* 1-1-5 *

 初めて訪れる場所であるはずなのに、そんな気がしない。

 まるで小鳥のさえずりが聞こえるかのような―― 柔らかな日差しの注がれる、城塞内の楽園。

 大自然と一体化した大聖堂のような趣の空間。穏やかな川に見立てられた水路を流れる清流の音が耳に心地よく、吹いてもいない風が体感できるかのようだ。


 アルビジアは瞳を閉じ、五感の内の聴覚と嗅覚、触覚を最大まで高めてこの場の全てを感じ取ろうとした。


 今、彼女が立つ場所。

 ここはかつて、失われしテミスの一柱が支配した神域聖堂のひとつで、現在はイザベルが統治下に置き、彼女の支配域となった場所である。

 イーストクワイア=エウロス。別名、風の大聖堂。

 数か月前まで、シルフィー・オレアド・マックバロンが居城として君臨した唯一無二の空間。


 なぜ、この場所を訪ねようと思ったのか。

 興味本位―― というわけでもない。

 とはいえ、まったく理由が無いということもなく、その心は“呼ばれた気がした”というものであった。


 誰に呼ばれたのか。

 誰が自分を呼んだのか。

 そんなこと分かるはずもない。


 アルビジアは水路を伝う清流のせせらぎを穏やかな気持ちで耳に入れ、ここには存在し得ない小鳥のさえずりや風の音を満喫した。


『あぁ、そう。これが、彼女の遺した――』


 直接会ったことは無い。彼女の姿を見たこともない。声を聞いたことすらない。

 であるにも関わらず、なぜか感じ取ることが出来る。


 聞けば、多くの人々が自分とシルフィーは似ているという。

 容姿がということではなく、身に纏う雰囲気がそのようであるというのだ。


『そんなこと、あるのかしら』


 疑問に思ったところで、もはや答えが得られるわけではない。

 何せ、比較対象である当の本人は既にこの世に存在しないのだから。



 アルビジアは瞼を開き、翡翠色の瞳でしっかりと前を見据える。

 視界の先にあるのは大きく崩れ落ちた彫刻の瓦礫。おそらく、義憤の女神テミスを象っていたのだろう巨大な彫刻は、地上に落下した衝撃によって瓦解したのか無惨な姿を晒していた。

 一部の瓦礫は赤色に染まり、隙間から茶褐色の液体が染みた床面が顔を覗かせているが、“あそこがそうなのだろう”。

 遺体は綺麗に片付けられ、肉体の痕跡ひとつとして残されてはいないが、彼女がそこで死したという痕跡だけは消すことが出来ない。


 ロザリアとシルフィーの死闘の跡地。

 周囲に流れる穏やかな時間や、心に充足をもたらす自然の趣にはまるでそぐわぬ闘争の痕跡。

 聞いた話では、ロザリアの異能によって四肢を燃やし尽くされたシルフィーは、身動き一つ取ることが叶わぬ状況でテミスの巨像に圧し潰され、その短い生涯に幕を閉じたという。


 アルビジアには、決して消えぬ彼女の血痕がまるで自分を呼び寄せているように感じられた。

 声なき声に従い、彼女の最期となった場所へ歩みを進め近付いていく。


 何が知りたいというのだろう。

 何を感じようというのだろうか。

 やはり自分自身でも分からない。


 諸々と、この場で起きた出来事であったり、彼女という人間についての話は耳にしてきたが、その度になぜか無性に心の奥底に引っかかるものを感じ続けていた。

 ここを一度でも訪れることが出来れば、自らの心の内に渦巻く謎の感情に答えを見出せるかもしれない。

 そう考え、アンジェリカに無理を承知で頼み込み、今日という日にようやく足を運ぶことが叶ったのだ。


 やがて、テミスの巨像が散った残骸の前まで歩み寄ったアルビジアは、身を屈めてシルフィーが最後に横たわっていた場所を間近で見つめた。

 そこに何があるというわけではない。あるのはただ彼女の血液が滲み、変色した白亜の石材のみ。


 そっと手を伸ばし、乾ききった茶褐色の石材に手を触れる。

 自分にはロザリアのような過去視の力があるわけでもなく、そうしたからといって何を感じ取ることができるわけでもないが――


“なぜか心に訴えかけてくるものがある”


