赤の他人


 ふとした瞬間に思い出す幼稚園の記憶。


「エリちゃん待ってよ! 置いてかないでよ!」


「あんた本当にすっトロいわね! 妹の方が体力あるじゃん」


「兄貴は馬鹿だからしょうがないよ。ほら、泣きそうになる」


「あはは、マジでキモいじゃん」


「うん、いなくなればいいのに。はぁ、そうすれば家族みんな仲良くなれるもん」


 それは温かいものではない、苦いものであった。


 失われた中学生から現在までの記憶。ろくなものではないと推測することができた。


 記憶を失うと『スキップ』した感覚に陥る。

 小学校を卒業していきなり高校二年生になった。

 普通の人なら戸惑うだろうし、頭が混乱するだろう。


 俺にとって大した問題じゃない。小学校の頃の記憶が戻ったから。




 ****




 妹が用意した服を着込んで俺たちは会場へと向かった。


「うん、いい感じのエクザイル系じゃん。これなら気合い負けしないっしょ」


 なにやら妹の様子がおかしい。こいつは俺をぞんざいに扱う女だ。

 俺にメモにはそう書いてあった。毎日のように馬鹿にされていたはずだ。

 幼稚園の頃から変わっていない。


「な、なによ。こっち見ないでよ。キモ……、別にキモくないけど、恥ずかしいからやめてよ」


「腹減ったな」


 何か凄まじいエネルギーを使った気分だ。きっと記憶が消えたからだ。


「あ、あのさ、エリは……」


「そうだ、ラーメンでも食べるか。駅前の『龍砲』という店がうまいみたいだな」


「え? そこって大分前に潰れたじゃん……。てか、中学の頃エリといつも行ってた場所じゃん」


「そっか、忘れてた」


 余計な事は喋らない方がいい。というかエリって誰だ? あの幼稚園の頃の幼馴染か? 今でも付き合いがあるのだろうか?

 とりあえず早く終わらせて家に帰って状況の整理をしよう。


 ……妹って本当に俺の妹なのかな? なんだろう、家族としての愛情ってもんが何も浮かばない。


 よくわかんないな。




 ***



『今夜、このブレイキングアップで一人の化け物が誕生した!! 格闘技経験ゼロの素人ながら前人未到の参加者全員をぶちのめした男! いきなり全員に宣戦布告して喧嘩を売りつけた! その理由はなんと早く家に帰りたいから、という自己中心的なものだ!! この男、ゆうたは――』


