MADNESS

影冬樹

プロローグ DARKNESS

 黒いコートをはためかせながら、黒木は一人夜道を歩いた。


 雨が傘に当たる音が響き、水は靴の中まで入っていた。前を歩く者は誰もおらず、背後を歩く気配もなかった。車が時より通ることはあったが、後は雨音だけが響く。小雨が顔を少しずつ濡らし、濡れた靴が足を冷たくしていった。水溜りに歩く自分の姿が映った。


 黒い傘を差す様子は景色に溶けていた。そのままどこかの陰に引きずり込まれても、誰からも気付かれることがないように。


 軽かったはずの鞄は、石が悪戯で入れられたように重くなった。丁度その刹那、視界の端で何かが通り過ぎた。その正体を目にすることは出来なかった。



 古い蛍光灯が切れたのか、その場は闇に包まれた。すぐに明かりは戻った。だが、背後から歩く足音がした。遠くから近付いてくるのではなく、突然近くに何かが出現した。小さな足音と大きな足音を、何度も交互に立てながら遊んでいた。


 確実に足音は背中に迫り、音が消えた。


 蛍光灯がまた切れた。



 直ったと思えば、目前に青白い生首が浮いていた。苦しそうな表情のまま、整っていない長髪。何かから逃げてきたかのように千切れていた。女の目は大きく開かれ、怒りを表していた。その切断面からは血が流れ、水溜りを赤く染めていた。何かが飛んできた。傘で防ぐと、傘の先から赤い液体が垂れた。


 顔に付いたのを手で触ると、まだ温かく粘り気があった。血だった。



 傘から血を滴らせながら、黒木は歩いた。傘が血を流しているかのように、流れる物が途切れることはなかった。歩く毎に一緒に振れる、傘を止める部分から血が飛ぶ。それが服を汚しているようだった。


 ふと自転車屋の大きな窓を覗くと、反射した女と目があった。女は首を真後ろに捻らせると、更に血を噴き出しながら笑みを浮かべた。


「シネ」

 と、耳が腐るほど、女は何度も繰り返した。


 目から光を失わせると、女は歯を鳴らしながらせせら笑った。窓に血で手形がくっきりと付けられた。ガラスに抉るようにヒビが出来た。女は胸元に顔を押し付けると、黒木の首に這い上がった。


 首元を噛むと、歯型を何度も執念に残した。噛まれる毎に首元から血が流れた。傷口から痛みと熱さを覚えた。


 女をはたき落とすとすると、背後に回られた。背中も血で汚され、手と腕に噛み跡が何個も出来た。


 指を噛み、垂らした血に誘き出された女の髪を掴んだ。その顔を靴で蹴ると、地面に踏み潰した。女は醜い悲鳴の後、呻き声を上げた。顔の皮膚が剥がれていき、下の肉だけになった。次第に骨となり、女は灰に散った。



 黒木は顔を上げた。照明のない黒い店内の壁には、目玉が何個も蠢いていた。生き物のように、見下ろしていた。天井から垂れる血が、床一面を血地獄にしていた。


 一瞥すると、元の道をまた歩いた。肩を叩く手と、足を握り締める手が付いてきた。肩の手は爪を立てると、肉を削るように力を込めていた。足についた手は足を離さまいと、足枷のように絞めていた。鞄から垂れる血が服と靴を汚し、胴体でも入っているようだった。


 降ってきた足を踏み潰して避けると、前を進んだ。後には潰れた足から流れた血が残った。



 目前を一人の男が歩いてきた。真紅かのように、血で染めた服を身に纏っている。傘で顔は見せなかったが、男が傘を放ってしゃがみ込んだ。歯を見せながら、目より上のない顔で笑みを作った。


 黒木に近付いて、黒木の顔を手で包んだ。頬に血の跡が付いた。男が髪を撫でると、視界が赤くなるほど頭は血に浸かった。男は自分の服を引き裂くと、心臓のない胸を見せた。


 黒木の髪を掴むと、開いた胸の穴を鼻の真っ先に置いた。自分の胸の穴から血を拭うと、黒木の眉を色付けた。



 そのまま来た横の衝撃で、黒木は地面に倒れた。口から吐き出された吐瀉物が地面を汚し、黒木は床に転がった。


 空には赤い月だけがあり、他は闇に覆われていた。立ち上がる気力さえなかった。


 男は覚束ない足で黒木の上に乗った。腰に乗られた重さに息を吐いた。足首に冷たい何かが巻き付いたかと思えば、動かせなくなった。誰かの手が黒木の足を拘束していた。


 足に何かが突き刺さり、黒木は奥歯を噛んだ。男に腕も横に伸ばされ、磔にされていた。視線を横に移すと、地面から生えた赤い鎖が手首を縛っていた。金槌を持った男が黒い突起を掌に叩き込んでいた。


 声を上げようとすれば、男が口を押さえた。鼻も摘み、意識が遠のく直前まで離さなかった。どこかから現れた首の女は、首元に顔を埋めていた。


 咀嚼音と血を啜る音がした。


 男は黒木の首に手を回すと、目を輝かせながら込める力を強くした。必死に抵抗しようにも、手足の傷口が広がるばかりだった。首の骨をしゃぶられる感覚がし、気が狂ったことに気付いた。脳内を弄られているような感覚がし、気味が悪かった。


 男は黒木の顔に近付くと、黒目を歯で噛んだ。男の口の中が見えたと思えば、片方の目がなくなった。


 視界が真っ赤に染まり、温かい血が頬を流れるのを感じた。


 その血はもう片方の目にも染み、黒木は何も見えなくなった。全身から痛みが絶えず送られ、黒木は声を上げることも出来なかった。


 男は黒木の口を手で抉じ開けると、口移しに黒木の目の一部を渡した。嫌悪感で吐き出そうとすれば、男が黒木の口を閉じた。針と赤い糸を手に持つと、黒木の口を物理的に縫い付けた。身を拗じらせうとすると、男は黒木の頭を押さえた。ナイフを首に突き付けてから、額に何かを彫り出した。それが終わると、ナイフで黒木の服を裂いた。誰かが背後から黒木の頭を上げ、その様子を見せ付けた。


 一つ一つ切り裂きながら、服はただの布と化した。男はしばらく悩む動作をすると、視界を失った黒木の目の上を縦に傷付けた。ナイフで切られた痕が風に吹かれて痛んだ。男は傷を揉み、指で傷口を掻き回した。


「タノシイ? タノシイダロ?」


 黒木の首を絞め上げると、叫んだ。

「タノシイトイエ、シニゾコナイガ」



 黒木は涙を流しながら、抵抗を止めた。


 朦朧な意識のまま動かずにいると、男は黒木の胸に耳を置いた。手で馴染ませるように撫でると、ナイフを深く突き刺した。烙印を押される痛みがした。ナイフは肉を切り裂きながら、黒木の心臓を探そうとしていた。


 男は大きく胸を開けると、取り出した心臓を空に掲げた。



 黒木の心と体が同時に死んだ。


 男と女のことを黒木は知っていた。今更、このような形で殺した者と出会うとは思わなかった。まさか、化けて出られるとは。



 二人の死に様を忘れたことは、一度もなかった。

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