2-1

 煙草の濃い匂いがし、黒木は顔を上げた。ふと回りを見れば、どこかの道を歩いていた。見に覚えがあるようで、はっきりと記憶にない場所を歩いていた。今住んでいる家の近くではないことは確かだった。先程まで寝ていたはずだと黒木は頭を動かした。腰回りに手を当てても、どこにも武器を携帯していなかった。機械にどこかに放置されることはないはずだった。まして武器を取られるとしても、誰にかが分からなかった。


 黒木は歩みを止め、首を左右に動かした。母と暮らしていた家の近所だった。母との過去をまた思い出しそうになり、黒木は顔に爪を立てながら座り込んだ。これまで何も困ることがなかったのに、最近になって自己暗示が解けそうになっていた。苦しみを感じたくないのに、記憶は黒木を許さなかった。離さないというように記憶の蛇が、黒木の体をきつく締め付けた。息だけはさせるが、それ以外の自由はなかった。仕事中に我を忘れるようなことはしたくなかった。それほど恐ろしいことはなかった。


 また煙草の匂いがした。静蛇のことを忘れさせないというように。黒木は誰もいなかった歩道に歩く人を見た。その人とは距離があったため、服の色ははっきりと見えなかった。だが、次第にその存在全てが黒く染まった。頭から足先まで黒くなり、黒木が瞬きをするごとに距離を近付けた。一人でだるまさんが転んだをしていた。黒木はその不気味さに一歩後退った。


「……何?」


 恐怖を感じてこなかった心から、恐れが芽生えた。手足が冷たくなり、冷や汗が流れた。黒木は自分の体が震えていると知った。それは黒木の様子を楽しむように、赤い口を大きく開けて笑った。黒い顔に白い点が二つ出来た。


 白い目に間近で見つめられ、黒木は目を離せなかった。それの黒さにも白さにも底がなく、日に当たる反射も陰もなかった。それはせせら笑いをすると、黒木の中を通り過ぎた。黒木は体を大きく震わせると、地面に倒れた。最後に誰かの足を見た。自分に向かって近付こうとする足だった。



 目を覚ますと、黒木は温かい物に包まれていることに気付いた。心地良い寝所が丁寧に用意され、毛布がかけられていた。黒木は頬に涙が流れた跡があったことに気付いた。袖で拭くと、毛布を剥ぎ取った。寝起きだと寝る前よりも寒く感じられた。上着を羽織ると肩にかけられた毛布に付いた、ボタンを黒木は閉めた。保温効果のある毛布は一番温かい状態だった。再度寝ないように耐えていたとは、口が裂けても言うつもりはなかった。朝は眠気が一切なかったが、昼寝をした時はそうではなかった。


 蛇が首に巻き付くように、眠気が支配していた。ただ風邪を引かぬように、配慮してくれた機械には感謝していた。風邪を拗らせて仕事が出来ない間に、捨てられるのは辛かった。


 一歩一歩小さく進み、黒木は巨大冷蔵庫の方に向かった。壁に打つかる前に、壁自身が黒木を避けるように道を開けた。暖房の付いた廊下を歩き、黒木は巨大冷蔵庫の前に立った。ガラス張りの壁から、黒木は寒くなることなく中を見れた。黒木が仕留めた時の表情のまま、兎達は懸吊されていた。両足に穴が開けられ、フックがかけられていた。どれも服はなく、頭は飾りのためにまだ付けられていた。上の家庭用冷蔵庫に少し前に解体した兎の肉があった。だが、残りも少なくなってきたため、黒木は今日にでも盛大な晩餐会を開こうと思った。きっと彼女も楽しむはずだった。


