2-2

 黒木は目に舌を付けてキスをした。


 兎の肌が間近に見えた。目に味はなかった。だが、舐め続けると、飴のような甘さがした。蜂蜜ほどではないが、綿菓子のように舐めては甘さが溶けていった。黒木は深く味わうために執念に舐めた。見下ろせば、目を覆う水が黒木の唾液になっていた。唾液が垂れる目元を黒木は手で拭った。涙を流されるのは似合わない気がした。兎は口が開いた状態でだらしなかった。口からは舌が出ていたので、黒木は指で中に入れた。瞼を触ると指で閉じた。


「おやすみ」

 と、頭を撫でた。


 今の兎には生前の恐怖が跡形もなく消えていた。ただ死者のように動くことがなかった。安らかにしているのなら、少しでも幸いだった。生前の辛い体験や嫌なことも忘れ、今は何も考えずにそこにいたら良かった。黒木は頭を膝に乗せると、頬を触った。髪を梳いても、表情を変えることがなかった。黒木は頭を持ち上げると、首元に牙を沈めた。噛み千切ることはせず、歯型が付いたことを喜んだ。頭に体が見えるようにすると、黒木は頭を支えに頬杖を付いた。


「どう、見える? 解体されている様子が」


 視線の先では機械が体をせっせと部品ごとに捌く、解体ショーを行っていた。皮を剥がれた状態で吊るされていた肉体は、光に当たると輝いていた。服も皮も剥がされても、恥ずかしそうにもしていなかった。一気に兎らしさがなく、食べるだけの肉だった。黒木は唾を飲み込むと、どのような味か想像した。次に内蔵が取られた。兎の中に秘められていた大きな物体が落ち、心臓が台に下ろされた。体のわりには小さく、踏めば潰れそうだった。後は機械が、上の冷蔵庫に入れやすいサイズにカットしていた。


「体はすぐにあんなに小さくなったね。ちっぽけだ、何とも」


 立ち上がると、黒木は頭に見える距離までガラスに近付いた。心臓の血管一本一本がはっきりと見え、黒木は頬を綻ばせた。その心臓を絞って作ったワインも美味だった。だが、特に好きなのは血から直接啜る生き血だった。これほど濃厚な味わいを持つ飲み物はなかった。吸血鬼が何故血を好むのか、黒木はすっかり理解出来た。逆に吸血鬼が実在するなら、自らの食事を邪魔する物は抹殺する必要があった。黒木は顔と目を合わすように動かすと、口角を上げた。



「そうだ、笑いながら踊って逝こう」



 笑顔の練習には使いやすかった。黒木からすれば兎と自分は対して変わらなかった。捕食者と被食者の関係だが、元は同じだと知っていた。もし自分の肉を切り落としても死なないのなら、黒木は自分自身を食べたかった。何も兎を凶悪犯罪者のように、支配するために食べている訳ではなかった。人が牛や羊を食べる時に理由を求めないように、ただ美味しいからだった。それ以上でもそれ以下でもなかった。


 腑を抉り取った後に具材を詰めて煮込む。より味を引き立てる料理の味を、黒木は思い出してしまった。湧き出る唾を飲み込んだ。食べたい衝動はあったが、今食べてしまえば行儀が悪いと諦めた。空腹を先程まで感じていなかったのに、実物を目にするとそうでもなかった。


「が、我慢だ」


 黒木は頭を遠ざけると、口を手で覆った。歯が手の甲に食い込み、赤い血が流れた。だが、痛みを感じる暇もなかった。我慢さえすれば何とか、衝動を抑えることが出来た。この廊下で食い荒らすのは、許せなかった。機械に頭を回収させると、黒木はポケットから飴を取り出した。


 震える手で急いで口の中に押し込んだ。焦って味わうこともなく、飲み込んでしまった。飲み込んでしまうとは思わず、黒木は自分が静蛇と同じことをしていることに気づいた。思い出したくない人のことを思い出してしまい、黒木は後悔した。溜め息を付くと口を開けた。


