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 山を出た時には、黒木は雨に濡らされた。道中雲の色が濃くなり、天気が怪しそうではあった。雨に打たれながら、黒木は目的地まで進んだ。防水のコートだったため、中が濡れることはなかった。ただ前髪が雨で平たくされ、顔が冷たくなるだけだった。きっと干していた洗濯物も、機械によって回収されていた。友がせめてでも、近い場所を待ち合わせにしたのが良かった。


 黒木は他のどの天気よりも、雨が好きだった。濡れることはあるとしても、傘や窓に当たる雨音は聞いていて心地良かった。雨が体を冷たくさせるのも、生きている温かさを教えてくれるようだった。雨以外にそれを教えてくれる天気はなかった。生きにくい晴天よりも、陰に隠れられる方が安心出来た。濡れても風邪を引かないように気を付ければ、誰かの邪魔をする訳でもなかった。びしょ濡れで誰かに会うこともこれまでなかった。


 小さい時には雨が天敵だったが、今は大丈夫だった。それが人のふりをしている演技だと思われたとしても、黒木は自分が生きたいように生きることにした。誰かに構うのは嫌だった。自分を守れなくなり、やがて自滅する未来しか残っていなかった。もうあの日々には何が何でも戻りたくなかった。連れ戻されるのなら、下を噛み切れるほどに。だが、その前には銃かナイフで死んでるのだった。


 待ち合わせの廃墟に着くまで、黒木は誰とも会わなかった。時に車が通り過ぎることはあるとしても、簡素な田舎の住宅街はそもそも住人が少なかった。限界集落と化している村は、山奥なら多少の音が響いてもばれることがなかった。



 細やかなイベントが開催された時のことを、黒木は空を眺めながら思い返した。


 兎を追う狼として、リアル鬼ごっこは中々なものだった。必死に逃げる兎を噛み裂くと、その生き血を頂いた。天に感謝しながら、瀕死で弱々しく鳴く兎の喉仏を横に切った。その味はこれまで食べた肉の中で、最高級だった。恐れられて他の兎が出て来なかったので、黒木は森中を狩った。


 ゲーム終了後、ゲーム中に邪魔をしてきた男の足を引きずりながら、スタート地点に戻った。すると、主催者の護衛の一人が武器を取り出そうとしたので、黒木はその場にいた全員を地面に倒した。主催者は最期まで謝罪していたが、それなら部下が動かぬように教えるべきだった。そのまま彼らは仲良く土の下にいた。


 黒木としてはそれ以来、パーティーの招待がぴたっと止まったので残念がった。無料で遊べるゲームとして重宝していたからだった。



 錆び付いたフェンスを開けると、黒木は敷地内に侵入した。足元の土が雨で泥となり、踏むと音がした。建物の裏に回り、黒木は備え付けられた梯子を登った。軋む音を聞きながら登り切ると、腰を付けた。二階から目下に広がる景色を楽しんだ。村の最高峰の山に捨てられた、この廃墟は展望台として役に立った。点に見える車が道を通り、遠くの海が微かに見えた。黒木はフードを下げると、静かな雨を楽しんだ。隙間から入った風が黒髪を靡かせた。


「冷たいな」

 と、呟くと体を丸めた。


 ここでもし死んだら、自然に還されるのだろうか。それとも、この捨てられた建物のように、置き捨てられるのだろうか。何が正しいのかは分からなかった。意味のないことであるとしても、冷たい心を温められる気がした。氷のように冷え切った心は、雨が降る外の気温よりも冷たかった。偽物の感情だとしても、人らしく悩むことがあった。どれが演技か、黒木は自分でさえ分からなかった。自分が本当は誰で、本当は何をしたいのか。常に疑問だけが頭を埋めた。足音がし、黒木は座り直した。何事もなかったかのように、無表情が完成した。


「よう、黒木」


 片手を上げながら、戯けた表情と共に男が顔を出した。


 数年前に三十路を迎え、いつまでも現役を走ると意気込んでいた。ただその頭髪は確実に少しずつ減っていた。だが、本人に指摘するつもりはなかった。本人が一番気にしているからだった。怪我をする前に勇退するのも、いつか必要となる決断だった。不自由な体では狙われても、死を待つしか出来なくなる。そうなった場合は止めを刺しに行くと決めていた。


 黒木はここで男を撃てば、面白いほどにひっくり返りながら倒れるのだろうか、と考えた。蛙のように転がり回ってから逝くなら、見甲斐があった。だが、一々それをすることさえ面倒だった。黒木は顔を横に向け、男を無視した。


「おい、黒木。無視するのか? そりゃあ、お前からすれば俺は下っ端で、仕事も下手だ。だが、これを誇りに思ってるんだぞ」


 友である男がいつまでも喋る気がし、黒木はそれだけで萎えた。無駄なことをする者など不要だった。絶対にこの男は口から先に生まれたのだった。目を細めながら、黒木は溜め息を付いた。