 おかしな気分だ。自分が画面に映っていて戦っている姿を見る事は。


 一夜明けた翌日、俺はとりあえず普通に学校へ行ってみることにした。

 教室に入った瞬間、スマホを持ったクラスメイトが俺を取り囲んだ。


「おい、ゆーた。すっかり有名人じゃないか。マジですげえよ!?」


「馬鹿にしてゴメンな。ていうか強いなら早く言ってくれよ。お前の取り柄って真島さんと付き合ってるくらいだろ」


「あ、あのさ、私達と一緒にご飯食べない?」


「馬鹿、エリに殺されるぞ」


 メモと日記に書かれてあった俺はどうやらこの教室では底辺のはずだ。

 いじめられているわけではないが、馬鹿にされていじられていただけだ。


 記憶がなくなったからといって、一般常識や知能がなくなったわけじゃない。

 身体に染み付いた知識は決してなくならない。


 人との記憶や思い出が消えただけだ。


 日記によると俺は大人しくて暗くて、俗に言う陰キャという生徒だった。

 そんな俺に普通に話しかけてくる生徒は皆無。

 俺には彼女らしき人がいるらしい。


 だがそれも罰ゲームか何かで付き合った本当の恋人じゃない。


 最後のメモには走り書きで『別れた』と書かれてあった。




「ちょっと、ゆーた、拗ねてないでこっち向いてよ」

「そうだよ、てめえ有名になったからって調子乗るなよ」


 俺はクラスメイトの言葉を無視して昨夜の事を振り返る。


 俺は記憶を失った。覚えているのは小学校の頃までだ。


 俺は小学校の間は家族と一緒にいなかった。家族と一緒にいた記憶は幼稚園で止まっている。

 現在、高校生二年生である俺は家族と一緒に住んでいる。


 家族には……あまりよく思われていないみたいだ。

 まあ、今一緒に住んでいる家族とは血が繋がっていないからな。連れ子の俺の本当の母さんは幼稚園の頃死んだ。

 俺はずっと一人ぼっちだ。


 ……詳しく調べる必要もない。家族の態度を見れば一目瞭然だ。


 俺が記憶を失ったからって、家族は何の変化もない。気がついていない。

 無関心だからだ。


 昨日部屋を漁ると、色んな物が出てきた。

 その中には通帳があった。俺名義のそれには多額の残高が記載されていた。


 ……多分、あの家を出ていっても問題ないはずだ。十年は楽に暮らせる。学費も自分で払えばいい。


 保護者というものが必要だが、名目上いれば問題ない。


 学校も無駄に知り合いがいるからいなくなった方がいい。面倒事は嫌いだ。

 あれだな、記憶を無くすと結構面倒だな。


 どっか引っ越してイチからやり直した方が手っ取り早い。


 なんの未練もない。俺が知っている人間はこの街には誰もいない。


 俺の日記には高校に人間関係図が書いてあった。が、名前と顔が一致しないから役に立たないし、必要もない。


 どうせ嫌われているみたいだしな――。



「おいおい、無視すんなって。だから〜、ごめんって言ってんだろ? あっ、ユキちゃん、ちょっとこっち来てよ! なんかこいつ変なんだ」


 顔を上げるとそこには勝ち気そうな女の子が立っていた。


「うん、ちょうど良かったよ。私も優太に話があるの。……ねえ、エリと別れたって本当? 昨日、エリが泣きながら電話してきたのよ」


 教室がざわついている。嫌な気分だ。記憶が無くなる前の俺は何をしたんだ……。エリって幼稚園の頃の幼馴染か。

 ……好きだったのか? むしろ嫌いだったような気がする。


「ああ、うん、多分別れたんじゃね?」


「はっ? 適当な事言わないで。あんたが振ったんだでしょ」


「だから、覚えてねえんだよ。ていうか、お前だれだよ?」


「……冗談も大概にして。あなた同級生の顔も忘れるほど馬鹿だったの?」


「ああ、そうみたいだな。悪いけど名前から教えてくれ」


「あなた有名人気取り? ちょっと配信出たくらいで……、はぁ、サイテーな男ね」


 あれだ、話してもどうしようもない。……やっぱ知らない学校に来るもんじゃねえな。


「だから、俺とお前はどんな関係だったんだよ……、記憶が無いからわかんねえんだよ。名前がわかんねえとメモで確認できねえんだよ」


「メモ? ……はぁ、小西雪よ」


 小西と名乗った女子生徒はほんの少しだけ真面目な顔になった。

 俺は気にせずメモをめくり小西の欄を確認する。


「あったあった、えっと……、小西雪、バレンタインデーにもらったチョコには唐辛子が入っていた。嫌われ度は高い、って書いてあるぞ。友達ではなさそうだな」


「はっ? 優太の分際でなに言ってるの? あんたは私の友達でしょ。他の生徒よりも優しくしてるし」


「……うーん、ちょっと疑問なんだけどさ、なんで俺ってみんなから見下されてるんだ? よくわかんねえんだ。俺たち同級生で同い年だろ?」


「それは……、その……」


「あとさ、なんで話しかけてくるんだ? 俺って嫌われているんだろ」


 教室は静まり返ってしまった。

 いや、別に理由を知りたいだけなんだ。本当によくわからないんだ。

 昨日までの俺がどんな生活をしていたか知らねえ。でも、メモには――


『学校に行きたくない。もう死にたい』


 って書いてあったんだ。


 あの配信に出たからみんなが変わったのか? たったそれだけの事で……。

 まあ学生ならそんなもんか。


 ――何も感情が浮かばない。感情というものは理解できる。記憶を失くした四年間は随分と感情的な人間だったと日記から推測できる。


 だが、今の俺はスキップした存在だ。

 四年間の思い出が俺の感情を欠落させた。小学校の頃で止まっている。





 と、その時教室に誰かが入ってきた。

 長い黒髪が印象的で、地味に見える雰囲気が気配を感じさせない。俺と小西に注目しているクラスメイトたいは気がついていない。


 だけど、俺にとって異質な存在に思える。


堂島菜月どうじまなつき?」


 あの小学校にいた人間なら、『藤堂』と『堂島』の性は別格だ。


「はっ? あんたあのキモい女と友達なの? はぁ、もういいわ、二度と話しかけてこないでよね。優しくしてあげた自分が馬鹿みたい」


 俺は小西の事を無視して堂島菜月を観察する。


 髪で隠れて顔が見えないがどっかで見たことある。

 記憶を失くした俺が覚えているって事は――


 やっぱあの小学校にいたヤツだ。


 心臓がドクンと高鳴った。あの頃の思い出が走馬灯のように思い出す。


 自然と席を立っていた。

 違うクラスの誰かが俺たちの教室に入ってきたが気にしない。


「あ、エリ〜、なんかあいつ変なんだけど」

「ユキ、あたしどうすればいいのかな……。おかしくなっちゃったのあたしのせいなのかな……」

「拗ねてるだけじゃないかな」

「う、うん、ちょっと行って来るね」


 俺は堂島菜月に向かって歩く。

 堂島は近づいてくる俺に気がついているが反応しない。


「あ、あのさ、優太!」

「邪魔だ、どけ」


 昨日の女の子、多分この子がエリだ。面影があるからわかる。だが、今はそれどころじゃない。


 俺は堂島の席の前に座った。

 視線を堂島と合わせる。


「…………記憶消去スキップ感情破壊リセット再構築リスタート


 何故かそんな言葉が勝手に出ていた。これはあの頃の奴らにしかわからない言葉――


「私はリセットよりかな。……。そっか、優太お帰りでいいのかな?」


「遅くなって悪かった」


「うん、許す。今日は帰ろっか?」


「ああ、飯でも食いながらゆっくり話そうぜ」


 理由もわからない感情が浮かび上がってきた。

 これは一体なんなんだ? 心臓の鼓動が止まらない。

 俺は堂島菜月と手を繋いで教室を出ようとしたら、元幼馴染のエリが出口を塞ぐ。


「な、なんなのよ!? あ、あんた優太じゃないでしょ? 優しい優太があたしの事無視するわけないじゃん!! 優太を返してよ……、優太をどこにやったのよ!!! あたしの優太を返してよ!!!! 中学卒業する時、将来結婚するって約束したでしょ!」


 俺と堂島が握っている手を見つめている。

 ……俺たちは特別な仲だ。


 幼稚園の頃に俺をいじめていた女の子とは違う。


「……約束、か。悪いな、中1の時から今までの記憶が無いから分からねえや。かろうじてお前がエリってわかったけどさ。……うん、やっぱ赤の他人にしか思えねえな」


「え……、き、昨日の冗談だよね? ねえ、優太どこやったの。優太は――」


 俺はエリを押しのけて教室を出る。

 感情的になっている人間と対峙するのは面倒な事だ。



 後ろからエリの叫び声が聞こえたが、赤の他人だからもう俺には関係なかった。







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