王妃と呼ばれた女が抱く思想の全てだ。
何と醜きことか。何と醜悪なことか。
彼が見つめ、見惚れた一等星は紛うことなき“悪意の星”である。
きっと、だからなのだろう。
領土拡大戦争レクイエムの最期に、王家の人間として星の城に残った私は、周囲を囲む煙に呼吸を奪われ、意識を失った後に炎に身を焼かれ、自らの居城であった建物の瓦礫に圧し潰されて生涯を閉じた。
屑物、俗物と呼ぶに値する女には、実に相応しい末路ではなかっただろうか。
気付いていたし、知っていた。
これが他者の心を惑わし、騙し続け、自らの幸福だけを願い続けた者に用意された末路なのだと。
アンジェリカがよく口にしていた言葉を借りるなら、“罪がもたらす報酬は、死である”。
まったくもって、その通りだと思う。
レナトに恋心を抱いたマリアを遠ざけ、神に仕え他者の心を見透かすロザリアには近付かずに公国から追い出し、一人木陰で寂しそうにしていたアイリスを内心で嗤っていた。
自分が果たせない務めを代わりに果たす者として、アルビジアを第二王妃へ仕立て上げることであらゆる責務を彼女へ押し付け、薄汚れた仕事や関わりたくない悪事はアンジェリカに裁かせようとした。
王家という立場と、同じ時代に生まれた子供達の全てを利用して、私は私の願いの為だけに生きた。
だって、それが各々の役割だったのでしょう?
私は何も悪くないわ。
だから、本当のところは罪悪感など抱いたことは無い。
私が悲しむ振りをすれば同情を得られたし、慈しむ振りをすれば皆が褒め讃えた。
私が何かを口にすれば皆が賛同をしてくれたし、私の言うことは誰もが素直に聞いてくれた。
都合の良い環境を確実なものにする為に、他者や国民の心に寄り添う演技までして見せて。
そういう星回りの元に生まれたといえばそうなのだろう。
きっと単純な話で、王家に生まれた私には、誰も掴めない幸福を自らの手で掴む権利が最初から握られていたという、ただそれだけの話。
故にこそ、この身が亡ぶ最後に怒りも、恨みも、憎しみも嘆きも後悔も抱かなかった。
共に寄り添う未来が叶わぬのなら、せめて。
私が死ぬことで、彼が永劫に消えることの無い心の傷を抱え、永遠に私の存在という記憶を脳に焼き付けてくれるのなら。
私は自らの死を利用することも厭わなかった。自らの死が彼の心に、私という永遠を刻む唯一の手段であるなら、私は自らの命を差し出すことさえ喜びであったのだから。
それなのに―― 願ってしまった。
“もう一度、彼に会いたい”と。
あぁ、なんという傲慢さ。
けれど、仕方のない話。
これほどまでに、情欲だけに身を焦がした女に諦めなどという文字はない。
恐るべき執念と、執着心と、飽くなき強欲さの果てに、今私は……
暗がりの大聖堂の中で、黒いドレスを身に纏うイベリスは虚ろに目を開く。
開いた瞼の隙間から見えるのは、淡い黄金色の燐光だけが注がれる玉座の間。
自分の他には誰一人としてこの場にはいない。
どれほどの間、眠っていたのだろうか。
確か、ホルテンシスに可愛らしいネイルを施してもらい、満足に浸りながらこの場に戻ってきて、仕上げてもらったばかりの爪を眺めている間に――
そうだ、その間に眠ってしまったのだと思う。
「遠い…… 過去の夢……」
微睡から覚めたばかりの、ぼんやりとした頭で先に見た景色を頭に思い浮かべた。
それは遠い遠い日に経験した、自分自身の記憶。
プロヴィデンスがもたらすものではない。今の自分が持つ、優しくて温かな本当の記憶だ。
「そうね。この世界が、私の本当の望みだった。必要ないものを消し去り、ただ偏に彼との未来を永劫のものとする為に。世界とは、私の為にあるものなのよ」
イベリスは顔をしかめながら、片手を額に置く。
素晴らしく温かな夢、記憶だというのに、酷く頭が痛むのはなぜだろうか。
溜息をつき、頭の痛みが少し和らいだ頃。
自身の手を上方へ持ち上げて微笑みをこぼす。
仕上がってまだ幾ばくも時間の経過していない、自身の爪に施されたネイルを頭上にかざし眺めながら言う。
「玲那斗は気に入ってくれるかしら? このネイルも、新しい私も。
二人だけの楽園、二人だけの世界。かつての公国の未来が、そのようであったなら、と。叶わぬ願いであったからこそ、このような長い歳月をかけてまで」
悪意の星に導かれたのではない。
千年も昔に、シリウスより輝かしい星として彼が目にして眺めた女こそが。
「この悪意が、本当の理想を導くなどと。けれど、それで良い。もはや、それが良い」
心の奥底に眠らせていたはずの意志。隠し通してきた本心。
多くの人々の間違いを指摘し、正し、自らが絶対的な正義であると嘯いてきた。
しかして、それももう終わりだ。
「女は嘘を着飾って、この口から嘘をついて、あたかもそれが真実であるかのように魅せる。“可能性”という名の耳障りの良い嘘を口にする度に、私の穢れは上塗りされていった。
誰も彼もが私の言葉を偽りであると見抜けず、光などと言って信じようとしたけれど、それに嫌悪を示して見せたのはマリアとアンジェリカだけ。だって、あの子達は気付いていたものね。あの子達だけが“本当の私”に気付いていた。
ねぇ、玲那斗? 貴方は今の私を見て、それでも“愛している”と口にすることができるのかしら? いいえ、しなくてはならない。貴方は私を愛さなければならないのよ。
それに、私には出来るわ。自らの悪意を罪と認めず、これが唯一の正義であると断言して貴方への好意を今も示すことが」
不遜で、傲慢で横柄な神となりて。
「だから、早く会いに来てちょうだい。全てを終わりにする為に。私が貴方と二人だけの理想郷を作るから。千年前に築くことの出来なかった理想を。
もう一度、貴方と二人で身を寄せ合って並んで。互いの一等星を見つめ合いながら、指折り数えましょう?」
私達の歩むべき、永劫の刻を。
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