エピローグ
「なにしてるの、ママ?」
「マキ、こっち来て」
女は小声で手招く。幼女もといマキは、顔を明るくさせてソファに飛び乗った。ソファは驚いたように、そこかしこに開いた穴からクッション材を飛び出させる。
「今、思念を読んでたんだ」
マキが雛のように小首を傾げるので、女は言葉を噛み砕く。
「思念はね、生き物が思っていること。喋らなくても、心で思っていること。それを私たちは読むことができる。マキも練習すれば、簡単な思念なら読めるようになるよ」
「読んでどうするの」
「危険から身を守る。やってみる?」
ふーん、とどこか上の空のマキ。返事の代わりに女の腕に抱きついて、そのジャージに顔をうずめる。甘えるような仕草だ。それに対して女は、優しく頭を撫でて応える。
体温を腕に感じながら、女はベランダの向こうを見やる。夕暮れに灯った紅。人間が焼かれている。ふと昔、アカリに見せてもらった山焼きの写真が脳裡に浮かぶ。尤も、そこまで派手な炎ではないが。あまり考えすぎると古傷が痛み出す。暖色は血を連想してしまう。
「そうだ。ママの宝物、また見たい」
無邪気な声に、思案の渦から出るように促される。マキが袖を引いていた。この六年で、少しジャージが伸びた気がする。女は肯いて、ポケットからスエードを出す。それを掌で開くと、瑠璃色の二枚の鱗が姿を現した。光源のない部屋でも、外からの細い光だけで煌めいている。その凛とした様は、もととなった人間の面影も相まって頼もしくみえた。
「綺麗。幸せな思い出が入ってるのかな」
「パパにも昔、似たようなこと言われたよ」
「へえー。マキも、そんな色の鱗がよかった」
そう言って、ズボンの裾を捲り上げる。女の鱗の鮮やかさとは程遠い。マキは、どうして、と声にはせず表情で言う。鱗の色に劣等感を抱いているのだろう。喋れるようになる前から時折、マキは顔に陰りをみせていた。その視線はいつも、脛を覆う鱗に向けられていた。
「その黒は、パパ譲りの色なんだよ」
マキは素早く顔を上げる。結わえた髪が風を含んで、なだらかに波打つ。女は今日まで、そのことを口にしなかった。否、口にする勇気を出せずにいた。
「なんで教えてくれなかったの?」
女は横顔に柔和な笑みを浮かべる。
「ごめんね。パパを思い出すと、悲しくなるから言えなかった」
「どうして悲しくなるの?」
「どうしてだろうね……」
女は言葉を濁す。最期の瞬間は瞳の奥に焼き付いている。最期の言葉も。厳密には悲しいという表現は適切ではない。悲しみはとうの昔に枯れた。今は心の縁にこびりついた自責の黴を、心とともに削り続けているだけだ。いつかは虚無へと流れ落ちると知って。
それに逡巡をもたらしているのがマキの存在。この子を独りにはできない。鱗の色の秘密を知り、嬉しそうに目を細めている。女も同じ表情を作り、スエードをポケットに戻す。
「ねえ、マキ。明日は新しい家を探そっか」
「うん。もっと大きなおうちがいい」
女はソファに体を預けて、感慨深げにため息をつく。見上げた天井にはいくつもの亀裂が走り、雨漏りの跡がそれらを結んでいる。この家が都市再開発の対象になる日は、そう遠くはない。工業用アンドロイドたちは動力の続く限り、風景を刷新していく。
視界を転ずれば、外は濃淡すら失せて黒一色に染まっていた。会話をしているうちに、陽は完全に沈んだようだ。遠目に見えていた炎も、明滅の末に萎んでいる。
マキはソファの上で膝を抱え、女の肩に小さな頭を乗せる。
「眠たくなってきた。ママ、今日のお話は?」
「じゃあ、人魚と人間の家族のお話の続きね」
マキが言葉を覚えてから、一日と欠かすことのない日課。女はポケットから掌ほどの手帳を出す。茶色く褪せた最初の頁を捲ると、文字に埋め尽くされた頁が現れる。上段には『君へ』の二文字が鉛筆で重ね書きされていた。女の書いた物語。マキの好きな物語。
毎夜、それを読み聞かせるのだ。この数年で物語は何十回も結末を迎えているが、その度にマキの要望に沿って修正している。完成することはない。まるで不完全が完全であるかのように。大まかな物語の骨子こそ変わらないものの、全体で見れば当初の面影は薄い。
女は物語を作るのが不得手だった。ぎこちなく、いつも最後は自分の意見を述べるだけ。あるとき、それを美徳と褒めてくれた男がいた。その記憶が物語を書く活力を与えた。今は小さな専属編集者もいる。泥濘に溺れる原石は研磨されて、輪郭を表しつつあった。
「あるところに、独りぼっちの人魚がいました」
「あ、待って」
マキは手帳に人差し指を伸ばし、「独りぼっち」の文字を指の腹で隠した。
「これ、取っちゃおう」
「独りじゃないなら、ここまでの物語を変えないと」
口を窄める女に、マキは虚空を見つめて言う。
「一人でも独りじゃない。この人魚の心の中には、たくさんの想い出があるの。パパとママ、お友だち。みんなと一緒だから、誰も独りじゃないよ」
「そっか。そういう考え方もあるね」
マキは「うん」と閉じた口の中で言葉を出す。なぜか自分を肯定されたようで、女は胸に熱いものを感じた。気持ちをこぼさないように、瞼をきつく閉ざす。その隙間から差し込む眩い光が、諦観を白い帳に包んだ。
ダイキ——。
手帳を畳み、女は両腕を広げてマキを抱きしめる。
「わあ、お話の続きは?」
「また明日。今日はマキを可愛がる日にします」
「えー、くすぐったい!」
古ぼけた一軒家から漏れ出る、じゃれ合う声。子は盛大に笑い、母もつられて幼心を思い出す。そのときだけは、殺伐とした夜も血濡れの口を噤んだ。雲の切れ目に浮かぶ月は、静かに光を湛えていた。
了
世界最後の輝き 島流しにされた男爵イモ @Nagashi-Potato
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