「つまらない」


 肉と化した兎から目を離すと、黒木は床を蹴った。それで気分が良くなることもなかった。手の血が床に垂れた。それは穢れている色でしかなかった。黒木は廊下を突き進むと、冷蔵庫から感じる冷気が消えた。肌寒くなりなり、頬に温かい風を感じた。機械が自動で動いているようだった。黒木は顎に手を付けると、視線を上げた。そこには黒木が大切に保管する作品が保管されていた。美術館のようにガラスケースの中に、光が当てられていた。地下にあるそれらが、再び太陽の光を浴びることはなかった。


「何とも惨めだ」


 黒木はそう呟くと、ガラスに手を当てた。ガラスがひんやりしていた。ガラスの向こうの物は動くことがなかった。親に似た顔の二つが天井から吊るされていた。母はもう骨になり、蒸発していた父ももう消した。だが、黒木の気持ちがそれで収まることはなかった。


 濡れ衣を着せてでも、黒木は似た二つを手に入れた。そして、その二つが常に死んでいることが確認出来るだけで、黒木はやっと安心した。これ以上夢の中で好き勝手されるのは堪らなかった。なのに、その二つを用意させても、状況が変わることはなかった。


 ゆっくりと吊るされた状態で回転する二つを、黒木は鼻で笑った。自分と二つが違うと分かるだけでも良かった。たとえどれほど無駄なことをしているとしても。黒木が見える目前に二つの首と心臓が置かれていた。その二つが確実に摘出されていることで、黒木は再度殺したくなる衝動を止められた。女は万歳をするように両手を上げ、首元から股間まで縦に開かれていた。黒木が獣であった母を人として死なせるつもりはなかった。一度目の死は苦しみをもって行い、二度目の死は獣として処分した。生きたまま切り開いた女の口から出た叫び声は、黒木を興奮で震わせた。一度目は苦しそうに、息を求めてもがく音しかなかった。いつまでも聞き続けたい声だったのに、女はすぐに事切れた。獣だろうと脆い物だった。


 女の顔に近付くと、黒木はそれを見つめた。あの日の表情のまま、女は顔を歪ませていた。そのままの状態で保管されていることに、黒木は満足した。女が動かなくなった後、新鮮な肉と血で喉を潤せるのはこの上なく最高だった。血塗れの手で女の頬を色付け、自分の髪も真っ赤に染めた。同じ物で自分を濡らしたことに気付いた黒木は、怒りのまま女の首に力を込めた。首が音を立てて折れ、首がすわっていない赤子のように軽く揺らすだけで重い頭が動いた。玩具のように振って遊ぶと、黒木は全身に血を受け止めながら頭を切り落とした。


 小さい切り口が広がり、やがてごとんと落ちるのは爽快だった。動かない体を眺めると、黒木は母性を求めるように女の指をしゃぶった。また突然立ち上がると、女の足と股間を靴で押し付けた。何かが潰れる音が聞こえると、黒木は靴を動かした。ゴキブリのように何かが潰れていた。



「また、会ったな」


 女の隣に置かれた男に、黒木は目を向けた。口から垂れた舌は黒く炭化していた。黒木が火の棒を口の中に突っ込み、喉ごと焼いたからだった。自分を見捨てた敵に、喋る暇さえ与えるつもりはなかった。男を捕えると、すぐさま口を使えなくした。声にならない音を漏らし、空腹で倒れる様子は見ていて楽しかった。憎しみも増え過ぎると、どうでも良くなると知った。ただ敵を殺したくなる。だが、ただそのまま殺すのは嫌だった。


 死に絶えそうな虫のように、転がる姿はお似合いだった。二つとも目を潰そうか悩んだが、黒木はまた復讐相手を見つけたくならないように残すことにした。出来るのなら確実にその手で跡形もなく消したかったが、また取引をするつもりもなかった。面倒ごとは一度だけで良かった。また対価を払うのは面倒でしかなかった。


