第一章  ALONENESS

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 黒木は飛び起きると、目頭を押さえた。


 寝起きから頭痛が酷いのは、勘弁して欲しかった。視線を上げると、目前に広がる世界が真っ赤になっていた。普段見覚えのある部屋はどこにもなく、赤だけが広がっていた。その中に黒木は一人取り残されていた。


 高い所から落とされる衝撃がし、気付けば床に転がっていた。ベッドはどこも荒れておらず、体だけが吐き出されたようだった。埃を叩きながら立ち上がろうとしたが、貧血に襲われた。倒れそうな体を、ベッドに手を付いて支えた。空腹を感じるだけ、今日は体調が良かった。


『ねぇ、何で貴方だけ幸せなの? 貴方を産んで不幸になった私のために、死んでよね。お前を産めば幸せになれると言われたのに、嘘付きが』


 忌々しい声が耳に響き、黒木は壁に拳を打ち付けた。顔と記憶を忘れ去ろうとした。思い出したくもなかった。


 なのに、首元に手を置くと、自分で首を絞めていた。息が苦しくなり、黒木は壁にもたれた。手を離したいのに、気付けば両手を首に回していた。自由の利かない手が、首を絞める力を強くする。息苦しさに黒木は、奥深くに封印していた記憶を思い出した。



 黒木は、母親に愛情を注がれたことがなかった。


 記憶の中でいつまでも、仇を見る憎悪の表情をしていた。それ以外の顔をされたことはなかった。


 唯一深く抱擁されたのは、首を絞められる時だけだった。その時だけ母は欲を丸出しにしていた。醜い物を消し去れると顔を歪めながら、喜びを露わにしていた。それはただの狂気だったのかもしれなかったが。意識が何度か飛んだ後、愛する我が子を見た親のように介抱された。


 気が済むと体を叩かれ、足で踏み潰された。子供はただのサンドバッグでしかなかった。ストレス発散のために、全ての怒りを体に刻まれた。醜いと家から蹴り出され、寒い夜を一人で過ごすこともあった。


 雪が降る聖誕祭は寒かった。凍える寒さを温めてくれる者はなく、黒木は体を自らの熱で温めるしかなかった。飾りのように存在だけしていた父は、凶暴化する母を恐れ、尻尾を巻いてどこかに逃げた。他の何よりも自らの保身のために、安全な場所に逃げ隠れした。


 黒木は父の顔を見たことがなかった。狩るまでは。母は借金をしながら好きな男に注ぎ、体ででも金を稼ぎ続けた。どんな男でも家に呼び、勝手口の隙間から音が漏れた。それは吐き気のする喘ぎ声の時もあれば、母が失敗して相手から折檻される音だった。


 いつしか愛されようとも、黒木は思わなくなった。


 幾ら願おうが、愛されることはないからだった。我が子を凶死と名付けようとした親に、何かを求める方が間違っていた。母からすれば、この世に産み落としてしまった汚点でしかなかった。


 子供さえ産んでいなければ、輝かしい生活を続けることが出来た。子供は邪魔だった。生き物であるため金を喰うが、何も生まない。腹を痛めて産んだ母は納得出来なかった。


 そのため、あの日は首を普段よりもきつく絞められた。テーブルを囲んで家族で楽しむ誕生日は、首を実の母の手で囲まれていた。


 命の危機を覚えた黒木は、隠し持っていた鋭利なハサミを取り出した。生きるために、それを何度も振りかざした。目前の怪物が何も鳴かなくなるまで。襲われることがないように。



