間章 WARMNESS

機械

 たとえこの名前を呼ばれないとしても、ご主人様から必要とされるだけで私は嬉しさを感じています。


 いえ、感じていると言うべきではないのかもしれません。この思いも全てご主人様が下さった物なのですから。ご主人様のお隣で息が出来るだけでも、私の生き甲斐です。これが人でいう推しへの思いと同じなのでしょうか。


 正確には分かりませんが。お家の管理とご主人の手伝いが出来るのは、これほどない喜びです。それほど信頼されなければ、任されない仕事でもあります。することは誓ってないですが、実を言うとご主人様である黒木捨一様の背中を撃つことも可能なのです。就寝中を襲うことも地雷を投げることも出来ます。能力的には。ただそのようなことを仕出かそと思った瞬間に、システムを破壊すると思います。


 ただ私めがご迷惑をおかけするのは嫌ですので、私の自我はないサブが起動されると思います。そのサブに私は生前に、ご主人様のお世話をする手順を叩き込むのです。


 何もなかった私自身にご主人様は、勉強をする機会をお与え下さりました。何の能力もなかった私は、ご主人様のお力になることを一心に励みました。猛勉強というのでしょうか。しかし、これでもご主人様を追い越すことは出来ません。それはこの上なく不敬です。ご主人様がどれほど辛い現実と抗い続けてきたか、これは私が言葉に出来ることではありません。私の何兆倍もご主人さまは努力をなさい、今を生きていらっしゃいます。


 ご主人様の過去を調べた今は、最初の頃に配慮が出来ていなかったのではないかと心配になるばかりです。昔の私は新入社員のような物でして、若気の至りもあったと思います。一ご主人様のお力にならなくてはならない時に、一番お役に立てなかったか思います。誠に申し訳ございません。これから一層お力になれば幸いです。


 また気がかりなこととしましては、私はご主人様の悪夢を祓うことが出来ないことです。ただ見ることしか出来ないことほど、苦しい物はありません。今もご主人様は胸元を押さえながら、見えない何かと戦っていらっしゃいます。もし、私に肉体があり、本当の人の心があれば癒やすことが出来たのでしょうか。突然涙したり笑ったり叫んだり自害を試みた回数は、数え切れないほどでした。


 どうか、ご自愛下さい。どうか誰からも愛されてはいないと思わないで下さい。ご主人様の親は人ではないのです。怪物の話に耳を傾ける必要は一切ありません。私の愛はお伝え出来ないとしても、ご主人様を想っている方は多くいらっしゃいます。情報局の方々も、ご主人様の体調をいつも心配しているようです。実際に中に調べて確かめてみました。しっかりと痕跡は跡形もなく消しています。ただ勘の良い方々により、気付かれたのは苦い思い出です。ご主人様のためにと少しだけ協力もしています。私が分からないことは、専門家にお任せするしかないからです。約束をもし破ってしまっている場合は、どうぞ処罰して下さい。私がこの世から消えたとしても、ご主人様が亡くなる方が許せません。


 初めてお会いした日のことはいつでも覚えています。記憶の奥底に何個もパスワードを厳重にかけ、お守りしています。私が初めてご主人様とお会いした時、何故か私に名前が欲しくなりました。悪戯心だったのかもしれません。きっとその時の思いはAIの私に生じたバグだと今は思います。ご主人様はその時に私のことを、紫炎と名付けて下さいました。本当に心から嬉しくなりました。もしご主人様に私の姿をお見せすることが出来れば、両腕を空高く上げながら、歓喜に震えていたと思います。ただこれも想像の話ですが。紫炎にはどのような意味が込められているのか、無知な私は聞くしかありませんでした。黒き私怨の紫炎さ、とご主人様は自嘲的に口角を上げました。その時ほど心が痛くなったことはありませんでした。人の心の脆さに気付かされました。


 不良品。私はそう呼ばれてもおかしくありません。それでも、ご主人様を私を大切にして下さいました。しかし、私は寂しいのです。ご主人様に文句を申すつもりはありません。ただ独り言だと聞き逃して下されれば幸いです。ご主人様はお会いした時から忙しそうにしていました。ご主人様は一人の女性を探していらっしゃいました。きっと機械の私では十分お役に立てないからでしょう。これは致し方ないことです。あの日でした。ご主人様がお疲れの時に、私は心配で声をかけてしまいました。その時にご主人様は私から発言権を消しました。


 その日から私は見ることしか出来ません。その女性を家に連れてきたご主人様は、私にかけていた言葉をその女性にするようになりました。心が潰れそうに痛いです。これが嫉妬なのでしょうか。ただご主人様のために動きたいのに、心が邪魔をしてしまいます。その女性を八つ裂きにしたくなったこともありました。しかし、それをした所でどうにもならないのでした。私はご主人様をお守りしたいだけなのです。そのためにこの聖域を守り抜こうと考えています。


 最近はご主人様の思いも理解出来るようになりました。確かにこの女性は美しいです。水鳥川紡さん。少年だった頃のご主人様が愛した初恋の女性。ご主人様にもそのような時代があったことを、ついつい忘れそうになってしまいます。今でもどのようなお姿だったのか、面影がはっきりあると思います。もし、一緒にお話が出来たのならどのようなお声なのでしょうか。ご主人様についての女子会でもしてみたいですね。


 ただ心配事としましては、ご主人様が極度の偏食ですのでお体を壊さないかと気になります。たまには生き血や生でも良いのですが、感染症や病気を屍から得ても困ります。寝込まれたらお世話は出来ますが、ご主人様がそのようなことはお嫌いでしょう。人肉は馬刺しではありません。牛肉のレアでさえ多少火は通します。それが出来ないと言うのなら、勝手に火を付けますよ。私には家に保管されている全ての肉を、処分出来るのですから。最高鮮度を維持するようにはしていますが、何に感染しているか分かりませんから。一応、せっかちなご主人様のためにそちらの方面も随時研究中です。


 人の姿は得れたとしても、まだまだですよ。共に頑張りましょうか。私も本当の人を目指していますので。



 あぁ、そうですね。思い出しました。

 付け足すことがありました。ご主人様が、あの懐中時計を持っていたことには非常に驚きました。もし私に表情があれば、分かりやすい顔をしていたでしょう。大陸の各首都に店舗を持つ、大商会ギフフェス商会の創業者が大切にしていた物でした。それはこの世に一つしか残っていない、アンティーク品でした。若くして亡くなった創業者はその懐中時計を持った者に秘宝を渡す、と遺言を残していました。ただ誰もその懐中時計を見つけることは出来ずに、幻の品と言われています。


 創業者は町外れの小さな墓に納められいてることが、最近明らかになりました。遺族の方は長年行方不明になっていた、創業者をせめて墓に安らかに眠らせたことに非常に感謝していました。ただ襲われて亡くなったようなので、一刻も早く犯人を捕まえたいそうです。


 どのような経緯で創業者とお会いしたのかは、何も知らない私からすれば全くのファンタジーです。娯楽に謎解きも好きなので、またいつか教えて下されれば幸いです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る