 男は女とは対照に足から吊るされていた。腹側から背の方に釘が、埋め尽くすように突き出ていた。手でまた敵を裂かないように、黒木が生きたまま釘を打ち付けた。四肢を括り付けた状態で、黒木は丁寧に一本ずつ手で打った。喉が潰れた男は女とは違い、初めから叫び声を上げていた。最初から言葉で叫んでなかったのは良かったが、途中から面白味がなくなった。自分を凝視する男を見つめると、黒木は男の首に軽くナイフを滑らせた。少しずつしか垂れない血は、男が叫び声を上げると大粒の血を垂らせた。自分の行為で死が近付いていくのは、見ていて新しい娯楽だった。


 男は釘と喉と首の痛みで悶えながら、体を震わせていた。黒木は首から新しい液が出るたびに、直接それを飲んだ。痛みに耐えながらも必死に嫌がる姿は、黒木からすれば不思議だった。女はすぐに逝ったのに、男は中々しぶとかった。どこまでも生に縋り続ける様子は醜かった。


 耳元で男が煩いので、黒木はガムテープを貼った。恨みが増したということもあった。死に行く瞬間まで、命乞いしていた父と比べれば違った。だが、女の叫びと比べれば、男のは唸っているだけだった。芸術性に欠け、下品でしかなかった。鼻も軽く覆ってしまうと、男は何とも息がしにくそうだった。顔を真っ赤にしながら、遊んでいるようだった。黒木は釘で出来た足場に座ると、左右に体を揺らした。体重がかかった釘は更に深く突き刺さり、体を貫通した。立ち上がると屈み、黒木は背に生えた部分を触った。搾りたての果実のように、血がべっとりと付いた。


 男が叫び声も動きもしなくなると、黒木は男を殴った。鼻から血を流した男は、口から血を吐いた。男の上に乗ると、黒木はポケットからナイフを取り出した。女の血を存分に吸った、黒木が愛用するナイフだった。目に近付けようとすると、男は頭を後ろに倒した。下に用意していた、新品の釘に首が食い込んだ。花が首から咲き、男は痛みで頭を動かせなかった。ナイフを目を前で左右に動かすと、男の視線もそれを追った。黒木は男の髪を掴むと、ナイフを深く刺した。血の噴水の水圧を強くするために、ナイフを左右に掻き回した。穴が次第に広がった。黒木は支えに釘を用意して良かったと思った。頭も体も全て分かっているように、無駄に動かなかった。女は暴れ続けるので本当に大変だった。


 味わうようにナイフを滑らせ、黒木は首の肉を少しずつ削った。しかし、確実に肉は抉れ、体から分かれていった。男の目から色が消え、血だけを噴く物体と化した。男の頭を抱えると、黒木は男の体に乗った。温かいマットのようで保温性があった。少し釘で硬いとしても、今は気にならなかった。男の頭を抱えると、黒木は切り口に顔を付けた。顔全体で舐めれるだけ血を味わうと、頭を膝の上に置いた。ナイフを手に首の肉を掘り出した。脳味噌を味わいたかったが、黒木はそこまで辿り着くことが出来なかった。


 黒木は誰かを愛する者の前で殺すのも皮肉そうだと考えた。だが、二つを生きたまま捕えるのは面倒だった。その場で絞めた方が運びやすかった。生きていると、死んだ時と同じ状態では運べなかった。手間がかかり、どの道食べるのなら生かす方が意味がなかった。愛する者を殺された顔よりも、死を目前に感じる顔の方が良かった。そちらの方は何度も見た。黒木自身が相手をそのような状況にさせた。狩人として。だこの世には、苦しみで死に行く顔よりも快楽的な娯楽はなかった。


 最初は二つの口を付けてキスをさせたり、首のない体でダンスをさせたりした。だが、黒木の興味もすぐに消え、床に捨てた。受け身も取れずに、倒れる様子は人形のようだった。母は人の皮を着た獣だった。父はその中に敵が潜んでいた。兎は被食者が偉そうに人の真似をしていた。


 黒木は女の頭を切れ目が下に来るように置いた。男の頭に靴を置くと、黒木はボールのように蹴った。完全な丸ではない頭は直線には進まず、女の頭に当たる前に止まった。殺っている時は何も感じないのに、終わった後に一気に黒木は一人でふざけたことをしていると気付いた。舌打ちをすると、黒木は溜め息をした。自分に惨めさを感じると、折角の幸せも逃げてしまいそうだった。

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