 気付けば足元には、大きな真っ赤な水溜りが出来ていた。黒木はハサミを捨てると、大声で泣いた。


 泣きながら、母の温かさを口で味わった。初めて感じた母の温もりは、黒木の腹を満たした。


 家に来た借金取りが叫びながら逃げ出すほど、黒木は顔を母で赤くしていた。美味しいかは関係なかった。母の愛を感じられるだけで、幸せだった。


 これほど胸の穴が満たされるのなら、もっと早く母を殺るべきだったと後悔した。たとえ、愛に飢えた獣と蔑まれようと、黒木が気にすることではなかった。



 黒木は息をゆっくりと吐くと、手を首から離した。体の乗っ取りから解放され、権利を自分に取り戻すことが出来た。額に付いた汗を腕で拭うと、黒木はゆっくりと立ち上がった。


 クローゼットを開けると、今日着る服を眺めた。ハンガーに黒い上下が、何着もかけられていた。全て同じ服だった。服で悩むことがあるのなら、もう同じ服を着てしまった方が良かった。クローゼットに潜む同じ色の物が、今だけ日差しで照らされていた。適当にワンセットと黒い靴下を取り、黒木はパジャマから着替えた。


 枕をずらして、隠していたナイフを手に取った。ナイフは両端が丸いペン型で、持ち運びが便利だった。深い青色に外装は塗られ、どのような硬い物も切れる刃が付いていた。黒木の大切な愛用する物だった。そのナイフとサイドテーブルの懐中時計をズボンのポケットに入れた。安心の重さを感じ、黒木は安堵した。


 壁の額縁に収められたハサミを一瞥し、黒木は部屋を出た。血がこびり付いたそのハサミを見れば、いつも初心に戻れた。同じ怪物にはなるつもりはなかった。醜い怪物に豹変するはずがなかった。たとえその腹から産まされたとしても。狩人に黒木はなったのだった。怪物では決してなかった。


「今日もまた、一日が始まるか……」


 寝起きの機嫌が悪いのは、きっと朝だからだった。


 黒木はそのまま隣室に行った。そこに行くと考えるだけで、いつも気分が上がるのは魔法のようなものだった。距離は近いとしても、朝にいつも会えるだけで寝起きの疲れは癒やされた。それほど彼女は黒木の全てといえた。部屋に入ると、天蓋カーテンを開いた。ベッドの上で彼女は安らかに眠っていた。


「おはよう」


 囁くように呟くと、黒木は彼女の頭を優しく撫でた。彼女から返事はなかった。それでも、黒木は彼女がその場にいれてくれるだけで幸せだった。これで誰かを失うことはもうなかった。彼女の頬にキスをすると、黒木は階段を降りた。


 パジャマを黒木は洗濯かごに入れた。顔を洗うと、見たくもない自分の顔が映された。母の面影があるその顔は、この世で一番見たくないものだった。剥いだ後に他の顔を付け替えれるのなら、今にでもしたかった。親の面影が残るのが憎らしかった。黒木は鏡に拳をぶつけた。


 だが、それで気分が良くなることはなかった。拳から伝わる無視したくても出来ない痛みで、自分のちっぽけさを逆に証明された。傷が更に抉られるだけだった。頬を両手で叩いた黒木は、大人しく顔を拭いた。髪を手で整えた。鏡の自分は黒い服を身に纏っていた。それだけを黒木は事実として理解出来たが、お洒落は分からなかった。


 冷凍庫から食パンの袋を取ると、一枚だけをトーストで焼いた。焼いている間に、黒木は上の冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の奥にある大きな肉片を一瞥すると、手前の皿を出した。昨夜に調理した残り物。好きな肉と野菜を炒めた物だった。


 それを電子レンジで温めていると、パンの良い匂いが部屋に漂った。黒木は鼻歌を歌いながら、食パンを皿に置いた。そのまま箸で出来上がった肉と野菜を装った。窓から射す光に照らされるリビングを見つめた。緑に茂る森が目前にあった。黒木はキッチンで立ちながら朝食を頬張った。表面はカリッとしながら中は柔らかく、美味しい肉汁と炒めて苦さが緩和された野菜。すぐに平らげるほど、黒木が好きな味だった。口元を拭くと、注いでいた麦茶に口を付けた。締めに好きな麦茶が喉を潤した。