「肉が尽きそうだ。補充してくれ。後、夕飯の席で楽しめるように一番美味しそうなのを確保しておいてくれ」


 黒木がそう言うと、機械のアームが中央の兎を掴んだ。兎は表情を変えることなく、逆立つをいつまでも続けていた。機械が動かす時に首の切れ目が開き、口のように血の穴が見えた。黒木に見えるように機械は台を用意すると、兎をそこに転がした。アームの先を包丁にすると、首を切り落とした。頭は音を立てて首から外れ、台から転がり落ちそうになった。機械は頭を正面に置き直すと、どの兎から取れた肉か分かりやすいようにした。


「ちょっと持ってきてくれ」


 そう黒木が呟くと、黒木の足元に椅子が用意された。ガラスの向こうで天井に穴が開いた。機械が頭を天井の穴に入れると、黒木は上から降ってきた頭を掴んだ。黒木はその顔を見つめながら、椅子に腰かけた。ぬいぐるみのように抱き絞めると、程良い大きさだった。頭だけが冷たいのがやけに不思議に感じられた。



 黒木は焦点の合わない目を見て、兎の最期を思い出した。リアル鬼ごっこの参加者であり、最期まで恐怖に震え涙していた兎だった。


 黒木は兎の足を折ってから、他の兎でどのように今から食べるか見せた。逃げようと動いた兎に飛び付くと、蟹を食べるように両腕を切り離した。生きた状態で頂く新鮮な肉は美味しいのだった。温かい血で体を赤くしながら、黒木は切断面に吸い付いた。生き血も新鮮だった。服を破ってみると雄だと知り、ぷるぷるしている長い物を食べた。その後に脂が多い太腿に口を付けた。鳴き声が煩かったので、黒木は首を横に切った。滝のように溢れる血も無駄ではなかったので、その傷口に口を付けた。一人だけ楽しむのは可哀想だったので、一緒に楽しむためにした。


 だが、兎は最後の晩餐に差し出した仲間の肉を、吐きながら拒否した。そのため、溜め息を付くと黒木は絞めた。抵抗がなかったので、美味しい状態に出来た。


 座り込むと黒木は、まだ肉が付いていた雄の兎を骨の髄まで食した。鬼ごっこは始まったばっかりだったので、栄養と水分補給はしっかりする必要があった。熱中症で倒れるなどしたら、折角の楽しみが逃げるのだった。食べ終わると、黒木は靴で残骸を土に埋めた。足元には、掘り返された土と血の跡しか残っていなかった。血の付いた口元を拭うと、鼻歌を歌いながら黒木はまた歩いた。地道に罠に嵌めて囲む方が楽しかった。なので兎には固まらずに、森中を走り回って欲しかった。



 最近の中では上位に楽しいイベントだったと黒木は思いながら、頭を赤子のように持ち上げた。子供が生まれれば、このような物なのだろかと思案した。兎の肉は一匹分でも軽かった。それが命の重さかと思えば呆気なかった。黒木は結婚をするつもりがなかった。罪を感じている訳ではなかった。


 ただ母の姿を思い返すと、行為は人ではなく動物が繋がっているようにしか見えなかった。人以下の物のようで野蛮だった。恋をしたこともなかったし、結婚など思いの外だった。少子高齢化が叫ばれる中、人類の存続のための結婚などいらなかった。彼女がいるにも関わらず、一人で動うつもりはなかった。


「この瞳は最期に何を見たのだろうね」


 黒木は頭を顔に近付けると、目を覗いた。眉毛を一本ずつ数えるようにじっくりと観察した。色は濁り、何かを映すことはなかった。微かな光さえも照らさなかった。黒木は目に指を滑らせた。中々気持ち良いことに気付いた。出来れば目を飾るために抜きたかったが、可哀想だったので止めた。ガラス玉と変える人もいたようだったが、黒木はそのままの美しさを維持したかった。


 手を加えてしまえば、違う物になった。黒木は親指と人差し指で目を摘んだ。指で動かすごとに目が動き、人形で遊んでいるようだった。だが、可動域は生き物と比べたら狭かった。瞬きもしない。

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