* 1-1-2 *

 アンヘリック・イーリオン内部にある、兵士達の憩いの場。

 レストラン、カフェ、バーが設置されたダイニングルームは今日も日頃と変わらぬ賑わいを見せている。

 昼食時を過ぎた、昼下がりという頃合いも相まって人の数はそれほど多くは無いが、丁度従事している仕事がひと段落したのだろう、或いは交代に入ったのだろう兵達が次々と入れ代わり立ち代わりこの場を訪れては束の間の休息を過ごしている。

 その兵達の中に混ざり、隅の一角には目立つ機構の隊員服を身に纏う、ジョシュアとルーカス、そして玲那斗の姿があった。


 休息という意味では他の兵と同じことで、市街地復興の助力をしてきたジョシュアと玲那斗と、アビガイルとの研究開発から解放されたルーカスが合流し、今が丁度少し遅めの昼食というところだ。

 普段ならここにアルビジアも加わるのだが、今日に限って彼女は訪れたい場所があるからと、一人別行動をとっている。

 その場所に行く前にアンジェリカと何か話をしていたようだが、具体的な行き先や目的については定かではない。

 とはいえ、ひとまず彼女がどういった意図をもって別行動を選んだのかについての詮索は無しとして、三人は完全に気を抜いて休息できるこの時間を満喫していた。


 周囲の賑わいを落ち着いた気分で眺めつつ、椅子の背もたれに身を預け、珍しくだらしなく両腕をだらりと下ろしたままのジョシュアが言う。

「毎日こういった日常を眺めていると、これから2週間もしない内に最後の戦いが始まるだなんて考えも及ばないな」

 何気なく言った言葉だったのだろうが、その言葉には彼の本心が凝縮されていた。

 争いのない世界が本当に訪れたなら―― という彼の心情からくるものなのだと汲んで玲那斗が返事をする。

「皆はハルマゲドンと言っています。その通り、正真正銘、次が最後の戦いになるでしょう。それに、これ以上に何かがあるだなんて思いたくもありませんし」

「まったくだな。もう十分過ぎる」

 そう言ったジョシュアは小さな溜息をついて、疲れを癒すホットミルクを口にする。少し冷え込む今の季節は特にこれが心地よい。

 しかも、ここで飲むその味わいはまさに格別だ。

 ネメシス・アドラスティアでリカルドに勧められた、共和国産の牛乳を使用したホットミルクを大事そうに手に持つジョシュアは、少しずつ少しずつ、ただひたすらにそれを口にして疲れた体に力を取り戻していった。


 そんな風にしみじみと語る二人を見やりながら、対照的に手元のカレーライスに勢いよくがっついて頬張るルーカスは言う。

「とはいえ。最後であってもなくても、やらなければならないことに違いはありません。まだ十日の猶予がありますが、それまでに気持ちに区切りを付けておくことも大事かと」

「一理ある。それよりお前さん、本当にそのカレーが気に入ったんだな?」

 インド風とも欧風とも日本風とも異なる独特のカレー。手を休めることなく食べ続けるルーカスは満ち足りた表情で言う。

「隊長がここのホットミルクを気に入っているのと同じですよ。言っちゃ難ですが、ここのカレーは普段食べているセントラルの遥か上を行っています。あっちも非常に美味しいカレーですが、これを食べてしまうと、もう……」


 元には戻れない。或いはその美味たるや、筆舌に尽くし難いとでも言うのだろうか。

 言葉を区切ったルーカスは日々と同じくレストランで注文した大盛カレーライスをひたすらに口へ運び続けた。

 そんな彼を見つつ、玲那斗は同じくレストランで注文したフレッシュホットドッグを頬張る。

 パンの種類からソーセージの種類、ソースの種類まで好きに組み合わせてオリジナルを作ることの出来る逸品で、世界中の各地域ごとに応じた味わいを再現できることが売りのホットドッグだ。

 頂く側から見れば有り難く、用意する立場のことを思えばかなり手間のかかりそうなメニューだが、それもこれも遠い昔、世界中から移民してきた人々や難民、孤児を受け入れることで成長してきた共和国の歴史“ならではの配慮”、気配りが生み出したメニューと言えなくもない。

 無論、玲那斗は日本の風味が濃いふわふわなパンをメインとしつつ、下地には脂肪分の濃いバターを避けてマーガリンを塗り、しなやかなレタスに中がジューシーなソーセージ、あとはシンプルにケチャップとマスタードを組み合わせたものを好んで食べている。

 ソースだけは日替わりで、世界中の色々なものを組み合わせて食べるのが個人的に密かなブームだ。

 基本は同じく、ソースだけを変えることで味わいの変化を満喫できるという寸法である。


 玲那斗は日本とはまた少し異なるアメリカのケチャップの味わいに舌鼓を打ちながら、それを堪能し呑み込んでからルーカスへ言った。

「その時は必ず来る。けれど、俺達はここで規則に縛られることもないわけだし、今くらいは心に余裕をもってだらだらとするのも悪くないんじゃないか? 特にルーカス、お前は少し休むべきだ」