 石材を撫でたアルビジアは、その手を自身の胸元へ手繰り寄せてから握り締めて呟く。

「貴女は、私の何なのかしら」


 どうしてそんな言葉を発したのだろうか。

 千年にも及ぶ長い人生の中で、彼女に関わる接点など何ひとつとして存在しない。

 出自にも関係なく、祖国にも関係なく、しかして彼女は自分と似ていたという。


「過ぎ去ったこと。今さら言っても仕方のないことだけれど、貴女とは一度だけ言葉を交わすべきだったのかもしれない」


 そう言ったアルビジアは静かに立ち上がった。

 視線は彼女の生きた―死した―痕跡に向けられたまま。

 言葉で言い表すことの出来ぬ複雑な感情が、頭の中で堂々巡りを繰り返す。


 答えを求めたわけではなく、何を探しに来たわけでもなく、ただ呼ばれた気がしたから訪れただけ。

 そのはずなのに、何故にこうも考えてしまうというのか。


 そんな風に、アルビジアが自分自身で理解の及ばぬ思考に囚われている時。

 ふいに、すぐ後ろから甘ったるく愛らしい少女の声が聞こえた。


「そうね。貴女とあの子は、たった一度だけでも言葉を交わすべきだったのかもしれない」


 アルビジアは視線を動かすことなく、振り返ることもなく声の主へ返事をする。

「ねぇ? 貴女はどう思っているの? やはり、貴女も私と彼女が似ていると、そう思っているのかしら」

 この問いに、少しの間を空けて少女は言う。

「似ていると言えばそうかもしれない。似ていないと言えばまた然り。私にはどちらとも取ることが出来る。私は他の者よりも、あの子をほんの少しだけよく知る身だからこそ。

 けれど、そうね。周囲の人々が言うように、見るべきものもなくただ“何となく”そういう風に見えるというわけでもない」

「つまり、どういうことなの?」

「さぁ? 答えは目に見えるものではなく、言葉で言い表すことができるものでもない。だからこそ、一度言葉を交わしてみるべきだった。私はそう思っている」

「その機会は、永遠に失われてしまった。未来永劫に叶わない話ね」


 アルビジアは言葉を区切り、自身のすぐ背後にいる少女の名を呼んで問う。

「アンジェリカ。私に何か用があってここへ?」

「無いと言えば嘘になるけれど、貴女があまりにも熱心にここへ来たがるものだから、どういう風の吹きまわしか気になったというのが本当のところよ」

「トレーニングルームで、イザベルの成長を見届けるという話ではなかったのかしら」

「えぇ、それなら既に終えたわ。ここへ訪れる前に足を運んだのだけれど、あの子は強くなっていたわよ。私が思うより、ずっと」

「そう。頼もしいことね」

「全ては彼女の命を守る為。本当はあの子を最前線に連れて行くなんて真似、したいと思っているわけではない。けれど、そうすることでしか得られぬ結末があるからこそ」


 アンジェリカが言ってから、アルビジアはようやく彼女へと振り返る。

 彼女も自身と同じように後姿のまま言葉を交わしていたらしく、その姿を視界に捉えて言った。

「珍しいわね。貴女がそこまで言葉を選ばず、明け透けに自らの本心を打ち明けるだなんて」

「そうかしら? いえ、そうね。そうかもしれない。“一人きりになって”、感傷に浸る時間が増えて、自分の考えていることを言う相手も居なくて。そういうのが続くことで変わったのかもしれない」

「けれど、今でも誰かにそんな風に心情を語るだなんてこと、無かったじゃない」

「貴女こそ。そんなに饒舌に言葉を返してくれるだなんて珍しいことがあるものだわ。いつもだったら返事ひとつで会話は終わっているというのに、質問までしてくれるだなんて」

「ここが“風の大聖堂”だからかもしれないわ。そういう“風の吹きまわし”なのよ」


 アルビジアの物言いに珍しさを感じたのか、アンジェリカも彼女へ振り返って微笑みを向ける。

 互いにひとしきり視線を交わした後、アンジェリカは打って変わって真剣な表情をし、アルビジアに問い掛けた。


「そういう風の吹きまわしだから、本当のことを話しましょう。私がこの場を訪れた理由は貴女に聞きたいことがあったから。二人きりで会話をする機会なんてあまりないし、今という時だからこそ聞いておきたい」

「良いわよ。何を聞こうとしているのか、おおよそ見当はついているから」

「そう? なら話が早い。端的に言えば、つい先日まで貴女達と行動を共にしていたあのいけ好かない王妃様についてのお話なのだけれど」


 アンジェリカが言うと、アルビジアは聞きたい内容の全てを悟ったかのような素振りを見せつつ、彼女の脇を通り抜けて大聖堂の中央へ歩みを進めながら言った。

「私も気付いていた。貴女やマリアがそうであったように、イベリスが自らの望みを具体的な形にする為だけに、私達全員を利用していたことを。

 けれど、当時の私にとってはそういったことさえ“どうでもいい”ことだった。

 彼女はマリアを突き放し、アイリスと関わることを避け、ロザリアを追い出し、貴女一人に公国の悪意全てを擦り付けようとした。いえ、擦り付けた。

 そして、私に第二王妃としての地位を用意することで、自らが背負うべき責務の半分以上を肩代わりさせようと考えていたことも知っている」

「それで、どうして貴女は最後まであの子を信じようと思ったのかしら」

「私達という存在に意味が無いからよ。私達が人として生きていた時代に、私達自身の意志というものには一体どれほどの価値があったというの?

