エピローグ

「なにしてるの、ママ?」


 かまちから小さな顔が飛び出す。年の頃は五歳ほどの幼女。母親譲りの涅色の髪をうしろで結わえている。何重にも折ったズボンの裾から覗く脛は、暗い色に覆われていた。


「マキ、こっち来て」


 女は小声で手招く。幼女もといマキは、顔を明るくさせてソファに飛び乗った。ソファは驚いたように、そこかしこに開いた穴からクッション材を飛び出させる。


「今、思念を読んでたんだ」


 マキが雛のように小首を傾げるので、女は言葉を噛み砕く。


「思念はね、生き物が思っていること。喋らなくても、心で思っていること。それを私たちは読むことができる。マキも練習すれば、簡単な思念なら読めるようになるよ」

「読んでどうするの」

「危険から身を守る。やってみる?」


 ふーん、とどこか上の空のマキ。返事の代わりに女の腕に抱きついて、そのジャージに顔をうずめる。甘えるような仕草だ。それに対して女は、優しく頭を撫でて応える。

 体温を腕に感じながら、女はベランダの向こうを見やる。夕暮れに灯った紅。人間が焼かれている。ふと昔、アカリに見せてもらった山焼きの写真が脳裡に浮かぶ。尤も、そこまで派手な炎ではないが。あまり考えすぎると古傷が痛み出す。暖色は血を連想してしまう。


「そうだ。ママの宝物、また見たい」


 無邪気な声に、思案の渦から出るように促される。マキが袖を引いていた。この六年で、少しジャージが伸びた気がする。女は肯いて、ポケットからスエードを出す。それを掌で開くと、瑠璃色の二枚の鱗が姿を現した。光源のない部屋でも、外からの細い光だけで煌めいている。その凛とした様は、もととなった人間の面影も相まって頼もしくみえた。


「綺麗。幸せな思い出が入ってるのかな」

「パパにも昔、似たようなこと言われたよ」

「へえー。マキも、そんな色の鱗がよかった」


 そう言って、ズボンの裾を捲り上げる。女の鱗の鮮やかさとは程遠い。マキは、どうして、と声にはせず表情で言う。鱗の色に劣等感を抱いているのだろう。喋れるようになる前から時折、マキは顔に陰りをみせていた。その視線はいつも、脛を覆う鱗に向けられていた。


「その黒は、パパ譲りの色なんだよ」


 マキは素早く顔を上げる。結わえた髪が風を含んで、なだらかに波打つ。女は今日まで、そのことを口にしなかった。否、口にする勇気を出せずにいた。


「なんで教えてくれなかったの?」


 女は横顔に柔和な笑みを浮かべる。


「ごめんね。パパを思い出すと、悲しくなるから言えなかった」

「どうして悲しくなるの?」

「どうしてだろうね……」


 女は言葉を濁す。最期の瞬間は瞳の奥に焼き付いている。最期の言葉も。厳密には悲しいという表現は適切ではない。悲しみはとうの昔に枯れた。今は心の縁にこびりついた自責の黴を、心とともに削り続けているだけだ。いつかは虚無へと流れ落ちると知って。


 それに逡巡をもたらしているのがマキの存在。この子を独りにはできない。鱗の色の秘密を知り、嬉しそうに目を細めている。女も同じ表情を作り、スエードをポケットに戻す。


「ねえ、マキ。明日は新しい家を探そっか」

「うん。もっと大きなおうちがいい」


 女はソファに体を預けて、感慨深げにため息をつく。見上げた天井にはいくつもの亀裂が走り、雨漏りの跡がそれらを結んでいる。この家が都市再開発の対象になる日は、そう遠くはない。工業用アンドロイドたちは動力の続く限り、風景を刷新していく。


 視界を転ずれば、外は濃淡すら失せて黒一色に染まっていた。会話をしているうちに、陽は完全に沈んだようだ。遠目に見えていた炎も、明滅の末に萎んでいる。

 マキはソファの上で膝を抱え、女の肩に小さな頭を乗せる。


「眠たくなってきた。ママ、今日のお話は?」

「じゃあ、人魚と人間の家族のお話の続きね」


 マキが言葉を覚えてから、一日と欠かすことのない日課。女はポケットから掌ほどの手帳を出す。茶色く褪せた最初の頁を捲ると、文字に埋め尽くされた頁が現れる。上段には『君へ』の二文字が鉛筆で重ね書きされていた。女の書いた物語。マキの好きな物語。


 毎夜、それを読み聞かせるのだ。この数年で物語は何十回も結末を迎えているが、その度にマキの要望に沿って修正している。完成することはない。まるで不完全が完全であるかのように。大まかな物語の骨子こそ変わらないものの、全体で見れば当初の面影は薄い。


 女は物語を作るのが不得手だった。ぎこちなく、いつも最後は自分の意見を述べるだけ。あるとき、それを美徳と褒めてくれた男がいた。その記憶が物語を書く活力を与えた。今は小さな専属編集者もいる。泥濘に溺れる原石は研磨されて、輪郭を表しつつあった。


「あるところに、独りぼっちの人魚がいました」

「あ、待って」


 マキは手帳に人差し指を伸ばし、「独りぼっち」の文字を指の腹で隠した。


「これ、取っちゃおう」

「独りじゃないなら、ここまでの物語を変えないと」


 口を窄める女に、マキは虚空を見つめて言う。


「一人でも独りじゃない。この人魚の心の中には、たくさんの想い出があるの。パパとママ、お友だち。みんなと一緒だから、誰も独りじゃないよ」

「そっか。そういう考え方もあるね」


 マキは「うん」と閉じた口の中で言葉を出す。なぜか自分を肯定されたようで、女は胸に熱いものを感じた。気持ちをこぼさないように、瞼をきつく閉ざす。その隙間から差し込む眩い光が、諦観を白い帳に包んだ。


 ダイキ——。


 手帳を畳み、女は両腕を広げてマキを抱きしめる。


「わあ、お話の続きは?」

「また明日。今日はマキを可愛がる日にします」

「えー、くすぐったい!」


 古ぼけた一軒家から漏れ出る、じゃれ合う声。子は盛大に笑い、母もつられて幼心を思い出す。そのときだけは、殺伐とした夜も血濡れの口を噤んだ。雲の切れ目に浮かぶ月は、静かに光を湛えていた。


 了

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世界最後の輝き 島流しにされた男爵イモ @Nagashi-Potato

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