 この言葉に同意を示し、頷いたジョシュアも続く。

「俺もそう思う。ようやくアビガイルとの研究から解放されたんだろう? 一旦頭を休息に切り替えることが肝要だ」

「スイッチが切れて落ちるのはまだ先でしょうね。このカレーで血糖値を上げて、さらに飽和状態のアドレナリンが落ち着いて眠くなってきた頃に“その時”は来ます」

「お前さん、ほとんど寝てないんだろう? 良い仕事は良い休息と共にある」

「分かっていますよ。しかし」


 そこで再び言葉を切ったルーカスはカレーを食べる手も止め、やや表情を暗くして言った。

「考えれば考えるほどに心が休まりません。休もうとするより、研究開発で頭を使っている方が安らぐぐらいです。もし、アンジェリカの言う仮説が全て事実であったとしたら、俺達はどうすれば良いのか」

 そこまで言った後に玲那斗を見やって続ける。

「特に玲那斗、お前はどうするつもりだ?」

 話を振られた玲那斗も表情を落とし、手に持っていたホットドッグをテーブルの皿に置いて考え込んでしまった。


 三人を包む沈黙。


 ルーカスが言及したこととはイベリスについてである。

 一年が最後の月を数えようという時に、突如として世界中に再び姿を現わしたフューカーシャの大群。

 それらが行ったのは10月9日の正午過ぎと同じような、人類の再選別であったという。

 しかも今度ばかりは以前と異なり、その行いは明らかに特定の人物の意志によって実行されたというのがアンジェリカの見解だった。

 悪いことに、その“特定の人物”こそイベリスである可能性が高く、仮説の根拠として持ち出されたのが“リナリア島で起きた事件”なのだから否定のしようがない。

 彼女を知る者が、事件に辿り着くまでの流れを順序立て、筋道をきちんと並べ替えた上で改めて話を積み重ねていけば誰だって同じ結論に至る。

 突き詰めて、イベリスという存在が自分達が知っているものとはまるで違う“何か”に変質したとでもいうような、そんな大きな変化が天空城塞内で起きた、と。


 この話を念頭にして、ルーカスが言っていることは実に単純であり明確だ。


 もし仮に、イベリスが助け出す対象ではなく、倒すべき対象として目の前に立ちはだかったなら――


 これまでの考えを、丸きり翻して考える必要がある。

 彼女が敵として目の前に立った時にどうするのか―― その答えを来たるべき時までに決めなければならない。

 先に過ぎた会話の中で、ルーカスがしきりに「覚悟を決める必要がある」と言うのもこれが大きな理由だろう。


 ひとしきりの間を置いて、玲那斗は言う。

「正直、分からない。まだ、イベリスの身に何かあったと決まったわけでもないと思っている。いや、思いたい」

 心は定まらないまま。煮え切らない彼の姿を見て、ルーカスは言った。

「俺だって、アンジェリカの話の全てを信じたいわけじゃない。だが、あの子にはエニグマがある。聖母様と同じ、未来を読み取る力であり、ロザリアと同じ人の過去の記憶を読む力。アイリスが持っていたような、感情の機微や人の声を聞き取る力だ。

 それらを持つあの子が、自分の目の前で起きた事象から答えを読み違うとも考えづらい。何より、今は彼女を信じることが俺達にとって生きる為に重要な指標にすらなっているわけだからな。

 なんて言うか、俺達は核ミサイル攻撃の日にアンジェリカに救われた身だ。救われたいからあの子を信じるというよりは、やはりあの子の為すことに救われたから、今回も信じるべきなんだって、直感がそう告げている」

 そうして、玲那斗の目をしっかりと見据えたルーカスは敢えて言う。

「なぁ、玲那斗。そろそろ覚悟を決めろ。どんな形であれ、イベリスを何とかできるのがお前だけだって誰もが理解しているからこそ、今の答えを決めかねたままのお前を見過ごすことが出来ない」

「最悪の場合、彼女を倒せと? 俺達の手で?」

「そういうことだけを指して言っているわけじゃない。要は“迷うな”ってことだ。イベリスを目の前にした時、心に迷いを残したままだと…… 吞まれるぞ。言いたくはないが、俺達だって彼女に殺されるかもしれない」


 分かっている、と。

 こういう時、何度繰り返した言葉だろうか。

 自分自身がどう考えようとも、周囲からはそうは見られていない。

 結局、全員に心を底を見抜かれているということだろう。


「イベリスが、敵になる、か」


 想像もつかない。

 常に明るく、優しく、気高く、崇高で清廉なる光の王妃。

 そうであった彼女が残る世界人口の内、新たに15億人を選別したなど。信じたくもない。


 ルーカスの警告を心に留めながらも、これ以上何と答えたら良いか分からなくなった玲那斗は答えに窮したまま黙り込んだ。

 そんな彼に助け舟を出すようにジョシュアが言う。


「決意する必要はあるが、焦る必要はない。今すぐ決めろと言っても無理がある。残り約2週間弱。その間に決めることだな。相談事があるなら俺達は乗るし、アルビジアや、今ならアンジェリカだって話を聞いてくれるだろう」