「ご馳走様」

 と、満腹なお腹を感じながら、黒木は息を吐いた。


 美味しいからその肉がいつも好きだった。食事に微塵も興味がなかった黒木が、今は食事が待ち遠しくなるほどに。食器を洗うと、黒木は歯を磨いた。洗面の方にまで肉の香りがし、食欲を唆る匂いが家中に広がっていることが少し嬉しかった。きっと彼女も楽しんでくれている。朝は忙しいとしても、夕食なら一緒に食卓を囲むことが出来そうだった。

 黒木は背伸びをすると、玄関に歩いた。物置を開けると、下に備え付けられたボタンの一つを押した。物置に飾られていた日用品が横に下げられ、空いた空間に穴が開き、ホルスターに装備された銃が前に差し出された。数日前に装備した状態で置いていた。


 無駄な工程が多いことは知っていたが、男のロマンとして付けた装置だった。安全のために家中の壁に武器が出せるようになっていた。だが、それほどしても、黒木は常に愛用のナイフを持ち歩かなければ安心出来なかった。地下には安全用にシェルターと、武器庫を置いていた。屋内射撃場もあったが、野外射撃場の方が感覚が冴えた。野生動物が棲まう中で息を潜める。それはビル屋上からスコープを見つめているようだった。都会の騒音が響く中、いつ標的を殺すかは自分で選べた。その最高の瞬間を選び、場を掌で弄ぶことが出来た。失敗すれば死ぬスリルは実行時にしか味わえなかった。ただ今は仕事の方が多く、射撃場に余り足を運んでいなかった。埃を被る前に行こうと黒木は思った。


 ホルスターを掴むと、腰に装着した。動きを何度か納得するまで確認した。


「大丈夫そうだな」


 黒木は一人呟くと、黒いコートを羽織った。今日は仕事がある訳ではないので、重装備をする必要はなかった。多少身の安全を確保出来る物を付け、後は警察にばれないようにする必要があった。家という自らの聖域に、穢れた者を招き入れるつもりはなかった。そのために家がある森に、黒木は玩具を何個もばら撒いた。黒木以外が踏み入れば帰れないように。ただ一般人のことも考慮し、怪しい動きをしない一般人は機械に帰らせるようにした。無駄な殺生をするつもりはなかった。黒木は人殺しが趣味ではなかった。その生き方しか分からないからだった。身を縛る業の世界に誰かを誘うつもりはなかった。犠牲は一人で済むからだった。


 玄関に置いていたお菓子の山から一つ取ると、黒木はポケットに入れた。自家製のおやつは手間をかけたから美味しく、肉の次に好きだった。それを開発するためにかけた苦労の日々を、黒木はふと思い出した。仕事で激務の日が続く中でも、寝る時間を惜しんで美味いお菓子を研究した。出来た日には涙を流してしまうほどだった。


「行ってきます」


 黒木は家に残る彼女に声をかけた。返事を聞かないまま、扉を閉めた。ロックが自動で何重にも閉まる音がし、家の中は静かになった。近くで鳥の囀りが響いた。山を降りるため唯一の道を進むと、緑の香りがどことなくした。落ち着かせる爽やかな香り。これが実は菌の香りと誰が思うだろうか。


 朝方は少し冷えるとしても、自然を愛でることが出来るのなら良かった。休みの日までも呼んでくる友が、一番悪いのだった。きっと目覚ましの役割のために叩き起こされたんだ、と黒木は強制的に結論付けた。時間のことを考えずに、ゆっくり歩けるのは良かった。日に日に季節の色を見せる自然ほど、人工物で勝る物はなかった。


 黒木は自然を汚している後ろめたさを抱えながら、見なかったふりをした。産業廃棄物を捨てている訳ではなく、本来あるべき自然に還しているだけだった。

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