1-3

 悲しそうな表情を顔に貼り付けながら、黒木は頷いた。その仇が目前にいると言える訳がなかった。そして、静蛇本人も殺処分入りだった。親は最高重要機密を見聞きし、漏洩する危険性があったため、殺処分された。静蛇の父が聞いた情報を妻に伝えるだけでも、アウト。自動的に連座のように、静蛇も疑われていた。怪しい者は処分するべし。それは国家の安全を維持するために必要だった。


 裏切っていないことを証明するために、黒木に静蛇の親を殺す仕事が回された。わざわざ情報局長が直々に家まで命令書を運び、黒木に手渡した。気配からして、何人もの狙撃手が常に急所を撃てるようにしていた。そこまで業務提携組織に警戒されると思っていなかった、黒木は逆に呆れた。


 休日に何人もの人が駆り出されてるようで、お疲れ様と脳内で呟いた。黒木は社交辞令に笑顔を作った。山奥まで来るのはきっと大変だからだった。


 すると、引かれたので、唯一ポケットに入れていた愛用のナイフを情報局長に手渡し、丸腰であることを見せた。逆に緊張を高めたことを、黒木は気付いた。渡した瞬間に、殺意が全方向から感じられた。情報局長が咳払いをすると、殺意はなかったかのように消えた。黒木は情報局長の手から、命令書をありがたく受け取った。晩餐会のお誘いをすれば、やんわりと断られた。


 四肢を拘束し、銃を突き付けて安心するなら、黒木は喜んでした、だが、それでも、安心しないことは分かり切っていた。過度な評価は邪魔でしかなかった。そのため、家に缶詰状態にされていた。息をするだけで危険な人を、情報局としても外に放ちたくないからだった。


 静蛇の親とは面識があったため、ありがたく家にお邪魔することが出来た。出されたお茶と手作りの菓子をありがたく頂いた。だが、最後に息の根を止める時だけは、少し手が動きにくい感覚があった。帰宅後にはすぐに、地下に飼育していた兎を全匹手で絞めた。その感覚を確かめるように、一匹一匹死に際を観察しながら殺した。そして、今黒木には、怪しい動きをすれば静蛇を殺害出来る自由が与えられていた。



「動くな」


 黒木は素早く銃を引き抜くと、静蛇に銃口を向けた。突然のことに反応出来なかった静蛇は、しきりに口を動かした。その顔には絶望が塗られていた。黒木は以前教えられた通りに、口角を上げて笑みを浮かべた。そのまま迷うことなく、引き金を引いた。


 銃声がした。


 静蛇の頬に赤い線が引かれた。静蛇は顔を歪め、今にも涙しそうな表情をした。


「……な、何故? 何故なんだ、黒木捨一!」

 と、頭を抱えながら叫んだ。


 黒木は銃から手を離さずに答えた。

「お前は命を狙われている、静蛇。ここで殺されたいのなら残れ。嫌なら別の国へ行け。次は当てるぞ。忠告は一度しかしない」


 静蛇と視線を合わせずに、黒木は静蛇の横の壁を撃った。静蛇が逃げようとするまで、容赦なく撃ち続けた。静蛇を殺すよりも、殺さないようにすれすれの所を撃つ方が大変である。だが、悪友だとしても友を撃つのは懲り懲りだった。心が人になろうとしているようで、黒木は奥歯を噛み締めた。


「わ……分かったから。もう止めてくれ」


 自然と両腕を上げていた静蛇は、黒木に背を見せると一目散に逃げ出した。



 黒木は銃を構え直すと、静蛇の真後ろに銃弾を落とし続けた。その背中が小さくなるにつれて、胸に痛みを感じた。それはもどかしく不要な物だと分かっていた。なのに、同時に温かさを持っていた。黒木は震える手を抱えると、その場に座り込んだ。額に銃口を当てても、弾が出ることはなかった。黒木は目を赤くしながら、自分の顔を何度も触った。目から涙が流れることはなかった。


「これで、良いのだ……」


 自分自身に言い聞かせるように何度も呟いた。黒木はコートの中のスペースに銃を直すと、覚束ない足取りで立ち上がった。静蛇が忘れた髪袋を拾うと、元来た道を帰った。普段なら見逃さない岩に躓き、黒木は地面に倒れた。立ち上がる気力さえ残っていなかった。黒木は雨で濡れた地面を掴んだ。手に砂利が付き、体の至る所が不愉快だった。


「うっ…‥まずっ」


 黒木は唾を吐いた。口の中にも砂利が入っていた。決して食べたくない物だった。仰向きに転がると、白い雲が広がる空が見えた。目に水が入った。涙ではなかった。葉っぱに溜まった雨がたまたま、落ちてきただけだった。黒木は宙に手を伸ばすと、腕を横に下ろした。体に染みる地面の冷たさがあった。体は温かいはずなのに、それを感じさせなかった。最期のことを想像しそうになり、黒木は感情を切った。