「はい」

「確かに、イベリス自身を何とかできる可能性があるのはお前さんだけかもしれない。だが、あの城塞に再び足を運ぶのは一人じゃない。気負い過ぎないことだ。いっそのこと、お前さんだけはイベリス以外のことを何も考えないっていうのも手かもしれないな」

 この言葉に、再びカレーを食べる手を進めながらルーカスが言う。

「妙案ですね。きっと、聖母様やアイリスのことを考えるから複雑になる。あと、フロリアンも」

「フロリアンはさておき、彼女らについてはアンジェリカが何とかする話だ。俺達で手に負える相手でもない」


 ジョシュアはそう言いつつ、視線をルーカスに配る。

 一見、何も気にせず普段通りに振舞っているように見えるルーカス。

 ただ、彼は彼で玲那斗と同じように思い悩んでいることをジョシュアは知っている。


『口には出さないが、総大司教様の件で玲那斗と同じような立場に置かれてしまっているからだろうな。話が通じると分かっているだけ、幾分かはましだろうが。それでも、気が重いことに違いは無い、か』


 本心を明かさずに気丈に振舞う彼の姿を見やりながら、しかしこの話をジョシュアは内心に留めておくことにする。

 ルーカスの本心というものは既に、ネメシス・アドラスティアの中で十分過ぎるほど見たのだから。


「ま、とにもかくにもお前さん達にはそれぞれ休息が必要だろう。ルーカスはこの後しばらく非番だろうから、何もせずに休むんだぞ」

「言われるまでもありません。何が起きたって俺は寝ます。心行くまで睡眠をとることが今の一番の願いですから」

「大仰に言う。玲那斗はまたこの後から市街地の復興だが…… 俺が適当に話を付けておくから今日はもう休め。元々、俺達の仕事は自主参加って言われているからな」

「体を動かしていた方が気が紛れます」

「紛らすことが大事な時もあるが、しっかり考えることが大事な時もある。紛らしただけで、結局“何も答えが出ない”では意味がないんだ。それではただ、問題を先送りにしただけに過ぎない」

「はい」


 ジョシュアの言葉に同意を示した玲那斗は、再びホットドッグを手に持って一口ほどかぶりつく。

 何もかも忘れて、ただ自己の思考に身を浸すような面持ちで。


 丁度その時、ルーカスは大きく盛られていたカレーライスを完食して満足げな表情を浮かべていた。

「少し食いすぎたかもしれない。でも、こういうのは悪くないよな」

 独り言を言う彼を見やりながら、ジョシュアは仕方ないという風に笑いながら手元のホットミルクを口へ運んだ。

 同じように、コップに注がれた共和国特性のお茶を一気に飲み干したルーカスは食器の置かれたトレーを持ち上げて言う。


「それじゃ、俺はお先に失礼します。これからゆっくりと夢の世界へ向かわなければなりませんから。次は夕食の頃合いに」

「達者でな」


 冗談めかしてジョシュアが言い、玲那斗も軽く微笑みながら彼を見送ろうとした。

 が、しかし。


「ん?」


 怪訝な表情をしたルーカスがテーブルに置いたままの自分のスマートデバイスに目を向ける。

 視線の先では、無機質な音が何やらメッセージの到着を告げていた。

 持ち上げたトレーを一旦テーブルへ置き、スマートデバイスを手に持ったルーカスは届いたばかりのメッセージを確認する。


 送られてきた文章を目にしたルーカスの表情からはみるみる爽やかな笑みが消え去り、代わりに浮かび上がったのは気だるげな絶望にも似た表情であった。

「何事だ?」

 あまりの変化に思わずジョシュアが言うと、ルーカスはがっくりと肩を落とし、今しがた届いたばかりのメッセージを二人に見せる為、投げやりな所作でスマートデバイスを彼らへ差し出した。


「何々?」


 差し出されたスマートデバイスに表示されたメッセージを二人は読み取る。

 ルーカスに送られてきた内容がどんなものだったかを見たジョシュアと玲那斗は、引き攣ったような苦笑を浮かべるのが精一杯だった。


「その、何だ。頑張れよ」


 玲那斗は親友に向け、今言うことの出来る限界の言葉を捻り出して言う。

 そんな言葉を聞いてか聞かずか、ルーカスは崩れ落ちるように再び椅子に座り、大きな溜息をついた。


 魂の抜けたような表情をするルーカスに送られてきたメッセージの送り主は当然、“彼女”であり、その内容とは次のようなものである。


【新たな仕事だ。任務だ。総統様直々の。ついてはノトスへ来い、今すぐに】


 夢の世界へ旅立つ時は遠のいた。


「さようなら、俺の睡眠、暖かいベッド。お前のことは忘れないからな」


 これから再び始まる、この十日間と同じような日々を瞬時に脳裏に浮かべたルーカスは、呆然としたまま天を仰ぐのであった。



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