世界最後の輝き
今になって、忘れていた恐怖が胸を満たす。いくらズボンで拭っても、手汗はとめどなく溢れてくる。そんな手に、冷たく淑やかな手が重なった。ダイキは漫然とそれを見る。
「大丈夫。私がなんとかする」
するりと手が離れる。制止する暇もなく、クインテットが立ち上がった。つられてダイキも立ち上がろうとしたが、上から降りてきた手に押されて床に尻をつく。
「そこか」とサワタリ。
クインテットは臆することなく言う。
「私は殺していい。だけど、ダイキは見逃して」
「相思相愛か。二時間ぐらいの映画が作れそうだな」
サワタリが冷笑交じりに皮肉る。イヌイは「傑作ですね」と、新しい言葉を覚えたばかりの子どものように何度も繰り返す。クインテットは閉口して
「どうしても駄目なら、逃げる時間だけでも稼ぐ」
ダイキは顔を上げる。その言葉はサワタリにではなく、自分に向けてのものだと気づいた。罪滅ぼしのつもりか。胸奥より湧き出る灰汁のような淀み。クインテットは、現世に希望を見出せなかったアカリを救うために糧とした。それは独善的な判断か、あるいは。
逡巡の末に、ダイキは赦しを選んだ。正しくは歪んだエゴを捨てた。その決断が、クインテットに自責の念を植え付けた。赦しが罰を浮き彫りにする。誰がための赦しか。
「茶番はもういい」
酷薄な響きがした。次なる展開を予期し、ダイキは猟銃を支えに素早く立ち上がる。そのままクインテットを横に突き飛ばした。その行動を詰るように銃声が空気を裂く。
「ダイキ!」
肩に銃弾を受けて片膝をつく。体の中で、骨が慟哭している。筋肉が張り詰めた弦みたく微細に震えている。クインテットは顔面蒼白だ。
「残りはお前にやるよ」
サワタリがこちらを顎でしゃくる。それを受けてイヌイは、「待て」を解かれた犬の勢いで近づいてきた。手には大振りのナイフ。
ダイキはレジの上に猟銃を載せて構えるが、激痛で狙いが定まらない。イヌイとの距離が縮む。にもかかわらず、一向に照準が合わない。クインテットが声を張った。
「来ないで、あと一歩近づいたら死ぬよ!」
「吹かしやがって、やってみろよ」
「警告はしたから!」
次の瞬間、イヌイは自分の首に匕首を突き立てた。両手で柄を握り、喉を切り開く。赤い線が首に滲むと同時に、滝のように紅血が迸った。作業着が深紅に染まる。イヌイは両目を見開いたまま、床に頭を打ちつけた。その表情は困惑に終始していた。
クインテットは渋面を作る。人を殺すために思念力を使ったのだ。他の人魚ならまだしも、クインテットには相当堪えたに違いない。が、感傷に浸る間もなく銃弾が飛んでくる。被弾したレジのアンドロイドが、小気味よい音をたてて裏に転がる。ダイキは顔をしかめる。出血のせいで視界がざらつき始めた。おまけに悪寒が走る。
「大丈夫?」
小声で訊ねてくるクインテットに小さく肯く。
「……サワタリは俺が撃つ」
「無理だって、その怪我じゃ」
悲愴な面持ちをよそに、ダイキは力なく笑う。
「俺の思念を操れ」
クインテットは拍子抜けしたような顔をする。
「どういうこと」
「簡単だ。サワタリを操れないなら、俺を操ればいい。正直、自分の気持ちだけだと、銃を構えるのも精一杯なんだ。だからクインテット、俺に力を貸してくれ」
「でも、ダイキが死んじゃうかも」
「それも本望、だろ」
頼んだぞ、と目配せをして、ダイキはレジ裏を飛び出す。なにか言いたげなクインテットが視界の端に映ったが、すぐに振り切れた。猟銃を持ち上げて、銃床を肩にあてがう。奥歯で痛みを噛み殺し、サワタリに照準を合わせる。「撃て」という声が頭の中で
引き金を絞る。反動が肩を打つ。サワタリの足元の鉄筋が弾ける。次弾装填。最後の弾。その前に前方から発火炎が上がる。脇腹を熱気が過ぎる。引き金を強く絞る。
回転式拳銃を握るサワタリの指が千切れ飛んだ。叫びは聞こえない。一言「おお、すげえ」としか。こちらの弾は尽きた。ダイキは一気に距離を詰め、体当たりでサワタリを押し倒す。馬乗りになって、仰向けのサワタリの首に猟銃を押しつけ、あらん限りの力を込める。
負けじとサワタリも抵抗する。あちらは片手。ダイキは両手。力は拮抗しているが、僅かにダイキの方に分がある。窒息するまで、この状態を維持すればいい。
回転式拳銃は床に転がっている。そう遠くない距離だ。しかし、取りに行く余力は残っていない。荒い呼吸をしながら、猟銃に渾身の力を込める。サワタリのこめかみに太い血管が浮き上がり、顔が赤みを帯びる。そのとき、押さえつけていた猟銃が深く沈み込んだ。
サワタリが手を離したのだ。諦めたのか。そう思った瞬間、腹部に固い感触が伝わった。先ほど見た回転式拳銃の姿がない。すべて理解した。猟銃がサワタリの首を軋ませたと同時に、腹の中に火柱が上がる。クインテットの悲痛な叫びが聞こえた。
ダイキはうつ伏せに倒れ、口の端から血をこぼす。腹に開いた穴から、熱が去っていく。駆け寄ってきたクインテットに体を起こされて、ダイキは崩れた屋根を瞳に映す。
「しっかりして、絶対に助けるから!」
「……お前の傷とは違う」
冗談のつもりが皮肉になったことに気づき、ダイキは弱々しく失笑する。クインテットはすすり泣くばかりだ。伏せた顔から落ちる大粒の涙が、ダイキの口を濡らす。
「これで自由だ」
声を発する度に、体の芯に冷風が押し寄せる。まだ夏のはずだ。霧散していく思考を掻き集めようにも、痛みが複雑な思考を組むことを拒む。
「自由って。これのどこが」
「アカリに、会えるんだ」
「死なない。死なせないから……」
言葉尻が嗚咽に呑まれる。変わった人魚がいるものだ、とダイキはつくづく思った。人間に同情する人魚など、クインテットが最初で最後かもしれない。自分の見る世界最後の輝きだ。ダイキは、クインテットの背中に手を回して引き寄せる。そして耳元で囁く。
「俺を食べてくれないか」
「なに言って」
「お前の記憶になりたい。一緒に生きたいんだよ。それとも、独りで死ねって?」
あえて突き放した言い方をする。これでクインテットの逃げ道を断つ。狡猾なやり方だと思った一方、こうでもしないと拒まれるとダイキは予想していた。案の定、クインテットは「ずるいよ」と涙ながらに唇を震わせる。罪悪感は拭えない。
白んできた意識に、河原でのやり取りが想起される。
——この気持ちだけは嘘じゃないから。
クインテットの本音。もとより答えは知っていた。思念力が使えなくてもわかる。ダイキも同じ想いを宿していのだから。クインテットの背を優しく撫でる。
「なあ、クインテット」
「……なに、ダイキ」
「いや、空が眩しいな」
屋根の向こうに広がる藍色の空。泳ぐ綿雲の行く先は誰も知らない。
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