 耳に野生動物の音が届き、誰かが近くに潜んでいるようだった。黒木は地面にいながら何も思わなかった。ただ見ているだけで殺しに来る様子はなかった。静蛇を殺した場合の見届人のようだった。黒木は服が汚れるのを気にしなかった。後で機械に全てを任せれば済んだ。シャワーを浴びればどんな汚れも落とせた。黒木は何も見つめなかった。ただその空間を降ってくる雨に打たれながら、眺めていた。悪夢に魘されないこの瞬間だけでも、幸せなのだった。静蛇との関係はこれで終わった。


 もう会うことは決してなかった。会わないのが利口だった。唯一心を許した生者、静蛇を贔屓するのもこれで最後だった。次に会った時には、命令通り射殺すると決めた。遺言を言わせる情けなどするつもりはなかった。


 黒木は口を少し開けると、腹の上で手を重ねた。今は何もしたくなかった。また一つ生きる意味が消えた。友と会う、という物が。享受していただけの日常が壊れるようだった。足元から。倒れていないと地面が感じられないように。ただ雲が広がっていた空間が黒くなり、赤い目と目が合った。向こうは二度と離さないと、睨んでいていた。


 黒木は銃を抜くと、一発だけ空に銃を放った。頬に痛みを感じ、空から降ってきた銃弾で掠めたと知った。もう少し横に転がっていれば、逝くことが出来た。体を竦めなかっただけでも、元の状態に戻れた気がした。恐怖は邪魔でしかなかった。今恐れている訳ではなかった。邪悪な物を駆除しているだけだった。


 未だ消えない赤い目を一瞥すると、黒木は銃を直した。役に立たない物を撃ち続けても意味がなく、無駄な抵抗だった。愛用のナイフを握ると、空間に振り下ろした。赤い目は声を上げることなく、姿を消した。頬の血を袖で拭うと、黒木はナイフをポケットに戻した。拾えるだけ痕跡を拾うと、黒木は場所を後にした。



 去り際に、黒木は茂みに向かって一発撃った。だが、茂みが動くことはなかった。監視は一応必要だと思うが、更に近付かれて聞き耳を立てる趣味には賛同出来なかった。


 重たい足取りで黒木は家まで帰った。体を蜘蛛が這い回っているように、服の間に潜む泥が不愉快だった。黒木には普段と何気ないはずの玄関の扉が、聳え立つように重々しく感じられた。扉を触ると鍵がなくても、扉が開いた。扉を握った手で指紋認証され、正面の壁に埋め込まれたカメラで虹彩認証されていた。扉を開けると、足元にかごがあった。家の管理を司る機械が、黒木が泥だらけで帰ると予測していた。黒木が家に入ると、扉はまた口を頑丈に閉じた。


「ただいま」


 黒木は何気なく呟くと、汚れたコートを脱いで中に入れた。ついで家に入る時に脱ぐ、靴下も投げた。用意されていたタオルで顔を軽く拭いていたから、足も綺麗にした。機械が綺麗にしてくれるとしても、余計な仕事を増やすのは嫌だった。泥の付いた足だと床が汚れ、自分が聖域を犯すことになった。物置が自動的に開き、黒木は差し出されたトレーに、外したホルスターとナイフを置いた。物置は黒木が他に置く物がないことを知ると、元の場所に帰った。黒木はそのまま洗面に行った。背後では汚れ物のかごが壁に消え、靴の汚れと共に玄関の床とポーチの掃除が開始された。


 朝に放置していたパジャマが、台の上に畳まれた状態で置かれていた。横には先程機械に渡した、ナイフが一瞬にして綺麗にされていた。黒木は目を細めると、洗濯かごに汚れた他の物を突っ込んだ。用意されていたバスマットを踏むと、浴室の扉が開いた。温かいシャワーに包まれながら、黒木は体の汚れを流した。鏡を見れば、頬の傷はもう目立たなくなっていた。汚れを擦るように落とすと、排水口に流れる水は透明になった。


 だが、黒木は肌が赤くなるまで安心出来なかった。シャワーを止めると、溜め息を溢した。下を見れば髪を伝って、目に水が入った。目に染みるとしても、黒木には痛くなかった。


 扉を開けると、手すりにかけられていたタオルで体を拭いた。足元にあった服を身に着けると、黒木は軽く体を動かした。外出用ほどではないとしても、カジュアル過ぎず動きやすかった。家で襲われても、困ることはなさそうだった。機械からのアドバイスで言われた化粧水を顔に付けると、髪を乾かした。音が聞き取りにくくなる、乾燥時が一番嫌だった。そのため、背後を見つめながらしか乾かせなかった。ナイフを定位置に入れると、黒木は階段を上った。