「埃でしかない誇りの話か、静蛇?」


 友、静蛇は黒木の言葉に胸を押さえた。

「辛辣……。俺に何個命があっても、持たないだろう。まぁ、良いさ。殺されないだけありがたい、と」


 大根役者を黒木は無視した。ただ一定数は評価していた。静蛇は死ぬ演技と死体役だけは上手だった。それをこれまでの仕事で理解していた。


「変なことをするためだけに呼んだのか? 休みの日に家から引きずり出された、こっちの身にもなれ」


「まぁ、そんなに怒るなよ」

 と、静蛇が黒木の背中を叩いた。


 叩かれると思っていなかった黒木は、前屈みに倒れそうになった。その様子を静蛇は笑うと、手に持っていた紙袋を開けた。中からフライの良い香りがした。ジャンクフードの匂いは強烈だった。黒木は突然腹が減った気がした。静蛇は笑みを浮かべると、口を開いた。


「美味しそうだろ? これは俺が一人で食べるより一緒の方が良いと思ったんだ。お前も勝手に食べられると嫉妬するだろうし。それと、これを作ってくれた人も黒木の素材が良かったと、何度も褒め千切るっていたぞ」


 素材と言われ、黒木は何のことか思い出した。その場で食べれなかった兎を、地下の業務用冷蔵庫に保管していた。最高品質を維持し、美味しさを追求していた。美味しさを布教するためにも、数匹分を静蛇に譲ったのだった。


「そこまでじゃないよ。最初から美味しい物だったから、良いのになっただけだ。食べて良い?」


「どうぞ」

 と、静蛇は黒木に紙袋を差し出した。


 兎の脂を使ったポテトや、肉で出来たカツ。家で調理出来ない料理を食べ、黒木は滅多にしない外食気分を味わえた。特別な食べ歩きのようなものでもあった。もし、静蛇と一緒でなければ心が踊ったかもしれなかったが、真相は分からなかった。


「美味しい」


「そうだろ?」


 黒木が素直に溢すと、静蛇は自分ごとのように喜んだ。食べるのが好きな静蛇に任して良かった、と黒木は納得した。自分なら信用出来る人を探し、作るのを任せることも出来なかった。中々出回らない人肉を扱うなど、家の中以外では危ない橋をわざと渡っているのだった。


 腹を軽く擦ると、黒木は食後の締めにポケットからお菓子の袋を取り出した。手作りの飴が入っていた。袋を手で破ると、口に飴を投げた。入った瞬間にはしゃぎそうになったのは秘密だった。これまで成功しなかったことを、静蛇は知らない。飴を舌で軽く転がすだけで、包まれた旨味が口の中を染めた。


「何美味しそうなの食べてるんだ? くれよ、捨一」


 下の名前で呼ばれ、黒木は静蛇を殴らなかった自分を褒めたくなった。親は一番捨てたい物として、その名前を付けた。最初に考えてた凶死は役所から却下されたため、仕方なく引き下がり別のを付けたのだった。黒木からすれば名前は禁忌だった。


 なのにそれをわざわざ言ったのなら、殺されても言った方が悪かった。何か危ない気配を感じた静蛇は、後退った。意図してかは分からなかったが死角に入られたため、黒木は舌打ちをしたくなった。ポケットに手を入れると、静蛇に一つ投げた。静蛇は凶で目を瞑った状態で、袋を捕まえた。それがお菓子の袋と知ると、あからさまにほっとしていた。黒木は一応、地雷を踏んだことを理解しているのだ、と分析した。


 静蛇は飴を口に入れると言った。

「ありがと」


 ぼりぼりと砕ける音がし、黒木は静蛇が飴を噛んでいることに気付いた。飴を噛む人は間違っていた。黒木は悪いことをしている自覚のない、静蛇に呆れた顔をした。静蛇は満面の笑みを浮かべると、ポケットから煙草を取り出した。ライターを付けると、紫煙を燻らせた。悪い煙が肺に溜まり、外に漏れ出すのだった。黒木は体を横に滑らせ、静蛇から離れた。


 白い煙を竜のように吐きながら、静蛇が言った。

「嫌な煙か?」


「どうだろうな」

 と、黒木はズボンのベルトに手を置くと、景色を眺めた。


 気付けば雨が止み、空の向こうには虹が架かっていた。涼しい風が濡れた顔を撫でた。湿気でじめじめした天気よりかは、吹く風が気持ち良かった。この場所でいつまでも眺め続け、他のことを全て忘れたくなるように。


 この景色のように現実も一面だけしかなかったのなら、裏を探る必要などなかった。この景色も人ならハサミで切り取り、家に飾ってしまうのだろうかと考えた。人はただ地球に生きているだけで、頂点に立っている訳ではなかった。だが、欲深い人はそれを履き違えるのだった。


「静かだな……本当に」


「あぁ」


 静蛇は頷くと靴で煙草を消していた。感傷的になっている黒木は、ふと自分の靴を眺めた。きっと赤い絵の具がいつまでも垂れているのだった。だが、それは結局の所錯覚でしかなかった。上下する自分の胸を感じながら、黒木は隣の気配に問うた。


「仇探しはどうだ?」


 黒木は静蛇が両親を殺した仇を探し続けていると知っていた。血眼になって探しても見つかっていなかった。親は残酷にも顔がなくなるほど、何度も弾丸を撃ち込まれた痕があった。遺体と面識した息子の静蛇でさえ、最初はどちらがどちらか分からなかった。全身が真っ赤に染められ、元の服の色は分からなかった。


 静蛇は目を真っ赤にしながら、首を横に振った。


「……まだ見つからないんだ。幾ら探そうとしても、どこにもいない。痕跡もないんだ。俺はただ親の敵を討ちたい。殺した役が憎くて仕方がない」

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