 貴女には分かるでしょう、アンジェリカ。私達の考えることに意味などなくて、一握りの人々の決めたことだけで世界が回っていくような時代。

 自分ひとりでどうにもできぬ事象に対して、深い考えを巡らせたところで意味は無い。全てを決める権利を持つ人間がたった一言、言葉を放つだけで全てが決まってしまう。変わってしまう。

 だから、早々に自らの人生に諦めを抱くことでしか、自身を納得させることが出来なかった。そんな時代であり、そのような世界だったのだから。

 であれば、生まれながらにして“存在に意味や価値を持つ人”を信じる方がよほど楽な生き方でしょう?」

「ある意味、選民主義を逆手に取った考え方というわけね。貴女は、あの子の悪意に気付いていながら、それを受け入れた。私達の中では唯一、貴女だけが選んだ道筋。千年を越えて玲那斗と再び巡り合った彼女と再会した後でも、あの子の言う可能性とやらを信じたいと思ったのも同じ理由なのかしら?」


 アンジェリカの問いに、アルビジアは足を止め高い天井を見上げて言う。

「あれはイベリスの贖罪。遠い過去に自らが犯した過ちを、自らが他人に与えた痛みを繰り返さない為に、自分に出来る最大の努力で必死に多くの人を導こうとした。

 本来、あの子に望まれていた在り方を本気で、完璧に演じて見せることで過ちに償いを示そうとしていたのだと私は考えている」

「なるほど。だから“今度こそ”彼女を信じようとでも?」


 不敵な笑みを湛えて言ったアンジェリカへ振り向いたアルビジアは、静かに首を振って言った。

「言ったでしょう? 私はただあの子がそうすることの先に、何がもたらされるのかに興味があるだけだと。大きな括りで見るなら、それは“信じる”ことに他ならないのでしょうけれど。

 ただ、正しいことであっても、間違ったことであっても、あの子が口にしたことは不思議と人の心を惹きつける。民を導く希望の光、光の王妃という異名は言い得て妙ね。素質無きものにそのような呼び名が付くものではないわ」

「まったく、語れば語るだけ虫唾が走るほどにね。絶対の正しさ。世界に選ばれ、必要とされた者。そういう星の元に生まれてきたのだから幸せなものだと思う」

「あの子はあの子なりに苦労を重ねていたのだと思うわ。私達の知らないところで、きっと」

「その結果が“アレ”なのだから、嗤ってしまうのだけれど」


 アンジェリカはそう言いつつ、シルフィーが最期を迎えた場所にしゃがみ込んで祈りを捧げる姿勢をとった。

 口を閉ざし、静かに、ただ自らの時間を彼女に捧げる為だけに。想いを捧げる為だけに。


 そんなアンジェリカの後姿を見たアルビジアは、彼女が日々人知れず同じことを繰り返していたのだと悟る。

 誰に語るわけでもなく、誰に見せるでもなく、ただ自らを愛していた臣下の為に。


 やがて、静かなる祈りを捧げ終わったアンジェリカは立ち上がって言う。

「私が聞きたかったことは先の話が全て。貴女の時間の邪魔をしたわ。手間を取らせて悪かったわね」

「気にしなくても良いわ。貴女も私も、結局考えていたことは同じみたい」

「もっと、きちんとした体裁であの子の魂に祈りを捧げるべきだとは思っている。けれど、今はその時ではない。今の私では、あの子にどう顔向けしたら良いかわからないもの」

「ただの一度も話をしたことはないけれど、彼女はそのことを気にしたりはしないはずでしょう?」

「えぇ、気にしているのは私だけ。私の心の問題。それも、分かっているつもりよ」


 アンジェリカはそう言い残すと、特に挨拶をするでもなく赤紫色の光の粒子を散らしながらエウロスから姿を消し去った。

 見た目にそぐわぬ落ち着きを見せる少女の姿を見送ったアルビジアは、今一度シルフィーが命を落とした場所を見据える。


 そうして、既に言葉が届かなくなった“姿を知らぬ故人”を偲びながら、自身もまたエウロスを後にする為に歩き出す。

 自由なる風と呼ばれる彼女が何を思い、何を考えていたのかは知れぬまま。

 多くの人々がどんな共通項を以て自分と彼女が“似ている”というのかも知れぬまま。


 永遠に導かれることのないだろう答えを、そっと胸に仕舞いこんで。



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