 黒木は髪を手で整えてから、彼女の部屋に入った。


「帰ってきたよ」

 と、布団に隠れた彼女の手をそっと触った。


 昔見た時よりかは大きくなった手。だが、黒木の手の中では小さく感じられた。すっかり皺が増え、彼女の目がどこを見ているのか分からなかった。黒木は願わくば、その穴が自分のことを眺めていて欲しいと思った。もし自分以外ならその人を手で殺めたくなった。彼女の頭を少しでも強く触ると、髪が抜けてしまった。黒木は心の中で、触ってしまったことを謝罪した。黒木はおっとりした目を彼女に向けた。


「ねぇ、何か話してよ……」


 硬い彼女の顔を触ると、温かいのは黒木だけだった。黒木は視線を落とした。


「仕方ないよ。君は話したくても、話せないから……。僕が君を助けるんだ」


 黒木は彼女を一人にするつもりはなかった。一人に置かれるなど、地獄よりも辛い拷問だった。彼女を救えなかったからこそ、黒木は今からでも出来ることをしたかった。たとえ彼女が何も喋れなかったとしても、黒木が分かれば困ることは何もなかった。


「また夕飯で会おうね」


 そう呟くと、黒木は階段を降りた。廊下のボタンを押すと地下に続く、螺旋階段が現れた。電気が下まで付いた。降りる途中に、寒気を感じた黒木が体を縮こませると、壁から上着が出た。黒木はそれを羽織ると、地下一階まで降りた。


 武器庫の横を通ると、一人の時間を楽しむために用意している部屋があった。用途に応じて部屋の大きさを変えることが出来た。大体拷問室から解体室に変わることが多かった。一々場所を変えるのも血が飛びだけであり、そのままの空間でする方が良かった。壁の奥には屠殺場の冷蔵庫のように、兎が何匹もかけられていた。丁度、熟成され、特には燻製にするのも良かった。


 画室にするためにキャンバスボードと椅子が用意されていた。黒木は椅子に座ると、絵筆を足元の絵の具の容器に付けた。取り立ての鮮度の高い赤色が、照明に照らされていた。黒木は信じるがままに、キャンバスの上で思いを形にした。人の顔を黒木は描けなかった。色の濃さが異なる、無機質なブロックが何個も並んだ。無数にブロックが散らばる中、赤い川が間を通っていた。黒木は絵筆を強く握ると、指で回して遊んだ。顎を触り、唸ることを続けた。黒木は絵筆をキャンバスボードに置いた。頭を掻くと、大きな声を上げながら立ち上がった。


「違う、違う。僕はこんなことを描きたい訳じゃない」


 容器の水面が揺れ、黒木の姿を映した。黒木は頭を抱えると、床に体を丸めた。枕、毛布、布団と寝る一式がさり気なく出され、黒木は首を横に振った。怒りのままに足で蹴ると、キャンバスボードを爪で壊した。爪に赤いのが入ろうが、今は気にすることではなかった。大きく息をしながら、黒木は布団にもたれた。クッション代わりの布団が怒りを勝手に癒やした。騒いだのが惨めに感じられるようになった。だが、それを求めている訳ではなかった。体をだらりと伸ばしていると、爪の汚れを綺麗にされ、毛布を上にかけられた。過保護な機械が、何かを言う前に勝手に動いていた。


 黒木は白い天井を眺めた。何かをしたい訳ではなかった。思うようにいかない時は、十分な休憩を挟むのは一番だった。そんな中、時間が経つにつれて明かりが暗くされていることに気付いた。模様も汚れもない天井を見ていた黒木は、瞼を閉じた。眠気はなく、すぐに開けた。ただ寝るだけでは、時間が無駄になってしまうと考えていた。ただ試しにもう一度閉じてみた。すると、意識が落ちた。いつの間にか黒木は、夢の世界に誘われていた。



 安らかに眠る黒木を見て、機械はゆっくりと黒木の背中を上げた。汗を掻き過ぎるのを防ぐために、上着を脱ぎ取ると横に畳んだ。黒木の体を持ち上げると、布団の上に体を運んだ。そして、床に置いたままになっていた毛布をかけた。照明を切ると、黒木の睡眠の妨げをしないようにした。機械は電気がなくても何にどこがあるか覚えていた。もし物の場所が移されていても、センサーで認識出来た。黒木が放置した物を片付けると、家の安全を確認した。トラップが反応しているのを見ると、外に備え付けられた何台もの監視カメラを覗いた。不審人物の姿はどこにもなかった。次にインターネット上に散らばる情報を、納得するまで調べた。

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