* 1-X-X *

 懐かしき声。記憶の彼方にあって無きような――

 人として生を受けた時より、思い出せる限りの遠い記憶からも失われていたというのに。

 彼女は誰? 彼女の名は? 知っていて、知らないもの。


 あぁ、しかして、しかして、それよりも、何よりも。

 愛しき天使よ。


 一歩、二歩、散歩。きっと、あの御方ならばそのようにおっしゃるのだろう。

 身なりも、髪型も、身に纏われる雰囲気も随分と変わられた。しかして、それが良い。

 いつかの日に、この身が心よりお慕い申し上げた頃にも増して、あぁ、なんて甘美な。



 清流の音だけが満ち満ちる、大自然を想起させる美しい光景の中に、その影は揺らぐ。

 あるはずのない足音を立て、あるはずのない影を落とす“彼女”は、もやは在るはずのない“声”を響かせる。


「届かぬと、思っている内はそうなのでしょう。えぇ、えぇ。何の因果、何の必然か。自らの領域、果てた死地を再びこの目にするとは、これ如何に。如何なものか。あぁ、どうして、わたくしは――」


 答えなど、考えようとも思わない。

 知ったところで何になるというのか。


「失ったものは戻らない。無くしたものは二度と手に入らない。それが人の世の理であり、何人たりとも犯すことの出来ぬ自然の定め。

 太古の昔よりそうであったというのに。自然の摂理に逆らい、禁忌を破った者がいる。それがよもや、こうした禁忌を最も忌避すべき存在であったなどと。小咄にもならぬ、つまらない結末」



 清流の音に乗せて、小鳥のさえずりと風の音が聞こえる。

 目に見えぬから存在しないというわけではなく、ただ知覚できないだけということもあるのだ。

 そんなもの、この世界には五万と“存在している”。


 であるのに、人は自らの想像を超える事象や存在を頑なに認めようとはしない。

 知覚できないからではなく、認めることが恐ろしいから。


「思うに、人とはかくも弱き生き物でありましょう。それはわたくしとて然り。弱さとは罪であり、わたくしは自らの弱さによって命を失うという裁きを得た。愛する御方に裁かれるという夢を憎き肉親へ譲り、忌避すべき聖人によって報酬はもたらされる。望んでもいない結末、認めたくない結果、何も、かも――」


 この世界にただ一人。

 特に、今この場という空間にたった一人で立つ彼女は、僅かな間に様変わりした、ありとあらゆるものを目に焼き付け、今一度心で感じ取り、自らの脳で吟味した。

 言葉を紡げば紡ぐほどに矛盾を抱え、それでいて繰り出される言葉には偽りなどなく、全てが真実である。


「あぁ、きっとそう。そうに違いない。全能の逆説。神が無謬であるという前提からして間違っているというのに、なぜ誰も認めようとしないのか。今のわたくしにはよく理解できます。けれど、認めたくはない」


 認めてしまえば、怨敵を赦すということに繋がってしまいそう。

 そんなこと、断じて。



 彼女は崩れ落ちたテミスの巨像を見やり、見事に仕上げられていたはずの彫刻に滲む、茶褐色の染みに目を見張る。

 義憤の女神を彩ったものは、自らの内から流れ出た穢れ。

 忌々しい名の由来。自分が殺したはずの、男の面影が残る血。


 見れば見るほどに認めざるを得ない。


 そうだ。やはりここにある全ては真実であるのだと。

 であれば、どうして?



「なぜ、あの女は――」



 考えることにきっと、意味などない。

 思考を急停止させた彼女は、目にしていたものを捨て去るように瞳を閉じ、視覚から得られる情報の全てを遮断して意識の再構築をする。


 考えるべきは、そんなことではない。

 得られた機会を無駄にせず、どうすれば自身の“後悔”を埋めることができるのか。


 けれどけれども、考えれば考えるほどに思考の糸はもつれ、ほつれ、まとまりなく絡み合って意味を為さぬものへと変わっていく。

 或いは、まるで子供の描いた絵のように極彩色へと染まっていく。


「その時ではない、ということなのでしょう。えぇ、えぇ。きっと、そういうことに違いありません」


 ふっと息を吐き、再び瞳を開いて久方ぶりの“世界”を目にする。

 白亜に彩られた巨大な空間は、変わり果てた世界の中で時を止めたまま、何一つとして変わらずにこの場にあった。

 そのことは大きな救いでもある。

 強い縁を持つ場所であるからこそ、深海の彼方に意識を縛り付けられたままでも身を起こすことが叶うというもの。

 この場より外に離れることは、未だ叶いそうにない。


 しかし、十分だろう。今という時分にはそれで十分だ。

 時はある。いずれ“その時は来る”。


 思い浮かべて仕方のないことは、考えないようにしなければ。

 それもこれも、昔より愛すべき御方に窘められ続けて来た、自分の悪い癖。


 もっと、別のことを考えよう。

 考えるならば、何が良いというのか。

 これまで目を背け続けてきた、自分のことにでも意識を向けてみるのも良いかもしれない。

 元より、既に無い命。しがらみなど、何もないのだから。


 となると、考慮すべき事象はただひとつ。



「わたくしによく似た彼女。いいえ、いいえ。容姿が似ているというわけではなく、何か互いを想起させるものがあるというだけの話。ついぞ対面することはありませんでしたが、不思議な縁を感じることも事実。

 忘却された遠き日の記憶に、微かに残る声。その声を、思い出してしまいそうな――」



 写真で見た覚えすらも定かではなくなった母の記憶。

 この場に訪れた彼女の姿を見た時、なぜかそんな存在しないはずの記憶が頭の中に想起された。

 懐かしい姿、懐かしい声、懐かしい――


 違う、違う、違う。

 まるで別人だ。


 そのはずであるのに、そうであるはずなのに。


 言い知れぬ感情を胸に抑え込んだまま、彼女はぽつりと言葉を漏らす。

 自らの内に沸いたたったひとつの疑問。


「貴女は、一体誰であるというのでしょう?」



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